なぜ現代社会で生きづらさを感じるのか。奈良県の山村に移住した思想家の青木真兵氏は「現代の生きづらさは、自分ではなく他者のニーズを満たそうとする消費社会に起因する。
これは田舎へ移住することで軽減されるが、移住後に都会との縁を切らないことも重要だ」という――。
※本稿は、青木真兵『資本主義を半分捨てる』(ちくまプリマー新書)の一部を再編集したものです。
■快適だった平成の「消費社会」
僕自身の子ども時代を振り返ると、資本主義に起因する「消費社会」の影響を強く感じます。1990年代にさいたま市の中心部で育った僕は、暮らしの風景が大きく変わっていくのを目にしました。ザリガニを獲ったドブ川は埋め立てられ、雨の日はぬかるむ土の道路はアスファルトに覆われ、道は拡張されていきました。家庭のテレビは「一家に一台」から「一部屋に一台」へと広がり、テレビゲームも携帯型が登場して「一人に一台」になっていきました。
ラジカセも一部屋にひとつが普通だったのが、ウォークマンの普及によって「一人にひとつ」が当たり前になっていったのです。こうした経験を思い返すと、1990年代はまさに消費社会の浸透が生活レベルで実感できるようになった時代だったといえます。そしてその変化を僕は当時、とても快適なものとして受け止めていました。
なぜなら僕は自分の好きなことをずっとしていたい人間だったからです。小学生の頃、地域のみんなで映画を観に行かねばならないことがありました。しかも作品は、僕の大の苦手なホラー映画。
今思えば、なぜ小学生全員でホラー映画を観ることになったのか理解できませんが、とにかく集団行動が苦手だった僕は、ギリギリまで仮病を使って休もうとしたことを覚えています。
本当は家で好きなゲームをしたり、本を読んだりしていたかったのに、どうしてみんなと同じことをしなければならないのか。そんな疑問を常に抱いていました。だからこそ、一人ひとりが自分の好きなものを手にできるようになった「個人消費が拡大していく時代」は、僕にとって非常に快適なものだったのです。
■消費や個人主義を支えていた「お金」
個人消費は「人それぞれ」という考え方と相性が良く、消費と個人主義は一体化して社会に広がっていきました。今振り返れば、僕は消費と個人主義が融合した社会の風を全身に浴びて成長したのだと思います。ただしこの個人主義は、誰もに平等ではありません。お金があれば膨らみ、お金がなければ縮んでしまう。つまり、個人主義の広がりはお金の有無に左右される仕組みのうえに成り立っていたのです。
では、そのお金はどうやって手に入れるのか。働くことで稼ぐしかありません。仕事を通じて得るお金が、消費や個人主義を支えていたのです。
だからこそ働くことはお金を得ることであり、自らの労働力をより高い価値のつく商品にすることが自己実現であると語られてきたのです。そのためには受験勉強をがんばって学歴を高め、よい会社に入るための「自助努力」が必要とされました。
振り返れば1990年代から2000年代前半までは、自助努力がある程度は成果に結びついていた最後の時代だったのかもしれません。それは「自己実現」が声高に叫ばれた時代であり、その価値観の裏側には「自己責任」という重たい言葉が常に張り付いていたのですが、それにはすぐには気がつきませんでした。
■生きるとは「労働力を商品化すること」
あらゆるものが生活の文脈から切り離されて「商品化」され、お金を出せば入手できるようになった消費社会。僕たちは、商品化を自己実現のために欠かせないプロセスとして受け止め、当然のものだと考えてきました。
自己実現によって得られる「自己」は、商品価値の高いものである必要がありました。そもそも商品とは市場という他者のニーズによって成り立ちます。誰かが欲しいと思ってくれるからこそ、商品は存在できる。欲しがられない商品は棚から撤去され、人気のない店は閉店に追い込まれます。
消費者の立場から見れば、競争によって優れたものだけが残り、質の高い商品を手にできるという利点があるかもしれません。しかし商品の側に立ってみれば、常に「欲しがってもらえる」よう努力し続けなければならないのです。

