NHK「ばけばけ」は、舞台を熊本に移し、ヘブン(トミー・バストウ)が不平不満を述べるシーンが描かれている。実際の小泉八雲は、どうだったのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に史実をひも解く――。
■八雲「もっとも面白くない都市です」
NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」。熊本に舞台が移ってからもトキ(髙石あかり)とヘブン(トミー・バストウ)の生活は平穏にはいかない。なにしろ、いきなり学校が廃止されるという噂が出る始末。一方でアメリカから原稿料が届いたりして、ホッと胸をなで下ろすシーンも。
なんだか展開はホームドラマ風に。こんなストーリーになっているのも、ヘブンのモデルである小泉八雲が松江より長く住んだ熊本をあまり好まなかったからではないかと思う。
とにかく、熊本時代の八雲は松江の冬に体調を崩して、精神を病んでいたときよりも不安定。ずっと不機嫌な風に感じるのだ。でも、本当にそこまで熊本を嫌っていたのだろうか?
以前の記事(松江に住み続ければよかったのに…「熊本は退屈すぎる」と嘆いた小泉八雲がそれでも離れられなかった理由)でも触れたが、八雲の熊本への失望は、到着間もなくから始まっている。
1891年11月30日付の西田千太郎に宛てた手紙では、こう記している。
この都市は私がかって滞在したことのある都市の中でもっとも面白くない都市です。
とてつもなく長いとおりに卑小家が建ち並ぶ――立派な寺院や神社はなく、松江に比較してもほとんど寺院がありません。その場所全体が薄暗く、むさ苦しい様相を呈しています。
■熊本の城下町は、西南戦争で“焼け野原”に
八雲が松江を去ったのは11月15日のこと。当時はまだ鉄道が整備されていないから、瀬戸内海まで出て数日掛けて熊本に至っている。八雲の著書『日本の面影(または、忘れえぬ日本の面影)』は、松江を去る時のことを記し「我が小蒸気は、この神の国から絶えず遠く遠くへと、次第に迅く迅く、自分を運んでいく」で終わっている。
別にこれは旅の終わりではなく、大家族での熊本での新生活の始まりのはずだが、その感慨を記した文章はまったくない。恐らくは『古事記』に記された神話の里としての九州をイメージしていた八雲は愕然としたのだろう。
八雲が訪れた頃の熊本は、現在とはかなり街の様子が異なる。西南戦争で丸焼けになった熊本では復興が図られ、1886年には第五高等中学校の誘致にも成功している。一方で、復興計画は無茶苦茶だった。
1877年の西南戦争で、熊本の城下町は文字通り焼け野原になった。しかも、政府軍が籠城する熊本城を守るための「焼払い作戦」によって、城下の大部分が意図的に焼かれたのだ。
軍施設のあった本丸や二の丸周辺を除き、ほぼ全域が焼失している。
■道路は倍くらいに拡幅されたが…
これを「チャンス」と捉えたのが、当時の熊本県令・富岡敬明だった。なんと籠城中から戦後の都市計画を構想し、包囲が解けるや否や、すぐさま政府に市区改正費10万円を要求している。焦土と化した城下に家が建ち始める前に道路を広げてしまおうという発想だ。財源には窮民救助のための救恤金を流用するという強引さで、とにかくスピード重視で復興を進めた。
実際、それまで3間(約5.4メートル)程度だった主要街路は6間(約11メートル)に拡幅され、歩道と車道の分離まで導入された。当時の新聞は「九州第一の都會」になるだろうと煽り立てた。
ところが、である。道路こそ広がったものの、街区の基本構成は城下町時代のまま変わっていない。つまり、通りは立派になったが、その両側に並ぶのは城下町の区画に押し込められた「卑小家」の列だ。城下町の風情は焼失で消え去り、かといって近代都市としての都市構造にも生まれ変われなかった。
今風に言えば、こういうことである。
