■美濃攻めに必要だった墨俣制圧
第4回 墨俣城(岐阜県大垣市)・石垣山城(神奈川県小田原市)・益富城(福岡県嘉麻市)
「まさかたった一夜で炎上するとは!」「一夜城ってそういうことだったの?」と、「豊臣兄弟!」第8話を見た人の間で、意外な方向で話題になっている墨俣一夜城(図表1①岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742)。「敵の攻撃の隙を突いて一晩で城を出現させた」という築城エピソード、その真偽はともかく知名度だけは抜群だ。
つまり交通の要衝で、墨俣を制したことが、織田家にとって美濃攻めを一気に前進させたのは間違いない。
誰も真似できないような大胆な行動を、生涯でたびたび決断し実行した秀吉。墨俣一夜城はその代表例ともいえるが、秀吉の一夜城エピソードは、実は墨俣だけではない。
■関東にもあった「一夜城」
「墨俣以外に秀吉が作った一夜城は?」と問われれば、歴史好きならすぐに思い浮かぶ城があるはず。1590(天正18)年の小田原征伐の陣城・石垣山城(図表3②神奈川県小田原市早川1383-1)、通称「石垣山一夜城」だ。
敵地に乗り込んで戦を行う際に築かれるのが陣城。にもかかわらず、総石垣で規模も広大。急造されたとはとても思えないほど立派なのは、この時すでに秀吉はほぼ天下を手中にしていたから。小田原征伐は、天下統一の総仕上げ。
石垣山城の築城時、既に小田原城の周囲は総勢10数万もの秀吉軍が包囲していたので、墨俣のように敵に妨害される恐れはない。
木立に隠れて着々と作業を進め、完成してから樹木を一挙に伐採。ある日突然、総石垣の城が出現したことに驚き、籠城中の北条軍は戦意喪失。「降伏やむなし」との結論に至った――というのが、石垣山城の「一夜城」エピソード。これもまた、伝説の範疇を出ない話だが、墨俣城よりは信ぴょう性がありそうだ。
一般的によく知られているのはこのふたつだが、実はもう一つ、「一夜城伝説」が残る秀吉ゆかりの城がある。小田原征伐から遡ること3年前、1587(天正15)年、九州平定の際のことだ。
■九州でも実行した一夜城作戦
九州平定の際も、秀吉はほぼ全国の大半を押さえた上での戦役だった。ただし小田原征伐ほど「勝ち確」ではない。薩摩から北上を続け、九州統一を目論む島津軍。対する風前の灯火の大友家の当主・大友義統(おおともよしむね)は、秀吉に援軍を頼む。
1586(天正14)年、島津軍が九州北東部の大友領へ本格的に侵攻。豊後国、豊前国、筑前国になだれ込み、大友軍は防戦一方。毛利や長宗我部ら西国の援軍を得ても徐々に押されてゆく。そんな中、ようやく秀吉が重い腰を上げる。1587(天正15)年の元旦、九州への出陣を号令。諸大名がこぞって西へ向かい、2月10日には秀長、3月1日には大将・秀吉も出陣する。
秀吉軍が九州へ上陸した頃、両軍の最前線のひとつが現在の福岡県内陸部の筑豊エリアだった。一帯を支配していたのは、島津方についていた秋月種実(あきづきたねざね)。秀吉軍は、まず手始めとばかりに岩石(がんじゃく)城(図表5③福岡県添田町添田・赤村赤)へ。
麓からの比高は380m、巨岩を活用した見るからにゴツい山城を、秀吉軍の前田利長、蒲生氏郷らはわずか一日で攻め落とす(これも別の意味で「一夜城」といえる)。
この時、種実が籠っていたのは益富城(ますとみじょう)(図表5④福岡県嘉麻市中益、大隈城とも呼ぶ)。岩石城から10数km西に位置する。
■一夜城で戦わずして勝利
種実が退いた先は7~8km南西の古処山城(図表5⑤福岡県朝倉市秋月野鳥)。標高859mの山城から北方は益富城はもちろん、筑豊一帯が見晴らせる。種実はこの城から敵の動きを見つつ体勢を立て直したかったのだろう。
ところが、破却したはずの益富城がなんと、一夜にして復活してしまったのだ。秀吉は、地域住民を動員してかがり火を焚かせ、町中の戸や障子を城内に運ばせ、あっというまに「仮城」を築いた。
あくまでハリボテの城だったのだろうが、7~8km離れていれば細部まではわからない。ハッタリでもなんでも、巨大な建物がドカンと出現すればいいのだ。「どうじゃ!」とほくそ笑む秀吉の姿が眼に浮かぶ。
岩石城は一日にして落城し、益富城は一夜にして復活。元々、負けを覚悟の相手だったが、種実が本格的に戦わずして降伏を申し出たのも無理もない。
秀吉にしてみれば、その後の島津との激突を前に、大軍を温存したまま戦わずしての大勝利。墨俣城、石垣山城を上回る秀吉の「一夜城作戦」が最も効果を発揮したのは、益富城だったといって間違いない。
■益富城の実態を知る手掛かりは?
現在の益富城にはもちろん、秀吉の一夜城はないし、墨俣城のように模擬天守(史実に基づかない天守)もない。ただし現地を訪れれば、想像を掻き立ててくれる痕跡は残っている。
そのひとつが、二の丸にある白米流し跡。現在は鬱蒼(うっそう)と木々が茂っているが、ちょうど古処山城のある西側。刈り取って山肌があらわになれば、遠くからでもよく見えただろう。
城内に水が豊富にあるかのように、白米を流して偽装した話は、籠城戦のあった山城のエピソードとしては比較的よく聞く。水とともに兵糧も大事な生命線なのだからマユツバに思えるが、回収の目処が立っていれば問題ない。
ましてや益富城の場合、敵陣ははるか先。城下は全て味方が押さえていたのだから、秀吉のこと、相当ド派手な白米の滝をこしらえたのではないだろうか。
二の丸の西に連なる本丸には、こんな遺構もある。
木立さえ刈り取ってしまえば、これも古処山城から見えたはずの場所。はたして、千成瓢箪(せんなりびょうたん)の旗印が翻っていたのか。
■退却せずこの城で戦っていたら
最後に、益富城の構造的特徴も見ておきたい。ただし、益富城は関ヶ原の合戦後、黒田長政の領地となり、後藤又兵衛、続いて母里太兵衛(もりたへえ)と重臣が城主を任じられる。従って、黒田時代に改修された部分もありうることを踏まえた上で。
主要部では二の丸に要注目だ。「横矢掛かり」になった長大な土塁が伸びている。横矢掛かりは、二方向から矢を射かけられるように折れ曲がった構造のこと。
二の丸の東端は、石造の枡形虎口を経てスロープ状の道に。さらに二の丸の東下には、城内最長の横堀が掘られている。
縄張図を見ればわかる通り、益富城は縦横に伸びる支尾根も城域。各尾根の要所要所は堀切や土橋になっており、容易に敵を寄せ付けない。
そして縄張図を見ても一目瞭然、益富城で最も多い土木遺構が畝城竪堀だ。要所要所に、これでもかといわんばかりにびっしりと竪堀で固めてある。
城域は広大で、守りも万全。もし種実が撤退せず、この城に籠って徹底抗戦していたら。さすがに岩石城のように、1日では落ちなかっただろうし、あるいは大軍相手に一矢報いていたかもしれない。
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今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)
古城探訪家
1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。
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(古城探訪家 今泉 慎一)

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