■悪評は生前からついて回った
豊臣秀吉が没したのは、慶長3(1598)年。その翌年、中国地方の大名・毛利家の重臣が、大坂城で起きたある出来事を伝える書状を国許に出した。その内容が『萩藩閥閲録(はぎはんばつえつろく)』の慶長4年(1599)12月2日の項に載っている。
「大野修理(おおのしゅうり)(治長(はるなが))という御前のおぼえもよい人がお拾(ひろい)様(豊臣秀頼)の御袋様(淀殿)と密通するという事件が起き、修理を討ち果たそうとしたが、その後、宇喜多家に引き取られた」
大野治長は豊臣秀頼と淀殿の側近として知られる武将だ。その治長が淀殿と男女の関係にあったため成敗されそうになったが、結局は宇喜多家の預かりになったと記されている。
確かに治長は同年10月、一時的に流罪に処されているが、その理由は徳川家康の暗殺計画に加担した罪によるもので、預けられたのも家康の子・結城秀康が治める下総国(千葉県北部と茨城県南西部)の結城藩だった。
この書状には家康暗殺未遂が密通に、結城が宇喜多にすり替わるという明らかな誤認があるため、もとより信用できる代物でもない。しかし、注目すべきなのは慶長年間の初期、すでに淀殿に「男にだらしない」という悪評がついて回っていたことである。なお治長は翌年、家康に許され関ヶ原の戦い(慶長5/1600年)では東軍に属した。
■死後は「好色」「妖怪」の罵詈雑言
淀殿死後の評判はもっと酷い。ボロクソである。一例をあげよう。
「よどのきみ、顔よきのみならず、色好む性あり」(淀君は器量が良かっただけでなく好色だった)『胆大小心録(たんだいしょうしんろく)』文化5(1808)年
「淀君蛇形をあらはす」(淀君の正体は蛇身の妖怪)『絵本太閤記 七編』享和2(1802)年
「好色」「妖怪」――罵詈雑言の極みだろう。現代では和らいだものの、TVドラマなどに登場する際は相変わらず勝気でプライドが高い、いわゆる女狐タイプに描かれることが少なくない。決して好印象とはいえない。
最近でこそ淀殿と「殿」の敬称を付けて呼ばれるが、以前は「淀君」が一般的だった。「君」は侮蔑的な意味もあったという。
「(江戸時代の)最下級の遊女である辻君(つじぎみ)(夜鷹ともいった)、すなわち道端で春を売る女にことよせて淀君と呼んだ。そんな悪女が家康に逆らい、豊臣を滅亡に追い込んだ」(明治時代に刊行された『閨閤伝(けいこうでん)』より)
つまり豊臣は「淀君」という娼婦に毒され、それが理由で秀吉・秀頼のわずか2代で滅んだ――江戸から明治時代にかけては、そう捉えられていたわけだ。
■実像不明のまま「日本三大悪女」にされた
淀殿の母は織田信長の妹・お市の方、父は北近江の戦国大名・浅井長政。信長と長政が軍事同盟を結んだ永禄10(1567)年頃、協力関係の証しとして浅井に嫁ぎ、茶々(ちゃちゃ)・初(はつ)・江(ごう)の三姉妹を産んだ。
戦国の姫の波乱万丈のストーリーだが、実はその素顔は、前述の毛利家臣書状のような噂レベルのものを除くと、同時代の史料にほとんど載っていない。早い時期には実名の「ちゃちゃ(茶々)」、秀吉の側室になって以降は「淀の女房」、秀頼を産んで伏見城に移ると「西の丸殿」(城の西の丸に居住したため)、「お袋様」などと呼ばれているのが確認できるくらいで、慶長期に書かれた『甫庵太閤記』にも出てこない。
北条政子・日野富子と並ぶ「日本三大悪女」といわれるほど著名なのに、実像がほとんどわかっていない。それにもかかわらず、人々は悪女と決めつけたのである。
■「豊臣秀頼は秀吉の子ではない」説まで登場
淀殿の悪評の根源にあるのは、詰まるところ豊臣秀頼は秀吉の実の子ではなく、不貞を働いて産み、豊臣の後継者とするのに成功した、と噂された点にあるだろう。
その不貞の相手、つまり秀頼の実父と目されたのが秀頼の乳母・大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)の息子、大野治長だ。冒頭の毛利家臣の書状も、治長が秀吉存命中から淀殿と関係があったと匂わせている。
実際、秀吉は長らく子宝に恵まれなかったのに、淀殿は側室になるや、ほどなく身ごもった。鶴松と名付けられた第一子は3歳で夭折したが、2年後には秀頼が誕生した。秀吉には若い頃から連れ添った妻・寧々に加えて側室も大勢いたのに、淀殿だけが2人も懐妊するのはおかしいと、周囲は騒いだ。
淀殿と治長密通の噂が流布していた形跡は、他にもある。例えば奈良興福寺の塔頭多聞院に残る『多聞院日記(たもんいんにっき)』。
「秀吉は遺言で家康と淀殿が夫婦になるよう命じていたが、治長が淀殿を連れて駆け落ちした」
この話も風聞を書き留めただけで、根拠はないように思える。ただ、こうした記載がもとになって後世、秀頼の実父は治長という噂がまことしやかに流れてしまい、それが「淀殿好色説」につながっていったのは確かだろう。
■頼れたのは大蔵卿局と大野治長だけ
秀吉と、秀頼の傅役(もりやく)だった前田利家が死去したのち、淀殿が頼りにできた相談相手は大蔵卿局と治長しかいなかったろう。つねに治長を側に置いている姿を見れば、「2人は男女の仲」であると邪推されるのも、やむを得なかったとは思う。
しかし、だからといって、状況証拠だけで「デキている」と断じてしまうのはどうなのだろう。しかも、こうした風潮は今も昔も変わらない。
なお、秀吉には長浜城主だった時代(天正元/1573年頃)に、母親は不明だが「秀勝」(幼名・石松丸)という男児が誕生し、天正4年(1576)に死去したという伝承もある。
