■ヒトラーでも敵わない20世紀最大の殺人者
【兼原】20世紀最大の人道的悲劇は、多分毛沢東の大躍進ですよ。無辜の市民を大規模殺害したホロコーストの代表例と言えば、600万のユダヤ人を虐殺したヒトラーとカンボジア人口の4分の1(170~180万)を虐殺したポル・ポトですが、スターリンと毛沢東も20世紀に非常に多くの自国民を殺した2大殺人者です。特に、毛沢東が中国国民にもたらした死者の数は数千万人で桁が違う。
【垂】1956年のフルシチョフによるスターリン批判は、毛沢東にとって大きな衝撃でした。毛沢東はスターリンに対して複雑な感情を抱いており、個人的には必ずしも好意的ではありませんでしたが、中国でスターリン批判を展開すれば、当然毛沢東自身への批判につながることを強く意識していました。そのため、毛沢東はスターリンを「功績7割、過ち3割」と評価し、全面否定を避けました。
また、フルシチョフの「平和共存論」に対しても、これは革命の放棄であり、米帝国主義への協調だとして厳しく批判し、中ソ対立は次第に激化していきます。こうした状況の中、国内では先に述べた大躍進の失敗により毛沢東の権威は大きく揺らいでいました。そこで毛沢東は、権威と権力を取り戻すべく、1966年から文化大革命を発動し、劉少奇や鄧小平ら実権派に対して激しい攻撃を加えました。
文革により、紅衛兵による暴力的な粛清や知識人への迫害、党・国家機関の麻痺などが全国に広がり、中国社会は深刻な混乱に陥りました。文革についても、大躍進と同様に正確な研究が許されていないため詳細は不明ですが、数百万人から2000万人が犠牲になったと推定されています。
■謎の死を遂げた「毛沢東の後継者」
【兼原】文革の猛威は有名ですね。私も『芙蓉鎮』という中国映画を見て、こういうことだったのかと想像ができるようになりました。しかし、「造反有理」と言って子どもたちを思いっきり煽って、既存の政治体制や社会をぶっ壊すというのが、いま一つピンと来ません。日本の総理大臣がいくら中高生を煽っても自民党や日本政府は潰せないですよ。でも、文革で毛沢東がやったのは、そういうことですよね。
【垂】日本の首相が煽っても通用しないでしょうが、当時の毛沢東は神のように崇拝されていました。その背景には、夫人の江青らの「四人組」や林彪の強い影響力もありました。林彪は毛沢東語録を編纂し、自らの出世と軍のトップとしての地位を固め、将来的には毛沢東の後継者になるとの野望を抱いていました。実際、1966年に彼は党内序列2位まで上り詰めます。
【兼原】でも結局、殺されますよね。
【垂】1971年、ソ連に逃亡しようとした林彪の搭乗機がモンゴルで墜落し、死亡しました。その真相はいまも不明ですが、林彪が毛沢東に取って代わろうとした計画が露見し、追い詰められて逃亡を図った結果だとされています。林彪がソ連寄りであったことは確かだと思います。
■台湾問題が表面化したきっかけ
【垂】こうした国内の混乱が続く一方で、国際政治において中国はソ連修正主義を主敵に据え、米帝国主義と手を結ぶという戦略的大転換を行いました。これは、イデオロギーを超えた現実主義的な外交方針への転換でした。
1971年7月にはアメリカのキッシンジャー大統領補佐官が極秘裏に北京を訪れ、翌1972年2月にはニクソン大統領の電撃的な訪中が実現しました。この訪中は世界に衝撃を与え、両国は「上海コミュニケ」を発表して国交正常化への道筋を明確にしました。
同コミュニケでは、「一つの中国」原則に関して、中国側が台湾を中国の一部とする立場を表明し、アメリカ側はその立場を「認識」(acknowledge)するにとどめつつ、平和的解決を求める姿勢を示しました。なお、ニクソン訪中は副次的効果として、同年9月の日中国交正常化にもつながっていきます。
