■元プロスノーボーダーがコメ業界を切り拓く
新米5キロ、1万5000円。この価格で、すでに「在庫わずか」と告知しているコメ農家が、新潟の南魚沼にいる。関農園5代目、関智晴さん40歳。後に詳しく記すが、コメ業界では知らぬ者のいない若きレジェンドだ。
2025年の年末から今年の年始にかけて、全国のスーパー約1000店で販売されたコメ5キロの平均価格は4416円(税込み)で、過去最高額を記録した。その3倍を超える価格でも国内外から注文が絶えないコメを作り上げた男は、元プロスノーボーダーでもある。
20代半ばでスノーボードからトラクターに乗り換えた関さんはいま、約20ヘクタール(約140枚)、東京ドーム5個分の田んぼを管理している。後継ぎのいない同業者の田んぼを引き受け、徐々に耕作面積を広げてきた。
「これまではコメが安すぎて、コメ農家がまったく儲かりませんでした。
かつての関農園も、同じ状況だった。コメ農家の苦境もポテンシャルも知る関さんは、どうやってコメ業界のバックカントリーに挑み、切り拓いてきたのだろう?
■スーツを着る仕事に憧れた少年時代
関さんが子どもの頃、冬の自宅は石打丸山スキー場にあった。両親がゲレンデの中腹で宿泊施設を兼ねた食堂「モンブラン」を営んでおり、スキーシーズンは一家で住み込んで働いていたのだ。関さんも、物心ついた時にはカレーやラーメンを運んでいた。
「学校に行く時はスキーで下まで降りて、知り合いの家にスキーの板を置いて、そこから歩いて通っていたんです。学校が終わると、リフトに乗って食堂に帰りました。両親はとにかく忙しかったので、食堂にいる時はよくお客さんと一緒にスキーをしていましたね」
冬が終わると、コメ作りが始まる。当時はまだ機械化が進んでおらず、特に田植えや稲刈りの時期には、祖父母や両親が早朝から深夜まで働く姿を見てきた。家族が一息つくのは、稲刈りが終わった後の短い期間だった。
それでも、関さんが小学4年生からミニバスケットボールを始めると、両親は仕事の合間を縫って送迎をしてくれた。当時は汚れた作業着のままトラックで迎えに来る両親を恥ずかしく思い、スーツを着て会社員をしている同級生の親に憧れたという。いつしか、「農業は一番やりたくない職業」になっていた。
■365日スノーボードに明け暮れた
関さんがスノーボードに出会ったのは、15歳の時。プロスノーボーダーのチーム「スクローバー」が石打丸山スキー場とコラボしてスノーボード用のパークをプロデュースした際、メンバーの佇まいや颯爽と滑る姿を目の当たりにして、惚れ込んだ。
「めっちゃかっこよくて、俺もプロになりたいと思いました。それが中3の冬で、バスケ推薦で高校も決まっていたんですけどね。バスケはチームプレーが重要で、ひとりでは勝てないじゃないですか。スノーボードはひとりでできるし、かっこいいし、滑ってみたら面白い。スノーボードがしたいから、一番近い高校に通いたいと親に頼み込みました」
「もう入学金を払ったのに」と渋る両親を説得した関さんは、それから365日、スノーボードに明け暮れる。雪がある時期は毎日、日が暮れるまで滑る。帰宅したら、海外や国内のプロのDVDを何度も繰り返し観る。難しい技はコマ送りしながら確認した。雪がない時期は、学校が終わったらすぐにジムに行って筋トレをした。DVDも観続けた。
「この生活が楽しすぎて。たまに友だちの家にいったりしても、グタグタしていたら『この時間がもったいない』と思っていました」
ストイックな姿勢は、幼い頃からのものだった。小学生の頃、昆虫が大好きで一日中ひとりで昆虫採集しては、図鑑で調べる日々を過ごしていた。バスケを始めてからは、「NBAにいく!」と決めて、ビデオで毎日研究。その対象が、スノーボードになった。
「僕、勉強はできないんですけど、オタク気質なんで、好きになったら何時間でも没頭できるんですよ」
■20歳でゼロからコメ作りを学ぶ
探求の甲斐あって、18歳の時、中学生時代に一目で惚れ込んだ「スクローバー」から声がかかり、チームに加入。高校卒業後に上京したのは、スノーボードメーカーのオフィスがある東京にいたほうがプロへの道が拓けると聞いたからだ。ちなみに、プロスノーボーダーとはどういう人を指すのだろうか?