商品に囲まれて育った僕たちは、この「商品の論理」を内面化してきました。つまり、誰かに必要とされなければ価値がないと思い込むようになってしまったのです。そのため、何かを始めたり発言したりする際、最初に考えるのは「他の誰かがどう思うか」ということになってしまいました。
確かに、生きるとは労働力を商品に変えお金を稼ぐことにほかならないのですが、他者ニーズに基づく生という原理を内面化し過ぎてしまうと、もし働けなくなったとき、「自分には商品価値がない」と感じ、社会から退場するしかないという思いに至ってしまうのです。市場原理だけで動く社会とは、常に他人の視線を気にし、嫌われれば終わりという、不安定な綱渡りのようなものなのです。
■山村で出会った「ただ生きている」生物たち
僕たちは山村に移り住むことで、市場原理では測れない価値に気がつきました。市場原理が他者ニーズによって駆動されているのだとすれば、その正反対の世界がそこに広がっていたのです。他人がどう思おうと関係なく、ただ自己ニーズによって存在しているものに山村は満ちていました。
アブやカメムシ、サワガニやヤモリといった昆虫や爬虫類(はちゅうるい)。アナグマやイタチ、タヌキやシカといった小動物。そして空には鷹(たか)やサギの姿もあります。足もとには杉や檜(ひのき)の木々が鬱蒼(うっそう)と茂り、大小さまざまな岩には苔(こけ)がびっしりと生え、そこからさらに木々が伸びている。
そこにあるのは、人間の都合やニーズとはまったく無関係に存在しているものばかりでした。
彼らは「生きているから、生きている」。その営みに特別な理由はなく、ただ食べ、排泄(はいせつ)し、繁殖し、生を繰り返しているだけです。もしかすると自己ニーズとは、まさにこうしたものなのではないでしょうか。他人と比較して測れるものではなく、時には理性を超えてしまう力を持つもの。
■他者ニーズが“数値化”される現代
現代社会のつらさは、この自己ニーズが承認されていないところにあるように思います。本来、生き物は自己ニーズを満たすために生きており、それで十分なはずです。ところが現代社会では、他者ニーズに応えなければ人間として認められないかのように扱われてしまう。
しかし本当は、まず自己ニーズを持った生き物として存在を認められることが大前提であり、その上で他者ニーズに応えていく。その順序があって初めて、人は自分の足で立つことができるのではないでしょうか。
山村に移り住み自己ニーズの世界を知ったことで、逆に現代社会が他者ニーズによって満ちていることに気づきました。さらに深刻なのは、その他者ニーズが数値化され、可視化されている点です。

例えば僕自身の就職活動がそうでした。大学教員になるためには実績を積まねばなりませんが、その実績は単著や論文、翻訳といった成果ごとに点数が振られ、その合計点によってランク付けされてしまうのです。さらに「外部資金」と呼ばれる研究費の獲得額までが評価対象となり、どれだけの資金を研究に引き込めるかが業績として数え上げられます。
■効率化により文化が消えていった
2000年代後半の大阪では、橋下徹(はしもととおる)氏が大阪府知事として実権を握っていました。彼は文化や芸術といった、本来は数値だけでは測りきれない価値を「来館者数」や「観客数」といった指標に還元し、その数字に基づいて予算配分を決定しました。市場原理を文化や教育、さらには医療や福祉の分野にまで持ち込もうとしたのです。
その結果、府立の国際児童文学館は2010年に府立中央図書館に統合され、独立した施設としての役割を失いました。また伝統芸能である文楽への補助金も、観客が少ないという理由で削減されました。さらに人権問題を扱うリバティおおさか(大阪人権博物館)は、来館者数が少ないことを理由に補助金が打ち切られ、2020年に閉館へと追い込まれました。美術館や博物館も入場者数や収益性で評価され、民営化や指定管理者制度の導入が進みました。
こうした政策は「無駄をなくす」「効率化を図る」というスローガンのもとで多くの市民から支持されました。その結果、行政や公共サービスが縮小され、市場原理に基づく運営へと移行していく流れが加速していったのです。