もっとも、米中の関係改善にはアメリカ国内では慎重論も根強く、米中国交の正式な樹立は1979年1月まで待たされることになります。その際、アメリカ議会では「台湾関係法」が制定され、台湾との実質的な経済・安全保障関係を維持する枠組みが残されました。これにより、米中関係は協調と競合を併せ持つ複雑な構造を抱えたまま現在に至っています。
■首脳会談で露わになった中国の焦り
【垂】1970年代初頭の米中接近の背景については『キッシンジャー秘録』に詳しく記されていますが、それによるとすでに1970~71年頃から米中両国は対ソ連牽制で接近し始めていました。
アメリカにとっては、泥沼化していたベトナム戦争から「名誉ある撤退」を模索していたことも大きな要因でした。一方、中国にとっては1969年のダマンスキー島事件をきっかけとする国境武力衝突によりソ連との全面戦争の危機が現実味を帯びていました。
こうした地政学的危機感が、毛沢東をして「敵の敵と手を結ぶ」という決断へと導いたといえます。
【兼原】田中角栄と周恩来の対談記録も日本では全部公開されていますよね。あれを読むと、周恩来は日中国交正常化を「一気呵成にやりたい」と言っています。田中首相はああいう人だから2カ月で本当にやっちゃいますが、その時の記録を読んでいると、周恩来が「ソ連の6個師団がモンゴルに下りてきている」という話をしています。
69年に中ソの国境紛争のダマンスキー島事件が起こっています。双方で百万近い軍勢が動いたと言われており、そのまま最終的な解決に至らず、両軍とも戦闘態勢は崩していなかった。
■日本の軍備増強を中国共産党が懇願していた
【垂】ダマンスキー島事件では実際に実弾を撃ち合って、戦死者も出ましたからね。
【兼原】北京は満洲のすぐ下で、モンゴルは山の向こう側です。当時のソ連は米国と核で対峙する超大国で、文革で青息吐息の中国の敵ではない。
中国共産党はこれに震え上がって、(日中国交正常化を)一気呵成にやってくれ、今の日本では軍事力が小さくてソ連と戦えない、ソ連の覇権主義に対抗しろ、もっと軍事力を高めろ、防衛予算を増やせ、誇りを取り戻せ、北方領土を取り返せ、などと盛んに日本を煽っている。今と逆のことを言っていたんです(笑)。
【垂】当時の毛沢東からすれば、本当にソ連が怖かったんでしょうね。
当時、周恩来が外交全般を握っていました。外交部だけでなく、情報機関や新華社通信など、対外関係に関わる情報を包括的に把握していたのです。特に情報機関としては、現在の国家安全部の前身に当たる党中央調査部という組織が存在し、巨大な影響力を持っていました。この組織は政府機関ではなく党中央直属機関であったため、その権限は極めて大きなものでした。
■創価学会と中国共産党の深いつながり
【垂】党中央調査部は大きく分けて2つの系統がありました。第一は国内系統・政治監視で、文革で悪名を馳せた康生が影響力を持っていました。
康生は党内の「反革命分子」「修正主義者」「走資派」を摘発する情報を収集し、毛沢東に報告することで粛清に関与していたのです。文革後期(林彪失脚後)には、「四人組」と協力して「批林批孔」を展開し、周恩来にも圧力を加えました。
第二は、対外情報の系統です。こちらは、周恩来が直接仕切っていました。重要な対外情報は周恩来のもとに集約され、とりわけ日本関係の情報は詳細に報告されていました。当時の中国は日本の動向を強く警戒し、非常に高い関心を寄せていたのですよ。
有名な話だと、国交正常化の前に竹入義勝公明党委員長が訪中し周恩来と面会したときの内容を「竹入メモ」として田中角栄に渡したことが知られていますが、それ以前から周恩来は公明党の支持母体である創価学会に関心を有していました。
1968年、池田大作創価学会会長が演説で日中国交正常化を提言していますが、こうした動きは随時、周恩来に報告されていました。つまり、当時の対日関係は周恩来の強い指示で一元的にコントロールされていたのです。
鄧小平ら党の実務派幹部は文革期に、この党中央調査部から厳しく監視・弾圧されました。そのため、毛沢東の死後に鄧小平が復権すると、党中央調査部は事実上解体され、1983年に国家安全部が新設されました。
