■「あさい」ではなく「あざい」
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第10話で織田信長(小栗旬)の妹、お市の方(宮﨑あおい)が浅井長政(あざいながまさ)(中島歩)と婚姻する。
浅井家は近江国浅井郡(滋賀県長浜市・米原市付近)を発祥とする北近江の有力な国衆である。旧来「あさい」とされてきたが、現在では「あざい」と呼ばれている。
近江は北近江を京極家、南近江を六角家が守護を務めるお国柄だが(半国守護)、応仁・文明の乱以降、京極家も家督相続をめぐって内紛が起き、浅井亮政(すけまさ)が北近江の国衆を束ねて美濃斎藤家と連携し、京極高清を擁立。京極家の執権となった。浅井家の居城として有名な小谷(おだに)城(滋賀県長浜市)は、亮政が高清を招聘(しょうへい)するために築いたという。
京極高清が死去すると、子の京極高広と養子・京極高吉の家督相続争いが勃発。高吉が南近江の守護・六角定頼と結んで挙兵。一方、浅井家では亮政の婿養子の浅井明政が高広派、庶子の浅井久政(ひさまさ)(榎木孝明)が高吉派(六角家)につき家督を争った。結局、六角家の支持を得た京極高吉・浅井久政が勝利。京極高吉は六角家の支援を得ながら京極家の再興に努めた。
■長政は元服直後に結婚していた
かくして、浅井家は久政時代に六角家の支配下にあった。久政の嫡男、浅井長政は当初、浅井賢政(かたまさ)と名乗っていた。永禄2(1559)年の元服時に六角義賢(よしかた)(定頼の子。号・承禎)から偏諱(へんき)を受けたからだ。そして、六角重臣・平井定武の娘と結婚した。
しかし、賢政はほどなくして六角家と袂(たもと)を分かち、妻を離別して平井家に帰したという。そのとき妻を離縁し、平井家に帰したと伝わる。大河ドラマなどでは省略されがちだったが、浅井家のプリンスは実はバツイチだったのだ。
永禄3(1560)年、久政は35歳の若さで賢政に家督を譲り隠居。翌永禄4年5月頃、賢政は織田信長から偏諱を受け、浅井長政と改名。信長の妹・お市の方と婚約した。
ただし、両者の婚儀がいつ行われたかはハッキリしない。
① 永禄2(1559)年6月説 (『川角太閤記』)
② 永禄4(1561)年説(『東浅井郡志』)
③ 永禄6(1563)年説(高柳光寿『青史端紅』)
④ 永禄7(1564)年3月説(『続応仁後記』『浅井三代記』)
⑤ 永禄11(1568)年4月説(『総見記』)
⑥ 永禄10(1567)年末~11年説(奥野高広「織田信長と浅井長政の握手」)
⑦ 永禄11(1568)年4月説(小和田哲男『近江浅井氏の研究』)
■信長が妹を嫁がせたかった事情
長政以前の浅井家の婚姻は、近江国内の有力者との連携強化に重点が置かれている。浅井家は一国衆から北近江を牛耳る勢力に擡頭(たいとう)したこともあり、国内地盤を固める必要があったからだろう。
こうしたことから、長政とお市の方の婚姻は浅井家の発想ではなく、信長から提案されたのではないかと考えられる。
一方、信長の方の事情を考えると、永禄4年5月に斎藤義龍(DAIGO)が急死し、信長は美濃侵攻を本格化させている。信長としては北近江の浅井家と同盟を組んで、美濃斎藤家の背後を脅かしておきたい。ところが、斎藤龍興(たつおき)(濱田龍臣)の母を亮政の娘(長政の叔母)とする説がある。こうなると、単なる同盟だけではダメで、婚姻関係にまで進まなければ、浅井・斎藤間の連携を断ち切れない。
実際、永禄4年5月頃に信長と長政は同盟を結んでいるので、同盟と同時に婚姻を打診し、翌永禄5(1562)年から永禄6(1563)年にかけて輿入れが実現――というスケジュールが最も妥当なところではないか。
■お市の産んだ次女が「初」とは?
