高市早苗氏は総理就任前から保守的な右派の政治家として知られていた。大下英治著『高市早苗 安倍晋三の後継者となった初の女性首相の戦い』(宝島社文庫)によると、高市氏は元軍国少年の父親から教育勅語を教わり、戦争映画を見せられて育ったという――。

※本稿は、大下英治『高市早苗 安倍晋三の後継者となった初の女性首相の戦い』(宝島社文庫)の一部を再編集したものです。
■高市首相はなぜ保守派になった?
高市早苗は、現在、故・安倍晋三の遺志を継ぐ保守派の政治家として高く評価されているが、それは生まれ育った奈良県の文化と関係があるのだろうか。
以前、筆者のインタビューに対して、高市は次のように語っている。
「子供の頃から、橿原神宮を走り回ったり、明日香村にある石舞台古墳を登ったりしていたから、皇室の歴史などを意識する環境は、自然と周りにあった気はします。近所にも奈良公園内の飛火野に存在している御料園古墳群があったり。今でも初詣の時には、神武天皇を祀っている橿原神宮に行きますからね」
高市にとって幼い頃から、神社仏閣は身近に存在するものであった。
盆踊りでも、お寺の境内で開かれて、踊りと踊りの間にお坊さんが出て来て、話をしてくれるスタイルのものがある。
「7代前までのご先祖様の霊を慰めるつもりで、にぎやかに踊ってください」
そういった話をしてくれるのだ。
小さい頃から、神社仏閣になじみ、触れる機会が多いということは、自然への恐れと融和、祖先に対する崇拝と感謝、それがひいては人を思い遣る心や、謙虚さへと繋がり、その人の人間形成に深く関係してくるのかもしれない。
奈良育ちの高市にとっては、皇室のことを意識するのは当たり前の環境であった。
自宅には、仏壇だけでなく神棚もあった。こまめにお供え物をしたり、手入れをしていたから、物心付いたときから、朝一番に水とお茶とご飯を仏壇に運ぶのが高市の仕事であった。
毎朝手を合わせていたという。
■実家は真言宗、教育勅語を唱える
高市家は真言宗だった。
朝も手を合わせて、帰って来てからも手を合わせる。神棚も、いまだに家に帰ると、弟の知嗣が綺麗にしている。神仏への気持ちは、自然と染み込んでいる。
天皇家への関心も高かった。
「神武天皇が祀られている橿原神宮にずっと参拝してきましたから。紀元節に橿原神宮に行くたびに、必ず天皇陛下からの賜りものを持った勅使の方が来られる光景を見てきました。仰ぎ見る存在ではありますが、小さい頃から関心がありましたね」
高市の両親は、共に教育勅語の全文を暗記していた。高市も、それを幼い頃から繰り返し教えられていた。
高市も楽しそうに声を合わせて唱える両親の姿が好きであったという。
「朕惟ふに秘か皇祖皇宗国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり秘か臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世世厥(よよそ)の美を済せるは此れ秘か国體(こくたい)の精華にして……」
■軍国少年だった父の影響
高市は、国会議員として靖国神社にも、たびたび参拝しているが、それは父親の大休の影響もあるという。

「昭和一桁生まれ、軍国少年最後の世代の父親がわたしを映画館に何度か連れて行ってくれたんですが、小学校くらいの時の映画は全部戦争をテーマにした作品ばかり。家の本棚に並ぶ本も、山本五十六や東郷平八郎を主人公とした本が多かった。それから戦争関係の歴史本も多かった。わたしも、父親の影響で、東郷平八郎と山本五十六について書かれたものは読みました」
父親は軍歌も好きだった。早いうちから安月給でやりくりして、良いステレオを購入して、休みの日にはよく聴いていた。
高市も、父親と映画に行くのが好きだった。
ほとんど戦争映画だったので、エンディングはたいてい悲しいシーンだった。戦艦が沈んだり、兵隊が亡くなったり。子供ながらに見終わると悲しくなり、ワンワンと泣くこともあった。
父親は、家族サービスとして高市を連れ出すことにより、好きな戦争映画を観たかったのだろう。
当時は、土曜日も出勤が当たり前だったので、休みは日曜日だけ。近くに映画館がないために、擾原から近鉄に乗って、大阪の難波まで遊びに出た。

映画を観たあとは、近鉄百貨店のレストランでお子様ランチを食べて帰るコースが定番であった。映画で泣き崩れても、レストランで食事をしているうちに、笑顔に戻っていった。
■「料理が不得意なのは母親譲り」
父親の大休は、料理も上手だった。母親の和子が残業の時などは、もっぱら父親が腕を振るってくれた。
高市家では家族みんなで共に夕食をとるという決まりがあり、両親のどちらかが遅い時でも揃うのを待って、必ず一緒に食事をとった。
高市が振り返って語る。
「何が美味しかったかというと、あんまり記憶にないですが、時間がない時はすき焼きや鍋物。あとは、肉じゃがや野菜炒め。何でも美味しくつくってくれました。父に比べると、母は料理下手で、言ったら罰が当たりますが、美味しくないうえに時間がかかって、品数が少ないんです。わたしもそれを継いでしまって、要領が悪いんです」
■小学1年で赤ん坊の弟の世話を
料理が苦手な高市だが、料理以外の家事全般は子供の頃からやっていた。今で言えばヤングケアラーだったという。

