多くを学ぶためにあえて失敗する必要はあるのか。「失敗学」の提唱者であり、東大名誉教授の畑村洋太郎氏は「失敗には危険が伴うことがあるため推奨できない。
主眼を置くべきは、“失敗すること”ではなく“失敗に備えることだ”」という――。
■失敗学の権威が「失敗」を推奨しない理由
「失敗学」の提唱者として、「どんな失敗をしたらいいのか」とか、より詳しく「年代別に経験しておいたほうがいい失敗はあるのか」と聞かれることがあります。相手が具体的な失敗の話を期待しているのはわかっていますが、こういうときは誤解がないように、少し角度を変えながら丁寧に説明するようにしています。
質問にストレートに答えるなら、「失敗なんてしないほうがいいし、経験しないで済むならそれに越したことはない」となります。しかし、これでは身も蓋もないので、ちゃんと理由を述べます。
失敗は痛みを伴うもので、真剣に取り組んでいることであればなおさら失敗したときのダメージは大きくなります。実害だけでなく心も大きな影響を受けて、そこから回復できずに再起不能に陥ったり、場合によっては命が奪われることもあります。そんな危険なものを、安易に推奨する言い方は避けなければいけないと考えているのです。
それでも起こるのが失敗です。どんなに注意していても、それをあざ笑うかのように起こります。空気を読まず、望まない場所で、望まないタイミングでやって来るし、こちらの都合など一切お構いなしです。じつに厄介です。

■失敗を“しゃぶりつくす”という心意気
そんな失敗にもよい部分があります。ちゃんと向き合うと、その人自身や社会を成長させるタネに出会える点です。なにかに挑戦しているときの失敗はとくにそうで、真摯に向き合うことで目の前の壁を乗り越えるヒントを得ることができます。これが失敗のよい部分であり魅力です。
不愉快で腹も立ちますが、失敗には壁を乗り越えて次のステップに進むためのヒントがあるのも確かなのです。そんなふうに失敗が創造的な活動をサポートするものとして活用できるところに注目し、あるときから徹底的に分析してみました。そして、避ける手段や効果的な活用方法なども導き出したりしながら、失敗について体系的にまとめたのが「失敗学」です。
これは痛みを伴う失敗をわざわざ経験するように動くことを勧めるものではありません。失敗は避けていてもどうせ起こります。それなら起こったときにはポジティブに扱って、学びやステップアップのチャンスとして徹底的にしゃぶりつくしてやろうというわけです。これが「失敗学」の基本的な考え方です。
■「想定外の失敗」から学んだこと
失敗の種類は小さなものから大きなものまでじつに多種多様です。
中には痛みの少ないものもありますが、そういうのはたいてい、手抜きやインチキなどを原因とする、経験する必要のない失敗です。そういうものでも扱い方次第で、その人を成長させる学びの機会にできるのが失敗の面白いところです。
とくに仕事や日常の中にある「ヒヤリとした」「ハッとした」という経験は、些細なことでも大切にしたいものです。その時点では取るに足らない小さなものが、大きな失敗の予兆であることもあります。こういう体験をしたときには、最悪の状況を想像しながら、自分の考えや行動のいたらなさを見つめたり、改める機会にするといいでしょう。それが案外、将来に起こり得る大失敗の回避につながったりもします。
失敗の多くはだれかが予想している形で起こりますが、まったく予期せぬ場所やタイミングで、予期せぬ形で起こることがときどきあります。これを「想定外の失敗」と言います。失敗の中でも一番対処が難しく、これまで多くの実例を調査しながら対処法を検討し、得られた知見を発信し続けてきました。
じつはそこで学んだことが、冒頭の質問への私なりの答えになります。ただし、質問の内容を「失敗への対策としてやっておくといいこと」と「年代別に心がけておきたいこと」というふうに少しアレンジさせてもらいます。
それぞれの答えは、「引き出しを広げて、自ら考えて行動することを心がけること」と、「若い頃は前者に注力し、ある程度年をとってからは後者の力を磨くのを意識すること」となります。