老朽化した駅前商店街を「再開発だ!」と言って更地にした。道路は広くなり、駅前ロータリーあるいはペデストリアンデッキはできた。ところが、タワマンの商業フロアはテナントが埋まらずスカスカ、旧来の商店街の賑わいは消え、かといって新しい都市の魅力も生まれていない(同じ九州でいえば福岡市の香椎が代表例。「西の西新、東の香椎」といわれた商店街が再開発で潰滅。旧来の賑わいが失われ筆者としては非常に残念)……あの既視感である。
■「軍施設」が駅と市街地の間を分断していた
さらに問題だったのは、熊本が「軍都」として再建されたことだ。1886年には第五高等中学校の誘致に成功するなど、教育都市としても発展する一方で、一貫して軍の存在は大きかった。
結果、富岡案による整備が開始された時点では、現在の練兵町、辛島町あたりには巨大な練兵場が鎮座しているままだった。この練兵場が移転したのは1900年。一方、九州鉄道が熊本駅まで延伸したのは1891年である。つまり、鉄道が開通した時点で市街地の間を、軍の施設がどんと分断していたのである(松澤真由美「西南戦争後の復興街路計画にみる熊本城下の近代都市づくりの第一歩」『熊本都市政策』vol.7)。
こうした事情が積み重なり、熊本市はJR駅と市街地が離れたいびつな都市として現在に至っている。
要は、街づくりでとことんしくじってきたというわけだ。
こう見てくると、八雲のディスりは単なるワガママではなかったことが分かる。「とてつもなく長いとおりに卑小家が建ち並ぶ」「立派な寺院や神社はなく」「薄暗く、むさ苦しい」――これらはいずれも、中途半端な復興と軍都化がもたらした熊本の構造的な問題を、外国人の目で正確に捉えた描写だったのだ。
松江には城下町の風情がそのまま残り、神社仏閣が溢れ、八雲にとっての「日本の面影」そのものだった。熊本は、その風情を西南戦争で失った上に、代わりに得たものが軍の施設と中途半端に広い道路だけだったのである。
■「日本のもっとも醜い、もっとも不快な都市」
そもそも、八雲が最初に上陸した横浜は近代化された街であったが、人力車で巡ることが出来る地域には、神秘的な日本の姿があった。松江は文字通りの神の国であった。でも、熊本にはなにもなかった。これは、八雲が憤るのも当然だ。
この憤りは止むところを知らない。熊本で最初に住んだ家は、今も市の有形文化財として保存されているが、この家に対しても松江の家に比べて、大きさはだいたい同じだが、あまりよくありませんし、庭がひどく見苦しいし家賃が高いと愚痴っている。
翌1892年6月27日付の手紙でも、評価は変わらない。

熊本はまさに私が最初に思った通りの場所で、日本のもっとも醜い、もっとも不快な都市です。
ここまで書かれてるのに、松江に比べて盛り上がりに欠けるとはいえ「ばけばけ」の放送にあたって博物館で特別展を開催したり、観光パンフをつくっている現代熊本人は聖人かなにかか? とまで思ってしまう。
いや違う。感情の起伏が激しく悪罵を始めると筆が滑ってしまう八雲だが、実のところそんな熊本にも、なにか見るべきものがあるのではないかと努力はしている。実際に、この手紙の中には、こうも書かれているのだ。
私は東京に行くもう一つの機会がありましたのに、それを断りました。熊本では、東京ではできない仕事――文学上の仕事――に対して、たくさんの機会を得る都合がつきます。
■祝賀会で“朝までオール”した八雲
実際、熊本の街そのものを嫌い、自分をいらだたせている同僚たちに憤っていた八雲だが、別に、陰鬱として引きこもっていたわけではない。
いくら好きになれない街だとしても家族を支えるためには、ここに住み続けなければならない。だから、少しでも環境をよくしようとしたのか、かなり社交に精を出している。
熊本について、初めての正月には陸軍の宴会に羽織袴で出かけている。松江と比べれば大都市で、外国人も珍しくない熊本だが、さすがに羽織袴で現れた八雲を見て、なにごとかと思われたらしく、たいそうな人気者になっている。

そんな中で注目したいのは、1894年3月に行われた明治天皇銀婚式の祝賀のことだ。この時、第五高等中学校でも祝賀会が開催されたのだが、八雲はこれに参加して明け方まで楽しんでいる。
