※本稿は、原丈人『THE BEST WORK 「最高の仕事」を生きる』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。
■十分に商機のある事業計画
目標は立てたとおりには進まない。
私は最初のビジネスを立ち上げたときにそれを痛感した。
1979年、私はスタンフォードのビジネススクールの課題研究で「事業計画書」の書き方を学んでいた。好成績と卒業単位の獲得のため、現実味のある事業計画を立てることが必須だった。
他の学生たちはあくまでも授業の課題として取り組んでいたが、私は本気で事業を興すつもりで取り組んでいた。
考古学研究のための資金づくりをしたかったからだ。
私の事業計画は、「光ファイバー」を大型ディスプレイに使うシステム開発のメーカーを興すというものだった。
当時はまだ液晶ディスプレイも、プラズマディスプレイも、有機ELディスプレイも、研究途上。仮にこれらの技術を用いた画面表示が実現できたとしても、あまりに莫大な費用がかかるし、画面の大きさもせいぜい50インチが限界だった。
家電量販店で10万円を切る価格で有機ELの大型モニタが買える現在から考えると、技術開発から量産までにかかる年月の長さを感じる。
その点、光ファイバーを使ったディスプレイ・システムは当時から技術的にも実現可能で、小型、中型、大型、超大型と容易に大きさを変えられる利点があった。
1970年代から80年代初頭、ニューヨークのマディソンスクエアガーデンなどの街頭広告に使われていた大型ディスプレイは、電球を何千個、何万個も使ったもの。難点はすぐに電球が切れてしまい、練りに練ったキャッチコピーの「J」が「I」になってしまったり、魅力的なモデルの顔の一部が欠けてしまったりすることだった。
これを光ファイバーに置き換えれば、すぐに切れてしまう電球を交換する手間やコストがかからず、電気代も節約できる。
つまり、十分に商機のある事業計画だったのだ。
■計画が行き詰まり、自ら工学部大学院へ
しかし、実際に資本金60万円を用意し、社長は自分と決めたところで、この計画は行き詰まってしまった。
エンジニアリングの担当者がいなかったからだ。
光ファイバーは先端技術で、材料工学、電子工学、光工学の知見のある人材が必要だった。
キャンパスには必要な知見を備えた学生が何人もいた。だが、1980年代初頭、スタンフォード大学工学部の卒業生の年収は800万円が相場。お金のない私には、とても彼らを雇うことができない。
そこで、自分自身がエンジニアの資質を身につけるしかないと考え、工学部大学院に入りなおすことにした。
まわりからは無謀な遠回りに見えただろう。
■最大の問題
工学部大学院では光ファイバーの研究だけでなく、工場経営を視野に入れて製造技術管理も学んだ。
だが、最大の問題は光ファイバーを使った大型ディスプレイの技術について指導できる教授がいなかったことだ。そのため、私はよその学部の研究所に入り込んで、そこの実験室で学んだり、講義として学生に公開されているわけではないカリキュラムに紛れ込んだりしていた。
普通の学生たちが卒業単位になる科目を履修する一方で、自分に必要なこと、好きなこと、やらねばならないと思ったことを優先し、キャンパス内外を飛び回っていたのだ。20代だったからこそできたことだった。
思い出に残っているのは、製造技術管理を学ぼうと見学に行ったカリフォルニア州フリーモントにあるGMの生産現場だ。
工場内は、フライドチキンを食べながら作業する工員、コーラを飲みながら雑談にふける工員など、ちんたらとやる気のなさそうな工員で溢れていた。父や祖父が運営していた工場とは真逆の、秩序なく、だらけた雰囲気。
直感的に「この会社はいずれ落ちぶれる」と思ったが、事実、GMは1980年代から何度か経営危機を迎え、創業101年目の2009年に経営破綻した。
余談だが、私が見学に行ったフリーモントの工場は現在、イーロン・マスクのテスラの自動車を作る主力工場のひとつとなっている。
■ついに会社設立を果たしたが…
そして大学院在学中の1981年、ついに光ファイバー・ディスプレイの開発製造のための会社「ジーキー・ファイバー・オプティクス社」を設立した。本社は私の住んでいる寮で、冷蔵庫が材料の保管庫という陣容だった。