■想定外の出来事を前に動けなくなる
想定外を原因とする失敗は前述のように、起こることを前提にしていない、そのための対策を用意していない状態で起こります。備えをしていない中で、想像していないことが起こったときにどうなるかは自明の理です。たいていは、なにもできずに手をこまねきながら、ことの推移を見守るしかなくなります。大失敗に至る典型的なパターンの一つで、2011年の東日本大震災の福島第一原子力発電所の事故がまさしくそうでした。
こういうときに求められるのは、状況を見ながらその場で対処法を考えて実行することです。「そんなの当たり前じゃないか」と思われるかもしれませんが、これがじつにたいへんなのです。
日本の社会では往々にして「やるべきこと」が決められていて、そこから外れることは「やってはいけないこと」「許されないこと」とされています。大きな組織ほどこの空気に強く支配されているので、想定していないことが起こったときには現場で「思考が停止したようにまったく動くことができない」となってしまうのです。
■失敗に備えられる人は優れた創造力の持ち主
いざというときに自分がそうなりたくなければ、非常時でもそれなりに動くことができるように備えるしかありません。これはとくに現場の動きをコントロールしている、責任ある立場の人にやってもらいたいことです。
しかしその場で対策を考えようにも、使える知識や知恵が引き出しの中になければなにも思い浮かびません。また、たとえ使える知識や知恵があっても、それらを使いこなせなければ意味がありません。
よって、知識の獲得と、それらを使って自分なりの考えをつくり、実行する訓練が必要になるわけです。先ほどの答えはそのことを言っています。
人間の記憶力は年とともに落ちてくるので、知識や知恵の獲得はできれば記憶力の優れている若いうちに徹底的にやるのがお勧めです。同時に、それらを使って失敗を糧にしながら新たなものを生み出すことに挑戦していると、想定外のことが起こった状況でも動きやすくなります。
一定の年齢を過ぎてからは、年とともに身につく、他人をその気にする力や人をたぶらかす力を、失敗対策や創造的な活動に使うことを心がけるといいでしょう。世の中は理不尽にできているので、自分がよかれと思ったことがそのまま評価されるとはかぎりません。そんなときに役立つのが後者の力で、自ら考えてつくり出したものを実現するのが得意な人はたいていこの力も備えています。
じつはどちらの力も、そのまま創造的な活動に必要なものです。つまり、失敗への備えがしっかりできる人は、プロジェクト・マネジャーなど創造的な活動で活躍ができる、優れた創造力の持ち主でもあることを、この機会にぜひ覚えておいてください。
■いずれ行き詰まる組織で行われていること
年功序列が崩れつつあるとはいえ、日本の多くの組織では40代、50代の人たちがそれなりの権限を持って大事な決定に関与しています。そういう人たちがどんな状況になろうと自分で考えて実行できる域に達しているなら、組織の未来に希望が持てるでしょう。
現実は真逆で、それなりの権限を持っている人が下の人たちに型にはまることを強いて、創造の芽を摘むように動いていることが少なくありません。
こういう組織はいずれ行き詰まるでしょうし、その人自身もまた、いずれは老害扱いされて居場所をなくしてしまうでしょう。
■「不惑」と「創造力」の関連性
孔子の教えをまとめた『論語』の一節に、「40にして惑わず」「50にして天命を知る」とあります。人生の節目における成熟の段階を表す言葉で、40歳は人生の根幹が定まってまわりの意見や出来事に迷わされずに物事を見極められる年齢、50歳は天から自分に与えられた使命や役割を理解できるようになる年齢というようなことを言っています。
これがその歳になればだれでも自然に到達できる境地でないことは明らかです。自分でなにも考えず、人から言われたことをただ実行しているような生き方をしている人は少なくありませんが、これは「不惑」とほど遠いものです。
惑わない生き方は、自分なりに考えて実行することを前提にしているものでしょうし、そういう生き方をしているからやがては天命、すなわち世の中や組織の中における自分の使命や役割を理解できるようになるのでしょう。
創造力に磨きをかけるべく、日常の中で自ら考えて行動する機会を増やし、その際に必ず起こる失敗をうまく活用しながら、ぜひその域に到達してください。

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畑村 洋太郎(はたむら・ようたろう)

東京大学名誉教授

1941年、東京都生まれ。失敗学の提唱者で、失敗学会の設立に携わる。2001年より畑村創造工学研究所を主宰。『老いの失敗学 80歳からの人生をそれなりに楽しむ』(朝日新書)、『人生の失敗学 日々の難儀な出来事と上手につき合う』(朝日新書)はじめ著書多数。

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(東京大学名誉教授 畑村 洋太郎)
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