NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、墨俣一夜城が描かれる。ただ、秀吉が一夜城を築いたという話には、史料的な裏付けがない。
歴史評論家の香原斗志さんは「墨俣に城が築かれたことがあることはまちがいない。その姿は、現在城跡に建つ城郭とはまったく違うものだった」という――。
■墨俣一夜城の本当の姿とは
尾張(愛知県西部)統一を成し遂げた織田信長(小栗旬)は、斎藤氏が治める美濃(岐阜県南部)の攻略を本格化させた。それにあたっては、木曽川沿いの墨俣(岐阜県大垣市)に砦を築く必要があったが、いろんな家臣が失敗を重ねた挙句、ついに藤吉郎(池松壮亮)と小一郎(仲野大賀)の兄弟がまかされることになった。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第7回「決死の築城作戦」(2月22日放送)。
これまで砦が完成する目前に敵がなだれ込んで失敗しているので、数日で完成させられれば勝機があると踏む藤吉郎。小一郎も、あらかじめ下ごしらえすれば、つまり川の上流で木を伐り出し、ある程度組み立ててから墨俣まで流せば、一気に完成させられるのではないか、と思いつく。
だが、それには尾張と美濃の国境の、入り乱れた川筋を仕切る川並衆の協力が不可欠だった。そこで、川並衆出身で織田家の家臣になっている前野長康(渋谷謙人)に口を利いてもらい、川並衆の蜂須賀正勝(高橋努)を味方に引き入れる作戦に。ひと悶着あった末に、長康と正勝の力を借りて、墨俣に砦を築けることになった。
第8回「墨俣一夜城」(3月1日放送)では、長康と正勝の指揮のもと、まさに斎藤側に攻められる前に砦ができる。まさに「一夜」にして完成した「一夜城」の面目躍如だが、この墨俣一夜城とは、どんな城(砦)だったのだろうか。

■フィクションという説
じつは、秀吉が華々しく成功して出世への足がかりをつかんだきっかけとして、よく知られている「墨俣一夜城」の逸話に対しては、フィクションだとする声も根強い。そう主張する側の最大の根拠は、織田信長の事績を細かく記録した太田牛一著『信長公記』が、「墨俣一夜城」に一言も触れていないことにある。
墨俣一夜城については、どこに書かれているのかというと、江戸時代初期にまとめられたとされる『武功夜話』だが、この史料に対しては、「創作だ」「ニセモノだ」という声が絶えないのである。だが、ともかく、どんな史料なのか説明しておきたい。
愛知県江南市前野にある吉田家(前野姓から改姓された)から昭和34年(1959)に発見されたという『前野家文書』の一部が『武功夜話』で、そこには、墨俣一夜城が築かれた経緯がかなり具体的に書かれていることがわかった。活字化され、昭和62年(1987)に出版された際には、戦国史をひっくり返す衝撃的な史料として注目された。
実際、そこには墨俣一夜城を築城した経緯が、たとえば、以下のように記されている。
■江戸時代にまとめられた史料によると…
まず、蜂須賀正勝が前野長康に宛てた永禄9年(1666)7月の書状は、次のようなものである。
「今般木下藤吉郎殿御忍びにて拙宅罷在候、ヒソヒソ語にて美濃斉藤左兵衛太夫殿を織田上総殿御退治の旨伝候。夜陰に乗じ墨俣へ押出し城を築く策有之藤吉郎殿申される様、八曽材にて柵を作る由有之縄も藤づるにて結ぶ事道具肝要と心得居り候
(このたび木下藤吉郎殿がひそかに拙宅にいらして、内緒の話として美濃の斎藤龍興殿を織田信長殿が攻略されると伝えられました。夜の闇を利用して墨俣に進攻して城を築く計画だと藤吉郎殿はおっしゃり、八曽からの木材で柵を作り、柵は藤づるで結ぶというので、道具も大事になってきます)」

かなり具体的である。あるいは、前野長康の言葉としてこんな文言も。

「墨俣なる処大小の河川沼沢入り乱れて空き地なり。織田上総殿稲葉城正面をさけて此の地点に城を築くと言ふ。戦はずして勝つ夜打朝駈けは我らの得手也
(墨俣という場所は大小の河川や沼が入り乱れた空き地です。織田信長殿は稲葉山城の正面を避けてここに城を築くといいます。戦わずに勝つ夜襲や朝の不意討ちは我らが得意な戦法です)」
「墨俣本拠築城は夜之を取行ふもの也(墨俣の築城は夜行うこととします)」