「最初は、スポンサーがついてボードやウェアなどを提供してもらうところから始まります。そこで活躍して、契約金をもらえるようになったらプロですね。さらに、自分モデルのウェアやボードを出して売れるようになると契約金も上がります。チームとしては、自分たちのDVDを出して販売するのがメインですね」
関さんは東京の建築現場で肉体労働をしながら、プロを目指した。日給は1万円弱。
「家賃や生活費を節約するために両親に頼んで実家に戻り、冬はスノーボードをして、春から秋は父のもとで農業をすることにしました。それまで草刈りぐらいしか手伝ったことがなかったけど、東京では朝は早くて帰りは満員電車だし、夏は35度を超えるなかコンクリートに囲まれた現場で粉塵を浴びながら働く日々でした。農業も暑さや肉体労働の厳しさはありますが、周囲は一面の緑で風が抜け、空が広い。東京と比べたら、農業をするほうがいいなと思いましたね」
2005年、20歳で帰郷してゼロからコメ作りを学び始めた。
■農園では怒鳴り合い、スキー場では大ケガ
指導役として関さんを待っていたのは、関農園3代目の祖父。関さん曰く、祖父は「世界一教えるのがヘタ」で、まだ若かった関さんは苛立ち、祖父と毎日怒鳴り合っていた。
当時の関さんにとって最優先事項はプロスノーボーダーとして自立することで、コメ作りは工事現場のアルバイトと変わらず、「生活のためにやらざるを得ない仕事」。だから、農作業中も、休憩中も、仕事が終わった後も、スノーボードで頭がいっぱいだった。
そこまで入れ込んだ甲斐あって、25歳頃には追い風が吹き始めていた。
ところが、シーズン初めに野沢温泉のスキー場で転倒し、右足の大腿骨を粉砕骨折してしまう。全治10カ月。ひと冬を棒に振りながらも、「来年には復活してみせる」と筋トレやイメージトレーニングに励んで迎えた次の冬、関さんは愕然とする。右足が思うように動かない。なにをしても、ケガをする前と同じ感覚には戻らない。DVDを撮影した時が100%だとしたら、50%程度の滑りしかできなかった。
「これはもう、スノーボードでプロとしてもっと上にいくのは難しいかもしれない……」
とことんやってトップを目指すのが、関さんの性格だ。「ひとりでいくら上手くなっても勝てない」とバスケから心が離れた時のように、人生を懸けたスノーボードへの情熱が急速に萎んだ。その大きな穴を埋めるように存在感を増していったのが、コメ作りだった。
■コンクールで箸にも棒にも掛からない
祖父とケンカ三昧だった修業時代を経てひと通りの仕事をおぼえると、家業の主力を担っていた父親のコメ作りに興味を持った。自作した発酵有機肥料を使い、狭い範囲ながら無農薬栽培も始めていた。明らかに近隣の田んぼよりも手をかけていて、コメの味も際立っている。それだけに、手塩にかけたそのコメを農協に納めていることに疑問も感じた。農協に納めると、ほかの農家のコメとブレンドされて袋詰めされてしまうのだ。
就農してから5年も経つと、「うちはいいコメを作っている」というプライドを持つようになり、「それを知られていないのはもったいない」と思うようになった。スノーボードのケガから復帰した2011年のことだ。
その頃、コメのコンクールがあると知った。「これだけこだわって作ったうちのコメはどう評価されるだろう」という好奇心で応募した。「もしかしたら、いい評価を得られるかもしれない」という淡い期待はしかし、あっさりと打ち砕かれた。箸にも棒にも掛からなかったのだ。その悔しさが、胸の内に引っかかっていたのかもしれない。
ある日、東京でスノーボードの仕事の打ち合わせがあり、車で上京した。帰り道、関越自動車道を走っている時に、ふと思い出した。
「あ、今日はコンクールの決勝大会の日だ」
群馬県の川場村で開催されていたのは、「第13回 米・食味分析鑑定コンクール」。関さんは高速道路を途中で降りて、会場に向かった。初めて足を踏み入れたコンクール会場で、関さんは目を疑う。想像をはるかに超える広い会場は、3000人ほどの来場者で賑わっていた。そのなかでも、10人ほどの生産者の周りに人だかりができていた。
「なんだ、この世界は! あの人たち、スターじゃん! 超すげー!」
■「オタク気質」に火がついた
人ごみをかき分けて、スターと挨拶を交わす。アドバイスを求めたかったが、常に人に囲まれていて、ゆっくりと話をできる状況ではなかった。周りを見渡してほかの受賞者に声をかけると、おおらかに質問に答えてくれた。
