1995年4月、オウム真理教の教団施設から多くの子どもが保護された。子どもたちはどんな環境に置かれていたのか。
NHK「クローズアップ現代」取材班の著書『オウム真理教の子どもたち 知られざる30年』(集英社インターナショナル)より、救出に関わった警察と児童相談所の関係者たちの証言を紹介しよう――。
■サリン製造工場の隣で暮らす子どもたち
95年3月20日、都内を走る地下鉄の3つの路線で猛毒サリンがまかれ、14人が死亡、約6300人が被害に遭った「地下鉄サリン事件」。この2日後の3月22日、警察は、上九一色村の教団施設に強制捜査に入った。毒物を使った反撃があるかもしれないと、検知用のカナリアを連れて行く姿が繰り返しテレビニュースで流れた。
その際、教団施設の中で、子どもたちが劣悪な環境で集団生活を送っているのが確認された。このときに撮影された写真が、今回私たち取材班が請求し開示された山梨県中央児童相談所の記録の中に残っていた。
山梨県警察本部職員による「写真撮影報告書」で、撮影日は3月22日および4月14日と記されている。なお、この報告書は警察本部には残っていない。警察から児童相談所に提供されたものが、今回の開示請求で出てきたものとみられる。
事件後に山梨県がまとめた「オウム真理教対策の記録」によると、第10サティアンは鉄骨造り3階建てで、延床面積は約3400平方メートル。礼拝堂や体育館のほか、信者の居住スペースがあった。なお、サリン製造の化学工場があったのは、第10サティアンに隣接する第7サティアンである。

■垢の臭いとゴミの臭いが入り混じる
写真を見ると、第10サティアンの1階入り口には段ボール箱などが散乱している。警察官は靴を履いたまま中に入ったという。トイレが1階に設置されていたが、子ども用には「おまる」が置かれていただけだった。
2階に上がると、サンドバッグが吊り下げられた武道場、そして棚状のベッドがいくつも並ぶ居室が広がっている。ベッドには段ボールが敷かれたり、寝袋が置かれたりしていた。居住空間には窓がなく外光が入らない代わりに、昼夜分かたず蛍光灯が明々とともっていた。
壁に貼られた「教学進行表」によると、「死と転生」「尊師に聞く」「帰依の対象 それはグル」といったビデオを観た後に、試験が課せられていたことがわかる。電流が流れる帽子「ヘッドギア」を格納する棚もあった。一時保護当時、子どもたちが座っていた場所の床は汚れ、物が散乱していた。
このとき、実際に教団施設に踏み込んだ警察官が、甲府放送局の赤木雅実記者の取材で見つかった。石和警察署の警部補だった花形友夫さん(75歳)だ。サティアン内部の鼻をつく悪臭が花形さんの記憶に残っている。

「垢の臭いとか、ゴミの臭いとか、そういうのが入り混じった臭い。これは常識的なところに住んでいる子どもたちではないな。麻原彰晃からしてみればユートピアかもしれない。でも、はっきりいって、かわいそうな子どもたちだと思いました」
花形さん同様、現場に踏み込んだ警察官はみな、子どもたちが暮らす劣悪な環境に驚いた。学校にも通っておらず、親も近くにいない。まして、子どもたちが暮らす第10サティアンの隣には、サリン製造工場とみられる第7サティアンがあった。このまま子どもたちを危険な場所に放っておくわけにはいかなかった。
■「とても人間が生活するとは思えない状況である」
どのように子どもたちを第10サティアンから安全な場所へ連れ出すか。
4月6日午前、山梨県警察本部の少年対策室長(警視)が児童相談所を訪ねた。そして室長は、児相幹部に次のような要請をしたと記録に残っている。
要保護の必要がある児童が20人以上いるので、児童福祉法に基づく対応をしてほしい。生活状況は作業場のようなところに集団で寝起きしており、とても人間が生活するとは思えない状況である。

このときのことを児相の判定課長だった保坂三雄さんは、よく覚えている。
保坂さんはその日、4月の人事異動で着任したばかりの矢崎司朗所長のドライバーとして、関係各所にあいさつ回りに出かけていた。ところが、児相に戻ったら、制服姿の警察幹部2、3人が待ち構えていたのだ。
これまで保坂さんは、一連のオウム事件をどこか遠くの出来事、「他人事(ひとごと)」のように思っていた。
オウムが進出した上九一色村から甲府までは、険しい山と峠を挟んで約30キロ。対オウムの最前線に立っていたのは警察であり、上九一色村役場であり、そして富士ヶ嶺の住民たちだった。それがこの瞬間から、当事者として関わることになった。
■当初想定していた受け入れ人数は20~25人程度
「20人くらいの子どもが、ゴキブリやハエがいる衛生環境の非常に悪いところで生活をしているという話でした。学校にも通っておらず、親からも離れて生活しているという。上九一色村にそれほど多くの子どもがいるなんて全然知らなくて、びっくりしたことを覚えています」
警察関係者が帰った後、早速、所内で幹部による協議が行われた。警察の話では、確かに子どもたちは不適切な環境にいると認められる。しかし、児童相談所の職員は、誰も現場を確認していない。
保護が本当に必要かどうかの判断は、警察に委ねられる。しかし、地下鉄サリン事件後の騒然とした状況の中で、児相職員がサティアンに立ち入り調査を行うのは現実的ではなかった。
最終的には、児童相談所長の職権として、一時保護に踏み切ることになった。
そのうえで、次のような対応をとることが確認された。
・子どもは分散せず1カ所で保護

