織田信長の死後、織田家家臣の勢力図を変えるきっかけとなったのが清須会議だ。歴史学者の渡邊大門さんは「映画や小説では、豊臣秀吉が主導権を握って後継者を決めたように描かれるが、一次史料を読み解くと異なる実態が見えてくる」という――。

※本稿は、渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■信長の後継者をめぐり、織田家重臣が集結
本能寺の変後、問題となったのが信長の後継者である。本来ならば、嫡男の信忠が継ぐべきなのだろうが、信忠も本能寺の変に巻き込まれて横死した。そこで、信長の後継者を決めるべく、天正10年(1582)6月27日に催されたとされるのが清須会議である(開催日は諸説ある)。清須会議なる名称は当時の史料にはなく、のちに付けられたものである。
最初に、従来説を確認しておこう。
清須会議に出席した織田家の重臣は、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4人である。重臣の滝川一益は上野から伊勢に逃亡したので、参加できなかった。
信長の後継者の候補としては、次男・信雄と三男・信孝の2人がいたが、三男の信孝を推したのが柴田勝家である。それに対し、光秀討伐に功があった秀吉は、信忠の嫡男で、当時まだ3歳だった三法師(のちの秀信)を擁立。丹羽長秀、池田恒興がこれに賛成した。
■ほかの3人を出し抜いた秀吉
次男の信雄が候補にあがらなかったのは、そもそも家督継承の資格がなく、同様に資格を欠いていた信孝とは違って推してくれる宿老がいなかったからだろう。
信雄と信孝の2人に家督継承の資格がないというのは、嫡長でなかったこと、養子に出されていたことが理由となろう。
江戸時代に人気を博した『絵本太閤記』には、信孝を支持する勝家に対し、秀吉が三法師を抱いて諸大名の上座に現れる様子が描かれている。意表を突かれた他の三宿老は、秀吉と三法師に平伏せざるを得なかった。すでに三法師は秀吉になついており、秀吉の巧妙な筋書きで織田家の後継者が決まったような描写である。
■信孝・勝家が不満を募らせ…という筋書き
その結果、織田家の家督は宿老衆の賛成多数で三法師が継いだものの、秀吉は所領配分の際も山城・丹波・河内の一部などを獲得した。事実上、秀吉は信長の後継者になり、丹羽長秀、池田恒興の2人の宿老は秀吉に籠絡された。
一方、勝家は秀吉の旧領である近江北部を獲得したに過ぎず、京都支配も秀吉が掌握したため、その立場は弱くなっていった。織田家の家督を継げなかった信孝も、秀吉に不満を抱いていた。信孝と勝家の2人が結託して秀吉に対抗するのは、さほど時間がかからなかった。秀吉は、巧みに信孝と勝家を陥れたのだ。
その後、秀吉は柴田勝家を討伐、信孝も死に追いやると、信雄を暫定的に織田家の家督に就けた。天正12年の小牧・長久手の戦いでは、反抗した信雄と家康を封じ込め、天正13年7月には関白に就任する。
さらに四国、九州、小田原、奥州と討伐戦を繰り返し、秀吉はついに天下人となった。秀吉は清須会議で主導権を握り、それは天下人になるための重要な会議だったと評価されている。
■織田家の家督をめぐり争ったわけではない
ここまで述べた従来説の清須会議は、映画、テレビドラマ、小説などでおなじみのものであろう。しかし、それは江戸時代後期に成立した読本(よみほん)の『絵本太閤記』(武内確斎著、岡田玉山画)や二次史料に書かれたものをベースにしており、全面的に信が置けるものとはいえない。それは従来説というよりも、創作あるいは俗説といえるかもしれない。
清須会議の内実について、本書では改めて一次史料の情報をもとにして検討しているが、整理すると、おおむね次のようになるだろう。
信長の死後、嫡男・信忠の遺児・三法師(信長の嫡孫)が織田家の家督を継ぐことは既定路線であった。だが当時、数え年で3歳の三法師が自ら政務を執ることは不可能である。そこで、三法師が元服するまでの期間を目途として、信雄と信孝のいずれかが名代となる必要があった。
つまり、問題になったのは、三法師の名代を誰に任せるか、である。信雄と信孝が争ったのは、三法師の名代としての地位であり、信長の後継者となるべく、織田家の家督を争ったわけではない。
■一次史料から読み取れる清須会議の実態
2人は名代の地位をめぐって争い、互いに譲ることがなかったので、織田家の宿老だった秀吉、勝家、恒興、長秀が仲介に入った。
最終的に4人が天下の政務を執ることによって、三法師を支えることになり、堀秀政が三法師のお守役を担当した。
信雄と信孝はこれに納得して分国の配分を行い、その証拠として誓紙が交わされたのである。それは『多聞院日記』にもあるとおり、秀吉の思いどおりになったのである。
あとになって、信孝はどうしても納得できなくなり、秀吉との関係が悪化する。信孝は秀吉に対抗すべく、預かった三法師を安土に戻さなかったのだ。
秀吉は信孝との関係を修復するため、「金井文書」のなかで、三法師を擁立した経緯、宿老が三法師を守り立てることを信孝が了解したことを改めて説明したのである。さらに、養子の秀勝を織田家の家督に据えることもないと明言した。つまり、宿老体制が強調されがちだが、秀吉の突出した存在に注意しなくてはならない。
■6月2日の信長の死から3週間前後
ただ、残念なことに、清須会議がいつ行われたのかについては判然としない。『多聞院日記』には、天正10年6月29日条に信雄と信孝が争っている記事があるので、少なくともそれ以前から2人が揉めていたのはたしかである。
信雄・信忠が相論に及んだので、宿老たちが信忠の嫡男・三法師を守り立て、天下の儀を差配すると記した「小西康夫氏所蔵文書」中の勝家ら連署状の日付は、6月27日である。
同じく「大阪城天守閣所蔵文書」中の秀吉書状の日付は6月26日であり、秀吉が21日に清須城に向かったという記述がある。