■城があったことはまちがいない
相当に具体的で、信長の戦略も、墨俣の特徴も、そこでの城(砦)の築き方も、頭のなかで映像化できるほど鮮やかに伝わる。
だが、これほど明瞭な「史実」をなぜ『信長公記』が無視しているのか、という疑問にはじまり、内容に対しても、さまざまな「ケチ」がつけられるようになった。たとえば、昭和29年(1954)の市町村合併で、富田村と加治田村が合併してはじめて誕生した「富加」という名が登場するのはそのひとつだ。
「現代的な読みやすい文章」だという指摘もあるが、たしかに、この時代の史料と考えると異例なほど読みやすいのはまちがいない。また、所有者の吉田家がこの史料を非公開にしていることも、疑いがふくらむ原因になっている。
一方、書かれた内容に誤りがあったとしても、一部の誤りを理由に史料的価値がないとすべきではない、という主張も根強い。要は、『武功夜話』が「ニセモノ」なのかどうか、書かれた内容がフィクションなのかどうか、結論はまったく出ていない。
ただし、この地に城が築かれたことがあることはまちがいない。
史料にも登場し、斉藤側であったことも織田側であったこともあるようで、古地図にも「城あと」と書かれ、「城」がつく地名も残っていた。発掘では兜や刀も見つかっている。では、それはどんな城だったのか。
■現在の「墨俣城」とはまったく違う姿
「豊臣兄弟!」の第8回に登場する墨俣一夜城は、空堀を掘って土塁を積み、そこに馬防柵をめぐらした、きわめて簡易な城のはずだ。現実の墨俣城も、それが「豊臣兄弟!」で描写される一夜城だったとしても、一夜城ではない恒常的に使用する城だったとしても、現代人が「城」という言葉から想像するものとは、似ても似つかないものだったことだけはまちがいない。
この時期、信長はすでに居城の小牧山城の中心部を、巨石をもちいた三重の石垣で囲んでいたが、高層の天守はまだ建っていなかったと考えられる。ましてや小さな陣城は、空堀を掘り、その土を盛って土塁とし、その上に木の柵をめぐらし、ごく簡易的な建物を建てるのがせいぜいだった。
さて、その墨俣城址だが、洪水や戦後のたび重なる河川改修の結果、元来の城跡は大半が川底に沈んでしまい、遺構は残っていない。だが、その後、城址はさらなる変化に見舞われることになった。平成3年(1991)、白亜の天守が建てられたのである。
4重5階地下1階で、最上階の屋根には金色の鯱が乗るこの鉄筋コンクリート製の天守は、近隣の大垣城天守の外観を模して建てられた。
■原資は竹下総理の「ふるさと創生1億円」
じつは、この天守、昭和63年(1988)から平成元年(1989)にかけて、当時の竹下登内閣が各市区町村に、地域振興のためだとして交付した1億円を原資に建てられた。

この「ふるさと創生基金」は、たとえば、高知県中土佐町が純金のカツオをつくり、秋田県仙南村が村営キャバレーをもうけ、兵庫県佐用町が日本一長い滑り台を設置するなど、その使い道が激しく批判された自治体が多かった。そんななか、岐阜県の旧墨俣町は、この天守の総工費7億円の一部に当てたのである。
その内部は歴史資料館として利用されているので、純金のカツオや村営キャバレーよりはマシだといえよう。しかし、すでに述べたように、墨俣一夜城の逸話が史実であろうがなかろうが、ここにあった城は、白亜の天守とは縁もゆかりもない。そもそもモデルとなった大垣城天守は、江戸時代初期に整備されたもので、時代がまったく異なる。
それなのに、現実に白亜の天守が建っていれば、訪れた人の多くが、かつてここにこうした建物が建っていたのだと誤解しかねない。歴史を誤解させるために国の予算が使われたといっても過言ではないだろう。
ここを訪問者は、「墨俣の歴史とこの建物は関係ない」ことを肝に据え、実際に見える景色を打ち消しながら、かつての光景を想像するという、やっかいな作業を強いられる。なんとも罪作りな歴史資料館なのである。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。
著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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