日本にはさまざまな「水中遺跡」が存在している。神奈川県小田原市沖の海底には熱海線(現・JR東海道線)根府川駅のプラットフォームなどが沈んでおり、近年注目を集めている。
駅はなぜ海底に沈んだのか。帝京大学文化財研究所の佐々木ランディ准教授が書いた『水中遺跡はそこにある』(ちくまプリマー新書)から一部を紹介する――。(第2回)
■相模湾に眠る歴史の痕跡
本稿では、いくつかの遺跡をまとめて紹介したいと思います。
日本の水中遺跡と聞くと、多くの人は沖縄のきれいな海や琵琶湖をイメージするようです。また、大陸との交流の歴史の長い九州には水中遺跡の研究者が多く、研究も盛んです。
一方で、「関東地方の水中遺跡」といわれても、あまりぱっとしない印象を持つのではないでしょうか。でも、関東にも面白い水中遺跡は存在します。ここでは、多くの人にとって身近な海である相模湾で直接見ることができる水中遺跡を訪ねてみたいと思います。
古い時代から新しい時代へ、順番に見ていきましょう。
鎌倉といえば源頼朝が幕府を開いた場所であり、歴史の詰まった町として有名ですね。鶴岡八幡宮や鎌倉の大仏は人気の観光スポット。鎌倉の前面に広がる由比ヶ浜から材木座海岸にも、海水浴やウィンドサーフィン、潮干狩りのためにたくさんの人が訪れます。

鎌倉に行ったことがあれば、知らず知らずのうちに遺跡を見ていた可能性があります。材木座海岸に立って左手側(逗子方面)に、やたらと岩がごつごつした場所があります。若江島(わかえじま)(和賀江島)と呼ばれる人工の島、船着き場の跡です。今でも干潮時には約200メートルほどの長さの石積みを見ることができます。
国の史跡にも指定された、現存する日本最古の築港遺跡です。
この港が築かれたのは鎌倉時代。幕府は、鎌倉の海を交易の拠点として利用したいと思っていましたが、遠浅の浜であるため、なかなか大きな船が安全に港に入ってくることができませんでした。
三代将軍源実朝が宋との交易を目指して建造した唐船が、遠浅の由比ヶ浜で進水に失敗したことは有名ですね。
■11世紀ごろの姿をそのまま見られる
その後1232(貞永元)年、執権北条泰時が港湾整備を実行しました。
伊豆や相模国西部から石を切り出して運び、石積みの護岸を造り上げます。港を作るのに1カ月を要しなかったといわれ、当時の技術力の高さがうかがい知れます。
若江島の石積みの港は、11‐12世紀の姿をそのまま見ることができる、珍しい遺跡です。
福岡県の博多遺跡群からは、11世紀後半から12世紀前半に造られた護岸遺構が発見されていますが、埋め戻されて今は直接見ることはできません。
埋め立て地の多い日本では、港の遺構自体がほとんど残っていないのです。また、日本で石積みの港があちこちで整備されるようになるのは、もう少し後の時代となります。
江戸時代には若江島は「舟入石蔵」などの名称で知られ、漁船の停泊にも使われていたようです。
若江島の石積み遺跡をじっくり見たいという人には、訪れる前に入念なスケジュール調整を行うことをオススメします。普段は水没していてよく見えませんが、干潮の際に訪れると、驚くほど当時のままの姿を見ることができます。
まるでタイムスリップしたかのような……。とはいえ、潮位が低いときは潮干狩りなどのお客さんも多いので、季節も選んで行きましょう。とくに冬がおすすめです。
潮位が低い日と時間を見て、よく晴れた平日の早朝を狙ってみましょう。ハードル高い?
■「皇居の石垣」はどこの石なのか
ちなみに、台風の後に砂浜を歩くと陶磁器のカケラがよく落ちています。若江島の港がどれほど有用に機能したかはよくわかっていませんが、『吾妻鏡(あづまかがみ)』には港に唐船が停泊していたという記述があります。