したがって清須会議は、秀吉が尾張清須城に入った6月21日から26日の間に開催されたと考えられる。あるいは、6月27日に開催され、すぐに秀吉ら宿老衆の連署状が発給された可能性も否定できない。
一次史料の記述には結論だけが書かれており、清須会議の議論の過程が抜け落ちている。それゆえ、一次史料を補ううえで、二次史料の記述に捨てがたい点があるのも事実だ。
■「清須会議の真相」もう一つの可能性
三法師が織田家の家督を継承するのは既定路線と述べたが、家督の決定は基本的に織田家中の問題である一方、家臣らの同意も要したに違いない。となると、すでに20代半ばに達していた信雄と信孝が、家督をめぐって争った可能性も否定できない。
御家騒動に際しては、互いが有力な家臣を巻き込んで争うのが通例である。つまり、織田家の家臣が信雄派、信孝派に分かれた可能性もあろう。
とはいえ、いつまでも家督継承で揉めるわけにもいかず、ましてや互いに戦うような事態になれば、最悪な結果をもたらすことになる。それを避けるためにも、織田家の重臣の意向として信忠の遺児・三法師を立てれば、ことは収まると考えた。
だが、名代の座をめぐり、信雄・信孝の2人が争ったので、秀吉ら宿老4人が三法師を支えることで妥協点を見出したとはいえないだろうか。そうなれば、問題は織田家の家督というよりも、次の天下人の選定ということになる。

■三法師が「敵」の信孝に預けられた理由
堀秀政が三法師のお守をするというのも、信雄・信孝のいずれにも預けないための措置であった。時間をかけて、信雄・信孝のわだかまりを解決しようとしたのかもしれない。ところが、三法師は秀政ではなく、一時的であるが信孝に預けられることになった。焼けた安土城を改修するため、すぐに三法師は戻れなかったからである(「専光寺文書」)。
この宿老4人体制はしばらく続いたが、実質的な主導権を握っていたのは秀吉だった。やがて信孝は秀吉に強い不信感を抱き、いったん預かった三法師を安土に返さなかった。その理由は、京都市中の支配をめぐる両者の確執である。やがて秀吉は、信孝の後ろ盾となる勝家とも対立することになる。
こうした考え方は、一次史料に基づくものではないが、一つの可能性として提示しておきたい。

----------

渡邊 大門(わたなべ・だいもん)

歴史学者

1967年生まれ。1990年、関西学院大学文学部卒業。2008年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。
博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主要著書に 『関ヶ原合戦全史 1582‐1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)ほか多数。

----------

(歴史学者 渡邊 大門)
編集部おすすめ