■数値化されることで失われゆくもの
思えばこの傾向は大阪で始まったわけではなく、2000年代前半の小泉純一郎政権の時代に、市場原理を幅広い分野に適用する流れが一気に強まりました。郵政民営化をわかりやすい構図で打ち出した小泉首相は、メディアを巧みに利用しながら既得権益との戦いという物語を提示し、多くの国民の支持を得ました。
その延長線上で、規制緩和や民営化が推し進められ、公共サービスの領域にも市場の論理が持ち込まれていきました。2000年代後半の大阪で橋下徹氏が展開した政策も、この潮流に位置づけられます。
文化や教育といった本来は数値では測りきれない領域を、利用者数や収益性といった数値に還元して評価し、予算配分を決める。そのシンプルでわかりやすい基準は、多くの人に受け入れられ、メディアでも「改革」としてもてはやされました。
繰り返しますが、僕は市場原理そのものが悪だと言いたいわけではありません。しかし、何もかもを単一の原理に統一してしまうことには大きな危険があります。商品の論理としての市場原理では、中長期的な視点を持つことがどうしても難しくなってしまうからです。
本来、社会には数値化できないもの、目に見えないものを大切にする視点が不可欠です。その存在を感じ取る力こそ、人文知の役割だと僕は考えています。だからこそ、僕たちの運営する私設図書館には「人文系」という言葉を冠しているのです。
■「他者ニーズの蔓延」による生きづらさ
すでに繰り返し述べていますが、現代社会の生きづらさの背景には、商品化経済における他者ニーズの蔓延(まんえん)があると考えています。その典型がSNSです。Facebook、YouTube、TikTokといったプラットフォームでは、投稿や動画に何万回もの再生や「いいね」がつくことがあります。しかし、それらはあくまで他者からの評価にすぎません。
さらに、アルゴリズムは刺激の強いものを優先的に拡散させる傾向があるため、暴力的な映像やショッキングな内容の動画は再生数を稼ぎやすいと指摘されています。しかし、それがそのもの自体の価値を示しているわけではありません。
もちろん、数値化された指標すべてに意味がないとは思いませんし、人気や支持の可視化には一定の役割があります。しかしそれだけを追いかけ続けると、次第に「再生数に取り憑(つ)かれておかしくなってる」YouTuberが「警察に捕まり始めている」という、とある漫才師のネタのような状態に陥ってしまう。それほどまでに、数値化された他者評価は人びとに強い力を及ぼしているのです。
■2つの原理を行き来する柔軟さが必要
では、その反対に「数値化できないもの」や「目に見えないもの」を信じる力が現代社会に欠けているのかといえば、必ずしもそうではありません。人は昔から目に見えないものに意味を感じ、そこに支えられて生きてきました。
例えば宗教的な信仰や、死者を悼む儀礼、あるいは「友情」「信頼」といった目に見えない関係の力です。これらは数値化できませんが、確かに人を支える力を持っています。一方で「見えない世界がある」と適度に信じることは健全でも、それが現実社会のすべてを否定する方向に傾くと、陰謀論に陥ってしまいます。
たとえば新型コロナウイルスの流行時に「ワクチンは人体にマイクロチップを埋め込む計画だ」といった虚偽情報が広がったり、米国のQアノンのように社会の出来事をすべて裏の勢力の計画に結びつけてしまう運動が現れたりしました。こうした極端な目に見えないものへの信仰は、社会を分断し、暴力や差別を生む危険さえはらんでいます。
要するに、ここで強調したいのは「1つの原理に統一されないこと」です。市場原理に代表される他者ニーズに偏りすぎても、また目に見えないものや自己ニーズだけを絶対視しても、社会は健全には成り立ちません。
大切なのは、この2つの原理のあいだでバランスをとることです。他者ニーズと自己ニーズを行き来できる柔軟さこそが、僕たちがより人間的に生きるために必要なのだと思います。

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青木 真兵(あおき・しんぺい)

思想家

1983年生まれ、埼玉県浦和市(現さいたま市)に育つ。博士(文学)。社会福祉士。2016年より奈良県東吉野村に移住し自宅を「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」として開きながら、対話によって「はじまり」を問い直し組織の存在理由を改めて掘り起こす「考古学ラヂオ」や、執筆などの活動を行っている。著書に『武器としての土着思考』(東洋経済新報社)、『手づくりのアジール』(晶文社)、妻・青木海青子との共著『彼岸の図書館』(夕書房)、『山學ノオト』シリーズ(エイチアンドエスカンパニー)などがある。

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(思想家 青木 真兵)
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