※本稿は、平川祐弘『小泉八雲』(河出文庫)の「第二章 子供を捨てた父」の一部を再編集したものです。
※平川祐弘の(祐)は正しくは「示」に「右」の旧字体。
■ハーンと夏目漱石の意外な関係
いまはもう100年を越す日本の英語英文学の歴史の中で、大学教授であるとともに作家としても名を残した人物といえば、一人が外国生れのラフカディオ・ハーンで、いま一人が夏目漱石であることに異論はあるまい。
1850年に生れたハーンは、1867年(慶応3年)に生れた夏目金之助より17歳年上で、漱石のことは顔を見たこともなかったし、その作品についてももちろんなにも知らなかった。ハーンは漱石が『吾輩は猫である』を世に出す前の年、明治37年9月26日に54歳で急逝してしまったからである。
それでもハーンは明治36年3月、自分が半ば強いられるように帝国大学文科大学の英文科の講壇を去った時、4月から自分の後任講師として教壇に立つはずの男が今度は日本人で、イギリスに2年あまり留学しこの1月に帰国したナツメという文学士だ、ぐらいの噂は、大久保の自宅まで留任の運動に来た学生たちから聞かされもしたかと思う。
しかし外人教授待遇の契約が切れた東京大学にもう未練のなかったハーンは、自分の教え子でもない人のことはほとんど念頭になかった。それに対して36歳の新任講師夏目金之助ほどハーンの存在を意識させられた男はほかにはなかった。
■奇縁とも呼べるほどのキャリアの一致
漱石は奇縁とも呼べるほどハーンの後任としてその軌跡を追った人で、すでに熊本の第五高等中学校でも、ハーンが去った1年半あとに英語教授として赴任していた。
そして漱石は、明治29年、はるか熊本まで都落ちしたと感じたその時、ハーンが逆に上京し、母校の帝大英文科の教壇に立ったことを知ったのである。しかしその後熊本で4年暮し、ロンドンで2年学び、明治36年帰朝した際、漱石は自分が押し出すような恰好でまさかハーンを帝大からほうり出し、その後任者になろうとは予期していなかった。
もちろん漱石は、日本も独立国であり、大学も植民地の大学ではない以上、その教育も研究も次第に実力のある若手の日本人教授の手にゆだねられるのが当然の成行きである、と考えていた。それだから文部省ならびに帝大当局が外人教授の契約を更新しようとしないのを、俗世間が非難するように「忘恩」などとは考えない立場にあった。
■「三四郎」に書かれた自己弁明
この件に関する漱石の自己弁明というか自負心のほどは、それより5年半後に書かれた『三四郎』中の一節、
大学の外国文学科は従来西洋人の担当で、当事者は一切の授業を外国教師に依頼してゐたが、時勢の進歩と多数学生の希望に促(うなが)されて、今度愈々(いよいよ)本邦人の講義も必須課目として認めるに至つた。そこで此(この)間中から適当の人物を人選中であつたが、漸(やうや)く某氏に決定して、近々発表になるさうだ。某氏は近き過去に於おいて、海外留学の命を受けた事のある秀才だから至極適任だらう。
という文章からも察せられよう。明治41年、漱石が「某氏」が一読して夏目自身とわかる右のような記事を作中に書くことができたのは、本人がもう大学を辞めて作家としての地位を確立していたからだった。文壇上の成功が『三四郎』の作者に過去の履歴について一種の自己満悦を許したのである。しかし5年半前、夏目金之助がはじめて本郷の教壇に立った時、その心境はまことに暗かった。
■学生の受けは悪かった漱石の講義
学生たちは新任で無名の夏目講師を冷ややかな敵意をもって迎えた。(中にはもう教室へ出て来ない川田順のような学生もいた。
そしてその学生の不安な予感の正しさを証するように、漱石の講義は無味乾燥で、奇妙に科学的で、学生の受けはたいへん悪かった。当時の学生の一人だった金子健二は『人間漱石』におさめられたその日記にこう書いている。
五月五日(火)午前中は夏目講師の『サイラス・マーナー』の時間に出席し、指名された友人がうんと油をしぼられたのを見て気の毒に感じた。大学に入つてから皆気位が高くなつたが、読書力があやしいものだと感じた。それにしても先生から衆人の前で小僧扱ひにされるのには誰でも憤りを感ぜざるを得ない。午後一時から再び登校して四時迄「文学概説」の講義を聴いた。余り理論づくめなので、ヘルン先生時代のものと比較して文学そのものに対する興味をそがれるやうな感じがした。
■ハーンによる講義の評価
それでは前任者ハーンの講義ぶりはどのようであったかといえば、ハーン留任の学生運動の委員長を勤めた安藤勝一郎は、その当時の思い出を京都女子大学『東山論叢』第一号(昭和二十四年)に次のように書いている(8)。
講義は静かに緩かな速度で始められる。
学生たちのハーン先生に対する景望崇敬の念のほどが感じられる。厨川白村も『小泉先生』で「みな能(よ)く聴者の胸底に詩の霊興を伝ふるに足るものがあつた」と在りし日の師を偲んだ。
就任早々の漱石が一大学生を皆の前で小僧扱いにして油をしぼったのも、自分が学生たちからなにかと前任者ハーンに比較されるのを意識して、負けまい、と気を張ったからにちがいない。
■だから大学教授→朝日新聞社へ
それでも漱石は自分がロンドンの下宿以来あれほど苦心惨澹の準備を重ねたにもかかわらず、『英文学形式論』『文学論』等の講義が学生の心奥にひびかず、むなしく空転することを知って、苛立った。
ふだんは妻に学問上のこと、文学上のことなどおよそ話さない漱石だったが、その時は苦衷を洩したと見えて、鏡子未亡人の『思ひ出の記』に次のように出ている。妻もそれとなく察していたが、漱石は、思いつめた、あらたまった顔をして言った。
小泉先生は英文学の泰斗(たいと)でもあり、また文豪として世界に響いたえらい方であるのに、自分のやうな駆け出しの書生上りのものが、その後釜に据わつたところで、到底立派な講義ができるわけのものでもない。また学生が満足してくれる道理もない。
自尊心を傷つけられもした漱石は明治37年12月19日には野間真綱宛に書いた。
僕の事が雑誌に出る度に子規が引き合に出るのは妙だ。とにかく二代目小泉にもなれさうもない。
ハーンが英文科の学生たちの間で人気があったのは、その講義内容もさりながら、彼が『知られぬ日本の面影』以下の著書によって世界的ともいえる名声を博していたからでもあった。それに対して漱石が多少でも有名だったとしたら、それは松山・熊本時代にわずかに俳人としてであり、それも子規あっての漱石という程度だった。
そのようになにかと先輩の後塵(こうじん)を拝さねばならぬ漱石の居心地の悪さ――その不快感も手伝って、漱石は明治40年、大学教授の職を捨てて、喜んで朝日新聞社へ入社したのだろう。
ラフカディオ・ハーンの後任となった英文学教授は、おそらく誰であろうと貧乏籤(くじ)を引いたようなものだが、それも一因で作家漱石が生れたのだとしたら、これはまた運命の悪戯というか、逆にたいへんな富籤(とみくじ)だったことになる。
夏目講師はそのように前任者ハーンを意識した。
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平川 祐弘(ひらかわ・すけひろ)
東京大学名誉教授
1931年、東京生まれ。東京大学名誉教授。
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(東京大学名誉教授 平川 祐弘)

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