国家安全部は国務院(政府)に属し、党中央直属だった調査部よりも格下の存在です。しかも、かつての調査部のように政敵を陥れる情報収集は行わないとされました。しかし、近年の習近平体制下では再びその役割が拡大しつつあり、現代的な意味で大きな問題となっています。
■中国とも北朝鮮とも密接な政党
【兼原】ちょっと話が飛びますけど、中ソが対立した後の日本の共産党、社会党と中国共産党との友党関係はどうなったんですか。
【垂】中ソ対立後、日本共産党はモスクワ寄りでしたが、1960年代に入ると「自主独立路線」を取ります。これに伴い、中国共産党を「覇権主義」と批判し、逆に中国共産党からは「修正主義」と批判されるなど、両党の間で激しい公開論争が展開されました(63~64年頃)。
一方、社会党は一貫して中国共産党の統一工作の対象であり、特に1972年の日中国交回復以降は、中国共産党との関係を深めていきました。もっとも、中国共産党にとっての主要な工作対象は政権与党の自民党でしたが、日本の左翼勢力の中で日本共産党を孤立させるため、いわば「安全牌」として社会党を利用していたと考えられます。
なお、社会党は北朝鮮とも長らく密接な関係を持っていました。私がかつて北朝鮮を訪れた際、金日成・金正日への各国からの贈り物を陳列する国際親善展覧館(妙香山)を見学したことがありますが、日本の自民党や社会党からの贈呈品が非常に多く、その中には土井たか子からの品も目立っていました。さらには日本海側の地方自治体からの贈呈品が多く、中国と日本からの寄贈品が最も多かったことを記憶しています。
【兼原】ちょっと残念な話ですね。拉致問題が明るみに出た今では考えられない。
----------
兼原 信克(かねはら・のぶかつ)
笹川平和財団常務理事
1959年山口県生まれ。東京大学法学部卒業後、1981年に外務省に入省。フランス国立行政学院(ENA)で研修の後、ブリュッセル、ニューヨーク、ワシントン、ソウルなどで在外勤務。2012年、外務省国際法局長から内閣官房副長官補(外政担当)に転じる。2014年から新設の国家安全保障局次長も兼務。2019年に退官。著書に『歴史の教訓』『日本人のための安全保障入門』など多数。
----------
----------
垂 秀夫(たるみ・ひでお)
前駐中国日本国特命全権大使、立命館大学教授
1961年大阪府生まれ。京都大学法学部卒業後、1985年に外務省入省。中国語研修組(チャイナスクール)として、一貫して対中外交に関わる。南京大学に留学の後、北京、香港、台北などで在外勤務。2006年、日中の「戦略的互恵関係」の構想を発案。2020年、駐中国日本国特命全権大使に就任。2023年12月退官。著書に『日中外交秘録 垂秀夫駐中国大使の闘い』。
----------
(笹川平和財団常務理事 兼原 信克、前駐中国日本国特命全権大使、立命館大学教授 垂 秀夫)

![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 昼夜兼用立体 ハーブ&ユーカリの香り 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q-T7qhTGL._SL500_.jpg)
![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 就寝立体タイプ 無香料 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51pV-1+GeGL._SL500_.jpg)







![NHKラジオ ラジオビジネス英語 2024年 9月号 [雑誌] (NHKテキスト)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Ku32P5LhL._SL500_.jpg)