浅井長政とお市の方夫妻は一男三女をもうけたとされている(子の生年については諸説あり)。
・男 万福丸(1564年生まれ?) 浅井家滅亡の際に殺害される。
・娘 茶々・淀殿(1567、1569年生まれ?) 豊臣秀吉の妻。
・娘 初(はつ) (1568、1570年生まれ?) 京極高次の妻。
・娘 江(ごう)(1573年生まれ) 佐治与一郎一成、豊臣小吉秀勝、徳川秀忠の妻。
「豊臣兄弟!」では永禄10(1567)年頃にお市の方が浅井家に輿入れし、嫡男の万福丸は前妻の子であり、お市の子ではないとするようだ。のちに万福丸は浅井家滅亡の際に、秀吉軍の手によって殺害されてしまうので、物語の進展上よろしくないと判断されたのかもしれない。
その一方、茶々・淀殿(井上和)をお市の子ではないとする説もある。確かに次女の名前が「初」というのは、通常では納得しがたい。万福丸と茶々は前妻の産んだ子という見方もできるかもしれない。
■美濃を攻略した信長は越前へ
永禄10(1567)年8月、信長は美濃稲葉山城を落として、斎藤龍興を追放。城下を岐阜と命名して居城とした。さらに永禄11(1568)年9月に観音寺(かんのんじ)城(滋賀県近江八幡市安土町)を落として、六角義賢を追放。信長は足利義昭(尾上右近)を奉じて上洛した。
元亀元(1570)年4月、信長は朝倉義景(鶴見辰吾)を討つため、越前に進軍。朝倉の支城を陥落させ、わずか2日で敦賀郡を制したが、長政が離反。信長は浅井軍に近江路を塞がれたり、背後から追撃されることを恐れ、殿軍(しんがり)に木下秀吉(池松壮亮)を置き(一説に池田勝正、明智光秀も同行)、急ぎ撤退した。有名な「金ヶ崎の退き口」である。
なお、浅井長政がなぜ信長から離反したかは定かではない。従来、亮政以来の朝倉家との旧縁を重視したとの説が支配的であったが、実際にはそのような関係にない。永禄3(1560)年に六角義賢が子の義治の婚姻について、判断を誤ると「朝倉氏は浅井氏と関係を深めると考えるが、その時お前たちはどうするのか」(『六角定頼』)と宿老を叱責しており、この時代はまだ両者の関係は親密でなかったと考えられる。
浅井家の来歴を顧みると、京極高清・高広・高吉、および美濃斎藤家・六角家の間を「昨日の友は今日の敵、そして明日にはまた同盟」という離合集散で生き抜いてきた。信長との同盟・離反も同じ感覚で行ったのではないか。ただ、信長はそれを許さなかった。
■信長は裏切った義弟を許さず…
同元亀元年6月、信長は姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍に勝利した(ただし、この合戦は江戸時代の御用学者が徳川家康の武功を讃えることが主目的で、浅井・朝倉軍にとって大きなダメージではなかった)。姉川の合戦以降、信長は横山城(滋賀県長浜市)に木下秀吉、佐和山城に丹羽長秀(池田鉄洋)を置いて、浅井家重臣の調略・切り崩しを謀った。
元亀4(1573)年7月、信長は将軍・足利義昭を京都から追放。8月に浅井家重臣の山本山城主・阿閉(あつじ)淡路守貞征(さだゆき)が投降してくると、信長はこの機を逃さず北近江に出陣、小谷から越前への通路を遮断した。朝倉義景は浅井家の後方支援として2万の軍勢を率いて出陣したが、結局、大きな戦(いくさ)もせずに敗走。織田軍は追撃し、北近江から若狭に続く浅井・朝倉軍の砦を次々と陥落。越前に乱入して朝倉義景を自刃させる。信長は急ぎ北近江に兵を戻して小谷城を攻め、8月28日に浅井長政を自刃させ、浅井家は滅んだ。
落城にあたって、お市の方は3人の娘をともなって脱出して保護され、本能寺の変後に柴田勝家(山口馬木也)に再縁した。
よく言われるように、浅井家は滅亡したが、長政の娘が豊臣・徳川の世子を生み、実質的に天下を取ったと評価されている(3代将軍・徳川家光は江の子でない説が近年有力で、8代将軍・徳川吉宗以降も関係ないのだが)。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)

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