・24時間体制の警備を依頼

・虐待を想定した健康診断の実施
それから1週間、受け入れの準備が慌ただしく進められた。児相側は当初、20~25人程度の一時保護を想定していたが、その見込みは大きく狂うことになる。
■「約60人の要保護児童が施設内にいる」
95年4月14日午前7時、山梨県警は家宅捜索に入った。7時58分、「今、捜索しているが、状況によっては児童の保護をお願いすることになるかもしれないので、よろしくお願いします」と児童相談所に電話で連絡。この瞬間から、山梨県中央児相の職員にとって長い1日が始まった。
一時保護については事前に、次のような法的整理がされていた。すなわち、「保護者のない児童又は保護者に監護させることが不適当であると認める児童を発見した者は、これを福祉事務所又は児童相談所に通告しなければならない」という児童福祉法第25条(当時)に基づき、警察官が山梨県中央児童相談所にオウムの子を通告。
その後、所長が「児童に一時保護を加え、又は適当な者に委託して、一時保護を加えさせることができる」という第33条を根拠に、警察に保護を委託する――という手続きが取られることになっていた。
このため、児相側と警察側は綿密に連絡を取り合う必要があったのだ。
10時30分、警察は第10サティアンの2階部分の捜索を開始。同31分には、子どもたちを発見し、「世話人」と名乗る大人の信者に聴取を開始している。
同41分には、「氏名はわからないが、小学生くらいの約60人の要保護児童が施設内にいる。中には一見して体の弱った者がいるので緊急に一時保護したい」と、連絡が入った。ただちに、児相の矢崎司朗所長は一時保護を決定。現場の警察官に一時保護を委託した。
■警察からの連絡に児相側は混乱
警察の通告理由は「4人の女性及び同児童に氏名等を質問するも黙して答えず、また健康状態についても、不良と認められ、更に、保護者についても周囲には同道してなく判明しなかったことから、このまま放置すると児童の福祉に重大な阻害を及ぼすおそれが認められたため」とされている。
このとき、現場の警察官からの連絡は、警察本部にいる生活安全部参事官を介して、児童相談所の次長に伝わることになっていた。ところが、伝言ゲームを繰り返すうちに、保護対象の子どもの数がどんどん膨れ上がっていく。児相側が当初聞いていたのは25人だったが、それが50人になり、60人になり、最終的には75人になるかもしれないと伝えられた。
この連絡に児相側は混乱した。
一時保護所の定員はわずか12人。一度に75人もの子どもが来るとなると、県内の児童養護施設に分散して預かってもらうしかない。それには各施設や警察の警備担当者との調整が必要になる。ところが、そんな時間的猶予はなかった。
10時46分、児相からの委託を受けた警察官によって、一時保護が始まった。
第10サティアンは、子どもたちの絶叫と、信者たちの怒声に包まれた。
■「放して、放して」と泣き叫ぶ子どもたち
このとき、オウム側が撮影したビデオテープが見つかった。甲府放送局の赤木雅実記者が入手したものだ。
「警察が子どもを拉致!」という刺激的なタイトルで、平穏に生活していた教団施設の中に、国家権力が土足で踏み入り、子どもを無理やり連れ出した……という内容である。手足をバタつかせて必死で抵抗したり、「放して、放して」と泣き叫んだりする子どもたちの姿が映し出されており、「クローズアップ現代」でも番組冒頭のカットに使用した。
「私たちには暗然たる未来が待っているだろう」という重々しいナレーションで締めくくられて、一時保護の不当性・違法性をことさらに強調したオウム側のプロパガンダの一種だ。
現場にいた大人の信者たちは「近くにお母さんがいますから」「なんで連れて行くんですか」と警察官に抗議していた。ある信者の女性はビデオ内で教団側のインタビューに対し、「近くに親がいると訴えても連れて行かれた。母親が抱いている子どもすら大きな機動隊員に連れ去られた」と証言しており、一時保護の不当性を訴えていた。
確かにこの映像を見る限りでは、嫌がる子どもたちを無理やり連れ出したと見えなくもない。ただ、サティアン内部での粗末な食事や、劣悪な生活環境については一切触れられておらず、オウム側の一方的な言い分だということに注意が必要だ。
現場に入った石和警察署の元警部補、花形友夫さんは「床に残飯は落ちているし、着ているものは汚い。近くに保護者もいないし、子どもを養育する環境としては不適切だったことは間違いない」と証言している。

(集英社インターナショナル)
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