豊臣秀吉は、本能寺の変から2週間足らずで明智光秀を倒した。歴史学者の渡邊大門さんは「各地に散っていた信長の家臣たちの中で、とっさに光秀を討とうとするリーダーシップがあったのは秀吉だけだった」という――。

※本稿は、渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■6月1日、信長にとって最後の夜
羽柴(豊臣)秀吉の天下取りのきっかけは、本能寺の変にある。秀吉は主君の織田信長を謀殺した明智光秀を討ち、織田家中における立場を優位にした。なお、この時代の天下とは日本全国ではなく、京都および畿内を意味する。
天正10年(1582)6月1日夜、居城の亀山城(京都府亀岡市)を出発した明智光秀は、備中高松城(岡山市北区)で対陣中の羽柴秀吉の救援に行かず、突如、進路変更をして織田信長のいる本能寺(京都市中京区)に向かった。亀山城から本能寺までは、直線距離で約14キロメートルだ。信長を討つことを知っていたのはおそらく一部の重臣だけで、ほかの兵卒らは知らなかったに違いない。本能寺襲撃は、トップシークレットだった。
一方の信長は、よもや光秀軍が攻め込んでくるとは夢想だにせず、夜には子の信忠と語らっていた。側には近習や小姓などもおり、楽しいひと時を過ごしていた。夜が深くなり、信忠は本能寺を辞去して、宿所の妙覚寺(京都市上京区)に戻った。その後も信長は女性を召し寄せ、歓談していたという。

■有力な家臣もお供も近くにいなかった
光秀は途中の場所で控え、光秀の手勢は家臣の明智秀満(光秀の女婿)や斎藤利三らを先頭に、少しずつ本能寺へと迫っていった。そして、兵卒を四方の部隊に分けると、本能寺の宿所を取り囲んだ。夜が明けそうな頃、兵卒は合壁(かっぺき)を引き破り、門木戸を打ち壊すと、信長のいる宿所に一斉に乱入したのである。こうして、本能寺の変は勃発した。
信長は、光秀の襲撃をまったく予想していなかった。配下の有力な武将は、東国、西国の反信長派を討伐するため、出陣中だった。おまけに信長の供をしていた人々は、京都市中の各所に出掛け、遊興に耽っていたという。番所に詰めていたのは、わずか100名余の小姓に過ぎず、警備はかなり手薄だったのである。信長は油断していたのだ。
■森蘭丸ら小姓衆は討ち死に、孤立無援
6月2日未明、本能寺の四方を取り囲んでいた光秀の軍勢が本能寺を襲撃した。最初、信長も小姓衆も下々の者たちの喧嘩かと考えたが、そうではなかった。光秀軍は鬨(とき)の声をあげ、本能寺に鉄砲を撃ち込んできたのである。
どう考えても戦闘の始まり以外とは考えられなかった。信長らにとってみれば、驚天動地の出来事だったことだろう。
信長配下の武将たちは奮戦した。面御堂(おもてみどう)の御番衆は信長のいる御殿へと馳せ参じ、御厩(みまや)では矢代勝介ら24名が討ち死にした。馬術に長(た)けた勝介は関東出身で新参の者だったというが、無念にも戦死した。森蘭丸ら小姓衆も奮戦したが、御殿内で討ち死にしたのである。こうして、次々と信長方の将兵は討ち取られた。
信長配下の武将が奮闘したとはいえ、しょせんは多勢に無勢である。わずかな時間で、信長方の形勢は不利になった。最初、信長は弓を取って、矢を2、3度放ったという。しかし、しばらくすると弓の弦(つる)が切れたので、今度は槍を手に取って戦った。自ら戦うよりほかの手段はなく、信長はもはや孤立無援だった。

■嫡男・信忠に本能寺陥落の知らせ
信長は肘に槍で傷を負うと引き下がり、すぐさま女中たちに退去を命じた。すでに御殿には火が広がっていた。殿中の奥深くに入った信長は、内側から納戸を閉じると自害した(『信長公』)。享年49。その後、本能寺は放火により、紅蓮(ぐれん)の炎に包まれた。
こうして信長は無念の気持ちを抱きながら横死し、居所だった本能寺は無残にも焼け落ちたのである。家臣に討たれた信長の心中は、いかばかりのものであったのか。
信長を討ち果たした光秀軍は、嫡男・信忠の宿所である妙覚寺に移動する。本能寺から妙覚寺まで大した距離はない。ところが、明智軍は移動に少々手間取ったらしい、その間、本能寺前に邸宅を構える村井貞勝は子の貞成・清次とともに信忠のもとに向かい、本能寺が落ちたこと、やがて明智軍が妙覚寺に来るであろうことを報告した。
■「1万vs数百」の戦はあっという間に決着
変を知った信忠はもはや安土城(滋賀県近江八幡市)まで逃れられないと覚悟し、逃げる途中で雑兵(ぞうひょう)の手にかかるならば、ここで切腹したほうがよいと決断した(『信長公記』)。その後、村井貞勝の進言により、信忠は堅固な構えの二条御所(京都市上京区)へと移動した。