港ではおそらく高級な焼き物が多く扱われていたのでしょう。鎌倉に集められた輸入陶磁器類は、県立金沢文庫博物館などに展示されています。当時の大陸の技術の高さ、また鎌倉幕府の権力や財力も垣間見ることができます。
若江島と合わせて博物館を訪れてみてはいかがでしょうか。鎌倉の大仏もお忘れなく!
時代は飛んで、江戸時代。室町時代には京都に移っていた幕府が関東地方に戻ってきます。さて、将軍が住んでいた江戸城――今の皇居ですが――の石垣の石って、どこから運んできたのでしょうか? 皇居ランナーの方々にお伺いしたいのですが、あれだけの大量の石を運ぶのは相当大変だと思いませんか?
陸路では無理な話で、当時は船を使って運ぶのが常識でした。
■江戸城を支えた石切り場
若江島の積石もそうなのですが、江戸城の石垣の石は、伊豆や相模国西部で切り出して江戸まで運んでいます。伊豆半島から小田原にかけては良質で加工しやすい石が多くとれるだけでなく、石切り場から海までの距離が短く、運びやすいのです。
今も、小田原城からちょっと山側に足を延ばせば、早川石丁場などの石切り場を見ることができます。早川という名前ですが、素早く石を運びだすのに適していたから付いた名前なのでしょうか。
石切り場では、大名の家紋を刻印した石を見ることができます。
また、表面に「矢穴」が残る石を見ることもできます。石をまっすぐきれいに割る際に開ける、小さなくさび穴のことです。
このような矢穴を持つ石は、海岸や海の中に落ちていることがあり、残念石と呼ばれています。大きな石を運ぶ際に、なんらかの理由で事故が起き、残念ながら海に落としてしまうことがあるんですね。
これらの石は、よ~く観察しないと普通の岩にしか見えません。小田原周辺では、これらの残念石を、ダイビングポイントとして活用しているショップもあるようです。江戸城に使われるはずだった石を海の中で見る! 水中では光の屈折の関係で陸よりもモノが大きく見えますから、迫力満点です。
比較的浅いところにもありますので、初心者ダイバーでも見に行くことができます。どこに矢穴があるか、目を凝らしてみてください。
■「三つ葉葵紋の瓦」を積んだ沈没船
もう一つ、江戸時代の水中遺跡を紹介したいと思います。現在、学術調査が進みつつある遺跡で、発掘調査が近い将来実施されれば大きな注目を集めることでしょう。
伊豆半島の離島、初島(はつしま)の沖にその沈没船はあります。
17世紀中ごろに沈没した船だと考えられています。すり鉢などいろいろと積み荷はありますが、一番の特徴は瓦を大量に積んでいたこと。
その中には徳川の家紋「三つ葉葵紋」を施した鬼瓦があります。そのほか、平瓦や丸瓦などもあり、どうやら大坂で作られた瓦のようです。
この船は、幕府の御用船だったのではないかと考えられています。1657(明暦3)年の明暦の大火で江戸城の一部が焼失したので、天守を再建するために大量の瓦を運んでいたのではないかというのです。この沈没船のみどころは、積み荷がそのままドーンと海底に落ちているように見えること。
積み荷がバラバラに散乱することなく、そのまま船底の形を残しているかのようです。おそらく、瓦の下には船体が残されていることでしょう。この遺跡にはダイビングで訪れることができます。また、近年は水中考古学フィールドスクールが実施されていて、主に学生向けですが、水中考古学を実践で学ぶことができます。
いつまで開催されるかわかりませんが、国内の大学でも水中発掘の実技を学ぶ機会がほとんどないので、一生心に残る体験として、チャレンジしてみてはいかがでしょうか?
■関東大震災で海底に沈んだ駅舎
次は、大正時代の水中遺跡のお話です。