この瞬間、関さんの「オタク気質」が震えた。その受賞者ともっと話したいという気持ちが抑えきれず、宿泊するホテルを聞いて、その場で予約。コンクールが終わった後、ホテルでさらに話を聞いた。長い1日が終わる頃には、メラメラと燃え上がっていた。熱気冷めやらぬ関さんは、翌日に帰宅すると前のめりになって父親のところへ向かった。
「コンクール見に行ったんだけど、めちゃくちゃすごかったぞ! 絶対うちも目指していかないとダメだ!」
父親も驚いたことだろう。なにしろ、前日まで「生活するために仕方なくやる仕事」として仕方なく田んぼに出ていた息子が、まるで別人の勢いでコンクールについて話しているのだ。同時に、息子の変化が喜ばしかったに違いない。父親は大きく頷いた。
「じゃあ、コンクール狙っていくか!」
米・食味鑑定士協会が主催する「米・食味分析鑑定コンクール」は、1998年に開幕した。第1回は400検体に満たなかった出品数が右肩上がりに増えて、今や5000を超える。第10回(2008年)より海外からの参加も認められており、世界最大級の国際コンクールだ。そのなかで、最高賞の金賞に選ばれるのは毎回20名弱という狭き門である。
■コメ作りの名人に行脚の日々
関親子は、大胆な行動に出た。全国に散らばるコメ作りの名人に教えを請うたのだ。
最初に訪ねたのは、南魚沼でいち早く「米・食味分析鑑定コンクール」に参加し、地域を代表する存在となっていた笠原農園の笠原勝彦さんだった。関さんは面識もない笠原さんにいきなり電話をかけ、「明日、伺ってもいいですか」と頼み込んだ。笠原さんは、同じ地域の若手農家の求めを受け入れた。これを機に笠原さんのもとに何度も足を運び、話を重ねるようになった。そのうちに少しずつ距離が縮まっていった。
関さんは折に触れて「いつか遠藤五一さんのところにも行ってみたい」と伝えていたという。するとある日、「一緒に行くか」と声をかけてくれた。こうして関親子は、山形へと向かった。
「日本一のコメ職人」とも称される、山形県高畠町の遠藤農園12代目、遠藤五一さん。有機農法で作ったコメで「米・食味分析鑑定コンクール」に出品し、2003年から5年連続金賞を受賞した。この時、5回連続のコンクール入賞と3回以上の金賞の受賞者のみが授与される「ダイヤモンド褒賞」も受け取っている。2025年時点で、この賞を受けた人は全国に7人しかいない。笠原さんもそのひとりだ。
コンクールを通じて遠藤名人と面識があった笠原さんが橋渡し役となり、関親子は貴重な学びの機会を得た。さらに笠原さんは、コメ作りの巨匠として知られる群馬・水上の本多義光さんも紹介してくれた。山形と同じくこちらも笠原さん夫妻とともに、4人で訪ねたという。
ほかにも電話アタックや先人のツテをたどり、関親子はおよそ30人の名人を訪ね歩いたという。ここでひとつ疑問がわく。同じコメ農家とはいえ、コンクールではライバル。親しくもない親子に、気軽にノウハウを教えてくれるものなのだろうか?
■コメ農家のひよっこ「日本一を作る」
「一方的にコンクールで評価されるコメの作り方を教えてほしいと言っても難しいですよね。それで、うちは父親がこだわっていた田んぼの微生物や菌を活かすコメ作りについて話をすることにしました。ギブアンドテイクのような形にすることで、具体的な方法をたくさん教えてもらうことができました」
名人たちはみな、コメ作りに貪欲だ。関さんの父親が独自の工夫をしてきたことが、名人たちにも評価されたのだ。
名人行脚をしている間も、関さんはもとの滑りができるようになるという一縷の希望を抱き、スノーボードの仕事を続けていた。しかし、コメ作りを究めたいという思いがムクムク大きくなっていることを実感した。
ケガから復帰して2年目、2012年の冬、やはり思い通りに滑ることができないと自覚した時、「中途半端は良くない。もうコメ一本に絞ろう」と腹をくくった。新たな目標は「日本一のコメを作ること」。まだコメ農家のひよっこだったにも関わらず、27歳の関さんはこの目標を実現できると確信していたという。
■「死ぬほど考えるだけでいい」
「スノボで研究して、考えて、練習することなら、誰にも負けないと思っていました。でも、スノボの場合、恐怖心を乗り越えなきゃいけない。下手をすると死ぬかもしれないから、めちゃくちゃ怖いんです。コメ作りには、そのリスクがない。死ぬほど考えるだけでいい。それならできると思いました」
関さんが名人たちから学んだのは、徹底した科学的アプローチ。おいしさにつながるいくつもの要素を細かく分析して、数字を突き詰める。その数字を安定して出すためにどう栽培するか、というのが勝負どころだ。