やがて二条御所での戦いが開始される。光秀軍は1万余の軍勢であったが、信忠軍の兵力はわずか数百で、武器も満足になかったという。信忠も自ら武器を取って戦ったが、最後には覚悟して切腹した。享年26。信長に加え、嫡男の信忠が討たれたことは、織田家に深刻なダメージを与えた。
6月2日の未明に始まった戦いは、おおむね9時頃に終了した。わずか3時間余の戦いで、光秀は信長を討つという本懐を成し遂げたのだ。
■光秀討伐は岡山にいる秀吉頼りだった
本能寺の変の前後、各地で戦っていた信長配下の勢力はどのような状況だったのかを示しておこう。
①北陸-柴田勝家を筆頭に、佐々成政、前田利家、佐久間盛政が加賀、能登、越中の平定に臨んでいた。6月3日には、越中魚津城(富山県魚津市)を陥落させた。
②中国-羽柴秀吉が備中高松城を攻囲しており、変の前後は和睦に腐心していた。
③関東-滝川一益が上野厩橋(うまやばし)(群馬県前橋市)に滞在していた。

④四国-5月29日の時点で、織田信孝以下、丹羽長秀、蜂屋頼隆、津田信澄(信長の甥で、光秀の女婿)が摂津住吉(大阪市住吉区)およびその周辺で待機しており、6月3日に四国渡海の予定であった。
⑤摂津-中国方面の救援に向かうべく、中川清秀、高山右近らが待機していた。
北陸の柴田勝家らの諸将、関東の滝川一益は遠隔地でもあり、情報収集に苦労したと考えられる。とくに、勝家らは上杉氏と対峙しており、身動きできない状況だった。光秀にとって有利な状況だったのだ。
武将の面々でもっとも京都に近かったのは、中川清秀と高山右近である。二人は秀吉の与力(加勢する武将)として、中国方面に向かう予定だった。いかほどの軍勢を抱えていたかは不明であるが、とっさに光秀を討とうとするリーダーシップはなかったのだろう。
その後の動きによると、中川氏は秀吉と書状のやり取りをして情報を交換しているので、自ら動くのではなく秀吉を頼りにしていたのは明らかである(「中川家文書」)。
■信長の死を知った秀吉の仕事ぶり
四国渡海を控え、摂津住吉に滞在中だった織田信孝らも、京都に近い場所にいた。当時、信孝は20代の青年武将で、丹羽長秀ら信長の重臣に支えられていた。しかし、彼らも京都に急行して光秀を討とうとはしなかった。