イセキと聞くと、縄文・弥生・古墳時代などを連想しがちで、「大正時代も考古学の対象なの?」と思う人もいるかもしれません。でも相模湾には、最近大きな注目を集めている大正時代の水中遺跡があります。そして、これからももっともっと重要になると考えられているのです。
神奈川県小田原市根府川の沖、水深10‐15メートルの海底に、大きなコンクリートの塊や金属片が散乱している場所があります。
この遺跡が生まれた日は、はっきりわかっています。1923(大正12)年9月1日と書けば、すぐに思いあたる人も多いでしょう。
この日、関東地方をマグニチュード7.9の大地震が襲い、根府川周辺で大規模な地滑りが発生しました。標高約50メートルの崖の中腹にあった根府川駅や停車中の列車、近くの集落は崩れ落ち、そのまま海に飲み込まれてしまいました。列車は引き揚げられたそうですが、駅舎などは残されたままとなりました。
この遺跡もダイビングショップに頼んで見に行くことができます。間近で見ると海藻などが繁茂していて、なんとか人工物には見えるのですが、どんどん自然に飲み込まれていっているかのようです。
水中に残された人々の痕跡は、どんどん劣化していきます。今から100年後にはほとんど失われているかもしれません。
■「災害のメカニズム」を解き明かすカギがある
人類が作り上げたモノは、自然の力の前では無力です。大正時代であれば、写真とか図面などいろいろと記録されていると思うかもしれませんが、なかなか残っていないのです。
また、関東大震災の痕跡を直接見ることができる場所は、もうほとんど残っていません。開発(というか復興)のためには、がれきは撤去するのが当たり前。ここでは、たまたま水中にあったために撤去されずに残ったわけです。
忘れてはいけないのが、この場所だけで300人近くの尊い命が失われていること。水中では自分の呼吸音がよく聞こえるので、不思議と自分の内面に気持ちが向きます。遺跡の持つ意味、災害の痕跡を学ぶ意義をゆっくりと考えることができます。
この痕跡の存在は古くから知られていましたが、遺跡として捉えられず、水中考古学の手法を使った調査はなかなか実施されずにいました。
震災から100年が過ぎ、未来に残すべきものであるとの認識が高まり、調査が始まりました。まだまだ調査は始まったばかりですが、根府川駅舎の調査にはさまざまな可能性があります。
遺跡から災害のメカニズムを知ることもできるかもしれません。海底に広がるプラットフォームなどのがれきから、土石流のスピードや方向がわかるかもしれません。もしかしたら、がけ崩れの危険予知にも役立つかもしれません。
地震のメカニズムだけでなく、当時の集落についても語られずに忘れられた物語が埋もれているかもしれません。
若江島、残念石、初島、根府川……。相模湾周辺には、この他にもいくつか水中遺跡がありますが、これだけでも「身近な海にも、歴史の痕跡が残されているのだな」と感じることができたかと思います。
それぞれの時代が刻んだ「記憶」を、自分の足(とフィン)を使って直接確かめる旅に出てみませんか?

----------

佐々木 ランディ(ささき・らんでぃ)

帝京大学文化財研究所准教授

1976年生まれ、神奈川県出身。高校卒業後に渡米し、サウスウェストミズーリ大学卒業後、テキサスA&M大学大学院にて博士号(人類学部海事考古学)取得。日本各地のさまざまな水中遺跡調査に携わるかたわら、水中考古学の普及のため、講演・イベント企画などの活動を続けている。著書に『水中考古学――地球最後のフロンティア』(エクスナレッジ)、『沈没船はタイムカプセル』(「たくさんのふしぎ」2023年7月号、イラスト・矢野恵司)、『水中遺跡はそこにある』(ちくまプリマー新書)などがある。

----------

(帝京大学文化財研究所准教授 佐々木 ランディ)
編集部おすすめ