「1次審査ではコメに含まれる水分量やタンパク質などを計測する『食味値』で85点以上取らないと次に進めません。例えば、コメに含まれるタンパク質の割合を低くすると、食味値が高く出ると教わりました。そのためにタンパク質を抑える栽培方法があるんです。ほかにもいくつかの要素を取り入れたら、1次審査を突破するのは難しくありません」
難関は、コメ粒の光沢や粘りに関係する「保水膜」の厚さを測る2次審査の「味度(みど)」だった。その頃、名人たちも誰ひとり「味度」で高得点を出す方法を知らず、試行錯誤を重ねていた。関さんはそこにチャンスを見いだし、一心不乱に「味度」の解明に突き進んでゆく。
当時、標高500メートル以上の場所で作られたコメが「味度」の高得点を出す傾向が強く、カギを握るのは標高だと指摘されていた。関さんはそこで歴代の受賞者の生産地、気候、高度、点数を分析した。すると、必ずしも標高だけで決まるわけではないと気が付いた。
■「未熟なのに甘い枝豆」がヒントに
ここからは詳しく書くことができないが、関さんはネットで検索し、専門書を読み漁り、自問自答を繰り返すうちに、「日照時間」にヒントを得た。そして、関農園の田んぼでいくつか条件を変えて実験することで、「味度」をコントロールできると発見する。
関さんはさらに、最終審査の官能審査に狙いを定めた。官能審査とは「実際に食べたときのおいしさ」。いかに審査員の舌にインパクトを残すのか、関さんは24時間、寝ている時にも夢を見るほど考え続けた。するとある日、自宅で枝豆を食べている時にふと「枝豆って甘いよな」と感じる。
枝豆は、大豆が熟す前の「緑」の状態で収穫したものだ。フルーツは熟したら柔らかく、甘くなるのに、枝豆はなぜ未熟な状態のほうが柔らかくて、甘いのだろう? この疑問から、植物について怒涛のリサーチが始まる。その結果、収穫のタイミングによって「うま味」を増す方法がわかった。
さらに、コメの「香り」と「うま味」を高めるために改善を重ねたのが、父の代から開発している肥料。「本当にきれいな香りと旨みをコメにのせるにはどうしたらいいか」という視点で「動物性アミノ酸」が不可欠という結論になり、日本料理の出汁をイメージして、米ぬか、魚の粉、こんぶ、カニ殻を使った「ぼかし肥料」を作った。もともとアミノ酸の宝庫だった関農園の田んぼの土にこの肥料を加えることで、味と香りが変化した。
「うちの田んぼって、ミジンコとかイトミミズがすごくたくさんいるんです。そのエサになるような目に見えないレベルの菌や微生物もめちゃくちゃいると思うんですよ。これらの菌や微生物が産卵したり、排せつしたり、動きまわることで、柔らかく栄養豊富な土ができる。それがやがてうちの田んぼのなかで死んで、分解される。この生命の循環が一番良質なアミノ酸だと考えています」
■前人未到「日本一のコメ農家」の誕生
2012年にスタートした「味度」と「うま味」の攻略に費やした期間は、2年。満を持して迎えた2014年、関さんは「第16回 米・食味分析鑑定コンクール」で金賞を受賞する。
ここから、「日本一」への歩みが始まった。同コンクールではその後、6年連続金賞に輝く。
それだけではない。コメの総合メーカー、東洋ライスが2015年にスタートした「世界最高米」の認定は、「米・食味分析鑑定コンクール」の金賞受賞者だけを対象にしたもので、毎年5、6人だけが認定される。関さんは2017年から4年連続で、この称号を得た。米・食味分析鑑定コンクールで6年連続金賞、世界最高米4年連続認定は前人未到。関さんは自他共に認める「日本一のコメ農家」になった。
日本一を目指す過程で、コメの売り方も変えた。2020年に関農園のオンラインショップを立ち上げ、父親の代では農協に卸していたコメを消費者に直接届ける道を選んだ。価格は、スーパーで買うコメより何倍も高い。それは、自分が作るコメへの自信であり、それだけの価値を認めてくれる人がいるはずだというチャレンジでもあったが、なにより、コメ農家としての危機感があった。
「これまで、米の価格は構造的に低く抑えられてきました。米を作るだけで安定した経営を成り立たせるのは、簡単なことではありません。これからの時代は、農家としてコメを作るだけでなく、自ら価値を伝え、届けるところまで担うことが求められていると思います」
■負のスパイラルに陥っている
ここで、農林水産省のデータを見てみよう。「米をめぐる状況について」(農産局/2024年11月5日)によると、コメ農家の97%を占める10ヘクタール未満の規模では、過去4年間(2019~2022年)、必要経費などを差し引いた年間所得が200万円を下回っている。ポイントは、コメ農家ひとりあたり200万円ではなく、「経営体数」の金額ということ。家族でコメ作りをしていたら、200万円をその人数で分配することになる。