そうした状況下において、唯一、光秀を討つべく京都に向かったのは、羽柴秀吉だけだったのである。そして、秀吉の迅速な行動は、その後の織田家臣団の立ち位置で重要な意味を持った。
6月3日夜、落城を間近にした備中高松城を前にして、秀吉のもとに使者が書状を届けた。書状には、前日の2日に本能寺で信長が光秀の奇襲を受け、自害したと記されていたに違いない。秀吉の驚きぶりは、想像するに余りある。ただ、あくまで推測である。残念ながら、秀吉がいつ「信長横死」の情報を得たのかは判然としない。
ここからの秀吉の行動は迅速だった。
光秀打倒を決意した秀吉は、6月3日の深夜から毛利氏との和睦交渉を開始する。交渉が長引けば、それだけ光秀に態勢を整える時間を与えてしまうので、スピードが要求された。
しかし、秀吉は有利な状況にあった。水攻めのなか籠城して抗戦する清水宗治への救援が事実上困難であったため、毛利氏は秀吉との和睦締結に傾きつつあったのだ。むろん、信長の死を毛利方に知られる前に、という目論見もあっただろう。
■疲労困憊の中、岡山から京都へ
和睦締結の後、秀吉は早速、城中の宗治に対して最後の酒と肴を贈った。秀吉は孤島と化した備中高松城に小舟を送り、宗治とその家臣を本陣に招き入れた。ともに杯を酌み交わし、宗治は舞を舞った後、辞世の句を詠んで自刃して果てたといわれている。結局、毛利氏は信長横死の情報を得るのに手間取り、秀吉を追撃することはなかった。
4日の午前10時頃、上洛に向けて準備を整えた秀吉は、備中高松城に腹心の杉原家次を置くと、京都に向けて出陣する(6日出発という説もある)。秀吉の取った経路は、野殿(のどの)(岡山市北区)を経て、宇喜多氏の居城である沼城(岡山市東区)へ向かうコースだった。直線距離にして約22キロメートルである。
兵は籠城戦後かつ重装備での行軍であり、心身の疲労は大きかったであろう。秀吉も同じく疲労困憊(こんぱい)だったに違いない。
■「中国大返し」は過大評価されている?
その後、秀吉は姫路(兵庫県姫路市)を経て山陽道を東上し、6月12日には尼崎(兵庫県尼崎市)を通って摂津富田(とんだ)(大阪府高槻市)に着陣した(「金井文書」など)。秀吉は行軍しながら、光秀の動向について情報を探っていたに違いない。
秀吉は前日の軍議で高山右近を先陣に決定し、早速、大山崎(京都府大山崎町)へ陣を取るように命じた。秀吉が摂津富田に着陣すると、すでに光秀軍との前哨戦が始まっていた。光秀が駐留していた勝竜寺城(京都府長岡京市)付近では、両軍が鉄砲を打ち合っていたのである。
12日夜、摂津富田で一夜を過ごした秀吉軍は、13日の朝に同地を発ち、いよいよ決戦の地・山崎へと向かった。秀吉軍が山崎に着陣したのは、13日の昼頃であった。備中高松城から山崎まで、約170キロメートルである。「中国大返し」は、尋常でない移動スピードが強調されるが、現在ではそれほどでもなかったという否定的な見解が強い。
■「天下人」が一夜で「哀れな敗残者」に
山崎で再び秀吉軍と合流した信孝の号令により筒井順慶が出撃すると、光秀との戦いが本格化した。
夜になると、光秀軍が秀吉軍を攻撃してきたため、これに対して反撃を行った。摂津衆の高山右近、中川清秀、池田恒興は、地元の地理にも詳しかったので戦いを有利に進め、秀吉軍はたちまち光秀軍を敗北へと追い込んだ。当時の記録に、光秀軍が「即時に敗北」とあることからも(『兼見卿記』)、秀吉軍の圧倒的な勝利だった。
敗北した光秀軍は勝竜寺城へ逃げ帰ったが、そこも秀吉軍に包囲され、即座に脱出した。光秀軍の一部は京都に流れ込み、大きな混乱を招くことになる。その敗軍の中に、光秀の姿もあったかもしれない。かつて天下人に名乗りをあげた光秀だったが、一夜にして哀れな敗残者に転落した。
大敗北を喫した光秀は、居城のある近江坂本城(滋賀県大津市)を目指し、とにかく逃亡するしか術(すべ)がなかった。坂本への帰還後、兵を集めて再起を考えていたかもしれない。14日、光秀ら落武者の一行が小栗栖(おぐるす)(京都市伏見区)へと差しかかると(醍醐、山科とする史料もある)、ここで意外な結末が待っていた。
■落武者狩りに遭った光秀の遺体は磔に
その頃、明智軍の敗北を知った農民たちは、落武者の所持品や首級を狙って、落武者狩りを行っていた。とくに大将の首級を持参すると、多大な恩賞を得ることができた。
案の定、光秀らは竹藪で土民らの落武者狩りに遭い、無残にも非業の死を遂げたのである。家臣の斎藤利三は、堅田(かただ)(滋賀県大津市)に潜んでいるところを捕縛された。その後、六条河原で殺害された。こうして明智軍は全滅。光秀の謀叛(むほん)は、「三日天下」と揶揄(やゆ)されたのだ。
7月2日、光秀の斬られた首は胴体と接続させて、京都粟田口(あわたぐち)(京都市東山区・左京区の境)で磔(はりつけ)にされ、衆人の面前で辱(はずかし)めを受けた。利三も同じ措置を施された。多くの見物人が集まったという。そのほか討ち取られた首が3000余もあり、それらの首を埋葬して首塚が築かれた。

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渡邊 大門(わたなべ・だいもん)

歴史学者

1967年生まれ。1990年、関西学院大学文学部卒業。2008年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主要著書に 『関ヶ原合戦全史 1582‐1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)ほか多数。

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(歴史学者 渡邊 大門)
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