手がけたのは、100メートル×30メートルという超大型ディスプレイ。需要があるのは広告業界だと当たりをつけ、ニューヨークのマディソン街に集中している広告代理店へ売り込みに歩いた。
ところが、何十社回っても受注はゼロ。
新技術への関心こそ示してもらえたものの、本格的な商談にはいたらず、創業資金は底をつき、従業員は辞めていき、事業継続は風前の灯火。事業計画書どおりに事は運ばないどころか、もはや倒産寸前だった。
■ディズニー副社長から驚きの発注
そんなとき読んだのが、ヒューレット・パッカード(HP)の創業者ビル・ヒューレットとデイブ・パッカードの自伝『THE HP WAY』だった。
そこに書かれていた創業に至るいくつものエピソード以上に、私の目に飛び込んできたのは次の事実だ。
「ディズニーランドは夢のある世界をつくり出すために、新しいテクノロジーを積極的に取り入れている」
これかもしれない⁉
私は、最後の望みを託してウォルト・ディズニー・プロダクションへ営業に向かった。同行者5名分の飛行機代がなかったため、シリコンバレーから車で5時間かけてロサンゼルスへ。
ディズニーランドのバーバンク開発センターで数名の前でプレゼンテーションを行うと、具体的な質問が続出して議論は白熱していった。
すると、ずっと私の話を聞いていた一人の男性がこう言った。
「とてもおもしろい。次はいつ来るんだい?」
なんとヴァイス・プレジデントのビル・ノビーさんだった。興味を示してくれたのだ。
そして2度目のプレゼンの後、1000万円を超える発注をしてくれた。こうして私はミッキーマウスやドナルドダックなどのキャラクターを映し出す大型スクリーンや、屋内で打ち上げ花火の効果を出すための装置をつくることになったのだ。
「やった‼」
私は飛び上がらんばかりに喜んだ!
苦労が報われた瞬間だった。
■「前金として3分の1を払うよ」
ところが、シリコンバレーに戻ってから、我に返った。
注文が大きすぎて、材料を買う資金が足りないのだ。翌日、私は再び5時間ハンドルを握ってロサンゼルスへ戻り、預金通帳を見せながら頭を下げた。
「手持ち資金で賄える範囲の注文量に減らしてほしい」
するとノビーさんは驚いた表情で「ちょっと待っていなさい」と部屋を出て行った。
「前金として3分の1を払うよ」
経理部門と交渉してくれたのだろう。
だが、私はそれまでそんなに大きな金額の小切手を見たことがなかった。驚いてしまって、間の抜けた質問をしたのを覚えている。
「この小切手を銀行に持っていったら現金が引き出せるのですか?」
ノビーさんは微笑んで、窓の外を指さした。
「目の前の通りの向かいの銀行でも、君のオフィスの近くでも、どこの銀行でも現金化できるよ」
「だけど、もし私が持ち逃げしたら……とは考えないのですか?」
そう聞くと、彼は私の目をジッと見て、穴が開くほどジッと見つめてからこう言った。
「何千という業者を見てきたが、君は私を騙すような人間ではない。目を見ればわかる。つまらないことを考えていないで、早く帰って仕事をしなさい」
なんという大きな人物なのだろう。私は一瞬で魔法にかけられたような気持ちになった。これがディズニーなのか……。
帰り道の運転は大変だった。
何度も熱いものがこみ上げ、視界がにじんで仕方なかった。
自分はなんと幸運な人間なのだろう。私も事業で成功したら、同じように若い人を支援しよう。ハンドルを握りながら、そう決意した。
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原 丈人(はら・じょうじ)
ベンチャーキャピタリスト
1952年、大阪生まれ、慶應義塾大学法学部卒。財務省参与、国連政府間機関特命全権大使、ザンビア共和国大統領顧問、米共和党ビジネスアドバイザリーボード名誉共同議長など国内外で公職を歴任。2013年から日本の内閣府参与。
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(ベンチャーキャピタリスト 原 丈人)

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