また、同資料によるとコメ農家の数は2015年から2020年の5年間で約25%減少しており、「稲作では特に高齢化が進んでおり60歳代以上が約9割を占める」「7割の経営体で後継者が確保されていない」という記述もある。
コメ農家は儲からないから、後継ぎがいない。後継ぎがいないから、コメ農家が減るという負のスパイラルに陥っていたのだ。
「今のコメの価格が、適正価格だと思います。でも、いろんなものに左右されるから、いつまで続くかわからないでしょう。自分でコメを売るのは必須だと思いますね」
コメ作りを続けるために、関さんは自社販売に舵を切らざるを得なかった。この決断は、結果的に自信を深めることにつながった。関農園では減農薬のコメが5キロで8750円、農薬と化学肥料不使用のコメは5キロで1万5000円する。この価格でも毎年完売するほどの人気を集めているのだ。
これで経営が安定すると同時に、関農園の持続可能性を高めた。4人の子どもの話題になると、関さんは頬を緩める。
「僕は子どもの時、親が農家ってめっちゃ恥ずかしかったから、そういう気持ちないの? って聞くと、ぜんぜんないって言うんです。後を継ぎたいと言ったりもしてくるんで、それはやっぱり嬉しいですね」
■コメ作りの姿勢が、元DJにも届いた
関さんの影響を受けているのは、子どもたちだけではない。
「スノーボードをやっている時、チームの先輩たちから学んだのは『自分に自信を持って、全開でやらなきゃダサい』ということ。だから農業も全開でやるし、それをアピールしてきました。そうしたら最近、僕の周りで同世代とか若い農家の人がすごく増えてきたんですよ」
同じ南魚沼で240年以上にわたってコメを作ってきたこまがた農園の10代目、駒形宏伸さんも、そのひとりだ。世界一のDJを決める国際大会で優勝経験を持つ元DJの駒形さんは、コメ作りに本腰を入れると決めた時、関さんに指導を仰いだ。その後、国内最大級コメの食味コンテスト「第17回お米日本一コンテスト」で最高金賞を受賞している。
「関智晴はコメづくりの師匠です。稲作を誰よりも深く理解し、情熱を持って向き合う姿に常に刺激を受けています。ぼかし肥料や栽培技術はもちろん、商品づくりやブランディングにいたるまで多くを学んできました。その教えが私の農業の土台となっています」
■「おいしいとはなんなのか」みつけた答え
コメを究め、「超高級米」という市場を切り拓いてきた関さんがいま見据えているのは、「地域」。「ワインでいえばブルゴーニュみたいに、南魚沼を米の聖地にしたい」と語る。その一手が、2022年の秋にリニューアルオープンした直売所「FARM FRONT(ファーム・フロント)」だ。
関農園の田んぼの前に建つ、地元の木材をふんだんに使用したおしゃれなカフェのような直売所では土鍋で炊いたコメを使った塩むすびを提供している。
「おいしいとはなんなのかをひたすら考えた結果、その米が育った田んぼを見ながら塩結びにして食べたら、めっちゃうまいんじゃね? ということです」
ファーム・フロントは新潟県外からも多くの来客があり、最大100人を超える行列ができたこともあるという。関農園のコメにそれだけの吸引力があるということは、新たな手ごたえになった。南魚沼がブルゴーニュのように観光客を引き寄せる場所になれば、産地が活気づく。「コメの聖地化」に向けて、すでに周囲の若手農家と相談を始めているという。
関さんを動かしてきたのはいつも、オタク魂だった。探求の熱は今も冷めやらない。関さんがいま学んでいるのは、「伝え方」。2025年の春には、ワインの産地として有名なカリフォルニアのナパを視察した。今年は北欧に足を運ぶ予定だ。関農園の取り組み、コメの味、産地の魅力をどう伝えるのか。農閑期の冬も、関さんの頭はフル稼働している。
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川内 イオ(かわうち・いお)
フリーライター
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)などがある。
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(フリーライター 川内 イオ)

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