米国とイスラエルの軍事作戦により、イランの最高指導者ハメネイ師が殺害された。なぜトランプ大統領は他国のトップを抹殺するという行動に出たのか。
日本経済新聞編集委員兼論説委員の田中孝幸さんは「その底流には、米国と共に作戦を遂行したイスラエルが置かれている地政学的事情がある」という――。
※本稿は、田中孝幸『世界を解き明かす地政学』(日本経済新聞出版)の一部を抜粋、加筆・再編集したものです。
■ハメネイ師殺害への高いハードル
トランプ米大統領は2月28日、イランに大規模な空爆を実施し、最高指導者のハメネイ師を殺害しました。国際法上の根拠が乏しい軍事行動で中東の緊張は一気に高まり、日本のエネルギー輸送の生命線であるホルムズ海峡の航行も難しくなっています。
なぜトランプ氏は他国のトップを抹殺するという常軌を逸した行動に出たのでしょうか。その底流には、米国と共に作戦を遂行したイスラエルが置かれている地政学的事情があります。
トランプ氏にとって、今回の作戦の最大の目標はハメネイ師の殺害でした。それによって残った最高幹部たちを威圧し、イスラム体制を容認することと引き換えに自分が要求してきた核開発路線や反米政策の放棄をのませるというシナリオを描いたようです。
しかしハメネイ師の抹殺には高いハードルがありました。国のトップには通常、最高レベルの警備がつきます。特にイランのような外敵が多い権威主義国家では、首脳の身辺保護のための警戒態勢は厳重です。ハメネイ師も暗殺を恐れて常に保護された地下施設などの移動を続け、日によって宿泊場所を変えているとみられてきました。
日程はごく一握りの側近にしか共有せず、会議を開く際も情報漏れを警戒し、直前に予定を変えることも多かったようです。
■イスラエルの諜報機関「モサド」の圧倒的諜報力
失敗したら、トランプ氏にとって大きな失態になります。それでも今回の作戦決行に踏み切れたのは、成功への絶対的自信があったからにほかなりません。そしてそれを支えたのは、イスラエルの対外特務機関、モサドがイランに対して持っている圧倒的な諜報力でした。
ロイター通信によると当初、ハメネイ師やイラン政府高官が参加する会議が28日夕に開催される予定でした。モサドが直前になって同日朝への変更を把握し、攻撃開始を早めたそうです。
イランのような国では通常、要人の多くは盗聴や全地球測位システム(GPS)を警戒して電子機器を持ち歩きません。彼らの位置すらリアルタイムで把握できたのは、モサドがイランの政権中枢にスパイ網を浸透させていたことを意味します。
モサドは最大の脅威とみなすイランの現体制の打倒に向け、同国内でのスパイのリクルートを営々と進めてきました。2016~21年のヨシ・コーヘン前長官時にイランの政権内にスパイ網を広げ、核科学者やイラン軍幹部の暗殺作戦を繰り返してきました。
■多数の一流スパイを養成し特殊作戦を遂行
モサドが強力になったのは、外敵の侵攻を許せない厳しい地形の中で、常に存亡が問われているという危機意識が国民にあるためです。
イスラエルの国土面積は、日本の四国程度です。
それが、細長く南北にのびています。東西で最短の部分の幅は15キロメートルで、最も離れた部分も135キロメートルしかありません。
ヨルダン川西岸にはパレスチナ自治区がありますが、この周辺には高地が多く、イスラエルの多くの領土は上方から攻撃されるリスクにも直面しています。そして、イスラエルの人口の大部分はテルアビブなど地中海沿岸の地域に集中しています。初動で失敗して敵の侵攻を許せば多数のイスラエル国民が犠牲になり、政府の機能が一気に失われる可能性があります。
イスラエルは第2次大戦後、パレスチナ人から土地を奪う形で建国した経緯があります。それだけに、今なお中東の大半の国とは外交関係も持てていません。この環境が、周囲の敵に対して決定的な優位性を持とうとするイスラエルの防衛政策をもたらしました。
その一環として不可欠とみなされたのが情報工作でした。モサドは多数の一流スパイを養成し、首相から多額の予算や特別な権限を与えられてきました。敵国の要人の暗殺や破壊行為といった特殊作戦も国民に支持されてきました。モサドは強い危機意識を持つ国民に支えられて強力になったといえます。

■イスラエルの世論が強硬策を支持する理由
イスラエルがイランに対して極端な強硬姿勢に出ているのも、こうした国民の意識があるためです。イスラエルはイランが核ミサイルの開発を進めているとみて、容認しない姿勢を鮮明にしてきました。
イスラエルは表向き認めていませんが、事実上、核兵器を保有しているとみられています。敵が発射するミサイルを撃ち落とす「アイアンドーム」と呼ばれる、独自の強力な対空防衛システムも配備しています。それでもイスラエル側はイランに核ミサイルの開発を許せば、自国が滅亡するリスクがあると深刻にとらえています。
実際、2025年6月のイランとの攻撃の応酬では、イラン側が発射したミサイルの一部を迎撃できず、中心都市テルアビブへの着弾も許してしまいました。イスラエルの元高官は「もし核が搭載されていたら、我々は滅びていた。それに核攻撃の応酬になれば、国土が小さい側の分が悪い」と語りました。
イスラエルには、強い不安があるのです。それは、核という抑止力を持ってもぬぐえません。敵への警戒感が強くなれば、敵を滅ぼさなければ安全を確保できないという心理に陥りやすいのです。
米欧メディアの報道によると今回のハメネイ師への殺害作戦の発端は25年12月、イスラエルのネタニヤフ首相が米南部フロリダ州パームビーチのトランプ氏の別荘「マール・ア・ラーゴ」を訪問した時だったそうです。
今回の軍事作戦は、不安にかられたイスラエルに米国が引っ張られた側面があります。
■ハリネズミになっても安全は得られない
イスラエルは23年にハマスによる大規模な奇襲攻撃を受けたのをきっかけに、防衛体制の大幅な見直しに乗り出しました。ウクライナ戦争でみられたドローン戦の進化を受け、最新鋭のレーザー兵器の配備なども急いでいます。
ただ、最新鋭の兵器でハリネズミのように防御を固めても守りにくい地形は変わりません。ガザ侵攻やイランへの攻撃で強まった反イスラエル感情は、長期にわたりテロの温床になります。今回のような強硬策で物理的に敵を排除しても、情勢の安定や平和につながることは期待できないのです。
大規模な戦闘が勃発すると、憎しみが報復を生むという悪循環に陥り、地域の和平への歩みは10年単位で遅れます。イスラエルは、スタートアップ大国として知られ、この20年で目覚ましい経済成長を遂げましたが、この国の企業はイスラエル特有の高い地政学リスクに長く悩まされることになりそうです。

----------

田中 孝幸(たなか・たかゆき)

日本経済新聞 編集委員兼論説委員

1998年日本経済新聞社入社。政治部、経済部、国際部を経てモスクワ支局員、ウィーン支局長など歴任。世界40カ国以上で現場取材し、政財界の要人や軍人、文化人などと広い人脈を築いた。大学時代にボスニア内戦を現地で研究。
ロシアが侵略中のウクライナでは現地から戦争の実態を報道し、2025年11月にロシア政府から同国への入国禁止の制裁対象に指定された。大のネコ好き。40代で泳げるようになった。著書『13歳からの地政学 カイゾクとの地球儀航海』(東洋経済新報社)は26万部を突破し、読者が選ぶビジネス書グランプリ2023・リベラルアーツ部門賞など受賞。

----------

(日本経済新聞 編集委員兼論説委員 田中 孝幸)
編集部おすすめ