その様子は、職を紹介してくれた東京帝国大学のチェンバレン教授への手紙に詳しい。読んでいるだけで騒音が聞こえてきそうな、今も語り継がれる旧制高校のバンカラ文化そのもののカオスである。
一応、天皇陛下を言祝ぐ行事である。教職員と生徒とで集まって明治天皇の肖像に拝礼する。ここまでは厳粛だ。ところが、その直後にはもう食堂に移動して宴会が始まる。生徒達は「天皇陛下万歳!」を何度も叫びながら、歌を歌い、踊り、騒ぐ。
もはや祝賀は単なる口実で、要するに若者たちが合法的に騒げる絶好の機会なのだ。現代で言えば、ハロウィンの渋谷である。教師たちは学生たちが唄う……というより、ほとんど叫んでいるだけの低俗な歌詞に顔をしかめている。
■若者たちの“馬鹿げた熱狂”に感動
ところが、八雲は違った。日頃から街の貧相さと同僚の俗物ぶりに憤っていた八雲が、このバカ騒ぎを心から楽しんでいるのだ。チェンバレンへの手紙には、抑揚のたびに屋根が上下するようだったという歌の感想を、こう綴っている。
私はこんな歌を聴くといつもそうなのであります。魂が生きている、そう私はその時思います。――それが残っている間は、いつも希望があります。(『小泉八雲全集』第10巻第一書房、1931年)
熊本の街並みには失望し、同僚教師たちには辟易していた八雲が、若者たちの馬鹿げた熱狂には「魂が生きている」と感動しているのである。この落差が実に面白い。
実際、八雲の性格はどことなく暗さを帯びているように思えるが、実のところ陽気なマッチョのノリも彼は大いに好んでいたようだ。1894年6月に、卒業生に向けた「極東の将来」という講演の中で、八雲は、こう記している。
私は日本の将来が偉大になれるかどうかはその九州魂あるいは熊本魂、即ち質素な善良な単純な者を愛して、生活の奢侈贅沢を憎む心――を保存することいかによると考えるのである。
■“熊本の気質”を感じ取ったか
熊本が嫌な街とか散々ディスっていたはずなのに、九州男児のスピリッツには心酔している! この矛盾はいったい何なのか。
実は、ここに八雲という人間を理解する上で極めて重要な鍵がある。彼が熊本の若者たちに見出したものは、単なる「元気の良さ」ではなかった。それは、中央権力に対する独立精神、長いものに巻かれない気概だったのだ。
熊本という土地を歴史的に振り返れば、これは偶然ではない。元来、熊本は中央とは異なる意識が強く、単なる反骨精神ではない、実効支配と独立自営の気風を養ってきた。
八雲がこの土地の若者たちの「魂」に感動したのは、まさにこの歴史的な気質を直感的に感じ取ったからではないか。
そして、ここで重要なのは、八雲自身のルーツである。これまで記してきたように、彼の母ローザはギリシャ人かつロマ(ジプシー)やアラブの血も混じっていたとされている。
ギリシャはペルシア、ローマ、オスマン帝国と、常に大国の支配下に置かれながらも、独立を勝ち取った土地だ。母の血統に混じるロマは、どの国家にも属さず独自の文化を守り続けた。アラブの血もまた、部族の誇りと独立心を重んじる。
■“街に生きる魂”に希望を見出した
つまり、八雲の血の半分は、「中央に従わない」文化を受け継いでいた。この血が、中央に媚びない熊本の若者たちの野性に、激しく反応したのだ。
松江で妻セツと結ばれ、熊本で長男・一雄が生まれた八雲は、今度は自分が家族を守る立場になった。熊本の若者たちが持つ「質素な善良な単純な者を愛して、生活の奢侈贅沢を憎む心」。そこに八雲は、オスマン帝国下で質素な暮らしの中、家族と共同体の絆だけは守り抜いたギリシャ人の精神を重ねていたのではないか。
独立精神と家族への愛。この二つが矛盾なく同居する熊本の魂に、八雲は母の血が教えていたものを見出した。街は嫌いでも、そこに生きる魂には希望を見出す。これが、八雲の熊本体験だった。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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