もっとも秀勝が実在したのか、実在したにせよ本当に秀吉の実子だったかは、歴史研究者によって意見が分かれ、真相は不明だ。だが、事実であれば秀吉に子が生まれなかったというのは噂に過ぎなかったことになる。
また、戦国期は幼児の死亡率が高かったろうから、他に記録に残らず死亡した落とし胤(だね)がいたとしても、不思議とは思えない。
■北政所を慕う勢力から向けられた反感
いずれにせよ、淀殿を中傷する噂は多く、これは彼女の存命中からその存在を疎ましく思う者がいて、貶めようとしていたことを物語っている。
秀吉の晩年、妻たちには明確な序列があった。第一の座は正室の北政所(寧々)。第二が秀頼を産んだ淀殿。その後に京極竜子らの側室が続く。これは慶長3年(1598)に秀吉が催した「醍醐の花見」において、女性たちが乗った輿(こし)の順番によってわかっている。
この花見の宴席で、秀吉から賜る盃の順をめぐって淀殿と竜子が言い争いになり、北政所が仲裁して収めたと、加賀前田家の重臣が記録に残している。事実なら、淀殿は北政所に頭が上がらなかった。
だがこの頃、秀吉は異常なほど秀頼を溺愛していた。会えない時間が長いと「再会したら口を吸ってあげよう」と手紙を書き、諸大名には秀頼への忠誠と、背いた場合は成敗するという誓書まで提出させていた。こうした深い愛情を背景に、「御袋様」である淀殿が増長してもおかしくはなかったろう。
さらに秀吉が死ぬと、秀頼と淀殿はそれまで住んでいた伏見城から大坂城に入った。
その8カ月後、入れ替わるように北政所が大坂城を去った。秀吉に仕えた豊臣恩顧の大名には北政所を敬愛する者も多く、その筆頭が加藤清正や福島正則だったといわれる。しかし、彼らからしてみれば淀殿が秀頼の後ろ盾となり、実質的な大坂城主としての権限を持つのは面白くなかったと考えられる。
■家康は、淀殿の弱みを知っていた
実質的な城主である以上、時代の変化を察知し、政治をつかさどる任務があるが、淀殿は政(まつりごと)は素人で、天下がすでに豊臣から徳川に移行しつつある現状も認められなかった。
慶長10(1605)年、徳川家康は秀忠の2代将軍就任の祝賀のため、北政所を通じ秀頼の上洛を求めた。淀殿は激しく反発し、そんな事態になったら、「秀頼公を生害せしめ、その身も自害あるべし(秀頼を殺し、自分も死ぬ)」と、突っぱねたという(『当代記』)。
淀殿自身も健康を害していたらしい。徳川との対立が深まると不眠に陥ったと、お付きの医師・曲直瀬道三(まなせどうさん)が書き残している。精神も不安定だったのだろう。
そんな状態にいた女性が徳川との戦いを望む好戦派だったとも思えないが、家康は豊臣方がそろって政治も、戦も、経験不足だったところを突いて、大坂の陣を仕掛けた。
戦いは家康の思惑通りに展開し、慶長20(1615)年の夏の陣で淀殿と秀頼は自害して果てる。
■淀殿に豊臣滅亡の責任を押し付けた
戦後、徳川には「豊臣を滅ぼした」との汚名を着せられるリスクが生じた。特に大坂では太閤秀吉の人気がいまだ高かったため、批判を回避すべく、「滅亡したのは淀殿がいたから」と、責任のすり替えが始まった。
江戸幕府が文治政治の時代に入った17世紀後半、「雌鶏(めんどり)うたえば家滅ぶ」ということわざが流布するようになった。
これは中国の歴史書『書経』にある四字熟語「牝鶏之晨(ひんけいのしん)」を語源としたもので、雌鶏が雄鶏より先に鳴いて朝を知らせるという意味を持つ。そこから転じ、女性が男性に代わって権勢を振るうのは、国や家に不吉が起きる前兆だと示唆しているのである。
豊臣は女性の淀殿が実権を握ったため、自滅した。その後を統治している徳川は有能な男性将軍ばかりで、だからこそ正当性があるというわけだ。
令和の社会なら大バッシングを受ける男尊女卑の思想だが、17世紀はこれが当たり前だった。淀殿はそうした時代の汚名を、一身に背負った女性だったといえる。
淀殿の本性が「娼婦」「妖怪」などと、誰か見たのか?
参考文献
・山口県文書館編『萩藩閥閲録』(マツノ書店、1995年)
・中山幽夢『新編/閨閤伝』(叢書閣、1886年)
・原武史『〈女帝〉の日本史』(NHK出版、2017年)
・桑田忠親『人物叢書 淀君』(吉川弘文館、1985年)
・北川央『大坂城をめぐる人々 その事跡と生涯』(創元社、2023年)
----------
小林 明(こばやし・あきら)
江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表
編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。
----------
(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 昼夜兼用立体 ハーブ&ユーカリの香り 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q-T7qhTGL._SL500_.jpg)
![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 就寝立体タイプ 無香料 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51pV-1+GeGL._SL500_.jpg)







![NHKラジオ ラジオビジネス英語 2024年 9月号 [雑誌] (NHKテキスト)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Ku32P5LhL._SL500_.jpg)