母親の和子は、弟の知嗣を産むと、すぐに仕事に復帰した。
そのため小学校一年生の高市が、弟の面倒を見ることになった。
その頃は祖父とも同居していたが、祖父は家事をしない人であった。
当時は今のように便利な紙オムツもなかった。
高市はウンチまみれになった知嗣の布オムツを外して、おしりを綺麗に拭いて、新しい布オムツに交換してやった。汚れたオムツは風呂場にタライを出して、ガシガシと洗う。幼い高市にとっては、何よりも重労働であった。
それだけでなく、知嗣の身の回りの世話は何でもやった。
粉ミルクをちょうど良い温度に温めて、弟に哺乳瓶で飲ませたり、離乳食が必要になると、リンゴをすりおろしたり、サツマイモを蒸かしてすり潰したりして、離乳食づくりにも励んだという。
「どうしても離乳食の材料が家にない時は、20分くらい走って駅前の薬局に行って、そこにある缶詰の離乳食を買って来たりとか。とにかく母親は産んですぐ仕事に復帰し、わたしは小学校1年生から4年生くらいまでは弟の面倒を見ていたから、その期間は友達とも遊べなかった。学校が終わるなり、家に帰って弟の世話ばかりしていましたね」
■今ならヤングケアラー
知嗣が幼稚園に通うようになると、少し楽になった。

だが、今度は弟にひらがなや数字を教えてあげるようになった。
学校から帰って来ると、本の読み聞かせをしたり、自分の宿題をあと回しにして、弟の面倒を見た。
「一回子育てをやったような感じがありますね。今から考えると、紙オムツがない時代によく頑張ったなと思います」
弟が大きくなると、今度は高市は家の掃除を担当するようになった。
雑巾がけを毎晩することが日課となり、高校受験の前日でも取り組んでいた。
「今の時代なら、ヤングケアラーと言われていたかもしれませんが、当時はお姉ちゃんが下の子の面倒を見るのが当たり前でした。母親も学校の先生からもしょっちゅうビンタをされましたが、そういう時代だったんでしょうね」
■父親に溺愛されて育ったが…
父親は出世一筋の人ではなく、接待や残業などもあまりしなかった。
仕事を終えるとすぐ帰宅するタイプで、ほぼ毎日、家で夕食をとっていた。
そして、何でも「まあ、まあ、まあ」とアバウトで、いつもニコニコ、そしていい意味でポヤーッとしている人だったという。
名は体を表わすというが、父親は名前からして「大休」という名前であった。
ナマケモノでないはずがない。その名は、あの一休さんよりも立派になるようにと、寺で付けてもらったという。

だが、父親の場合は「“ひと休み”どころか、“おお休み”を実践しているのでは」と感じられるほどだった。
したがって、高市は、父親には怒られたという記憶もほとんどなく、手を上げられたこともなかった。
とにかく遊んでくれた。羽根つきがヘタで、友達に負けてばかりだった高市に、羽根つきの特訓までしてくれた。バレーボールが流行れば、強烈なサーブを伝授してくれた。
父親は、家族に対して唯一、毅然と言い放ち、行動していたことがある。
「選挙に行くのは、国民の義務だ」
普段、デレデレに甘い父親が、その日だけは「遊園地に行きたい」「一緒に遊びたい」という高市の願いを、ガンとはねつけて、選挙に出かけて行った。

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大下 英治(おおした・えいじ)

作家

1944年、広島県に生まれる。広島大学文学部を卒業。『週刊文春』記者をへて、作家として政財官界から芸能、犯罪まで幅広いジャンルで旺盛な創作活動をつづけている。著書に『安倍官邸「権力」の正体』(角川新書)、『孫正義に学ぶ知恵 チーム全体で勝利する「リーダー」という生き方』(東洋出版)、『落ちこぼれでも成功できる ニトリの経営戦記』(徳間書店)、『田中角栄 最後の激闘 下剋上の掟』『日本を揺るがした三巨頭 黒幕・政商・宰相』『政権奪取秘史 二階幹事長・菅総理と田中角栄』『スルガ銀行 かぼちゃの馬車事件 四四〇億円の借金帳消しを勝ち取った男たち』『安藤昇 俠気と弾丸の全生涯』『西武王国の興亡 堤義明 最後の告白』『最後の無頼派作家 梶山季之』『ハマの帝王 横浜をつくった男 藤木幸夫』『任俠映画伝説 高倉健と鶴田浩二』上・下巻(以上、さくら舎)、『逆襲弁護士 河合弘之』『最後の怪物 渡邉恒雄』『高倉健の背中 監督・降旗康男に遺した男の立ち姿』『映画女優 吉永小百合』『ショーケン 天才と狂気』『百円の男 ダイソー矢野博丈』(以上、祥伝社文庫)などがある。

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(作家 大下 英治)
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