「腕時計」に高級車1台分、なかには億を超える金額をかける人がいる。一体、なぜなのか。
富裕層マーケティングに長年携わる西田理一郎さんは「一つは“リセールバリューの高さ”だ。中には店で購入した瞬間に資産価値が4倍になるような代物もある。しかし、富裕層が高級時計に大金を投じる背景には、それだけでは説明できない理由がある」という――。
■「時刻の正確さ」ならカシオが勝ちだが…
スマートフォンは、正確無比である。電波時計よりも狂わない。世界中どこにいても現地時刻を自動で表示し、アラームも、タイマーも、ストップウォッチも完璧にこなす。しかもポケットに入っている。
ならば、なぜ人は腕に数百万円の機械を巻くのか。
「時刻を知る」という本質的機能だけを見れば、1000円の時計もパテックフィリップも等価である。いや、正確性だけなら電波ソーラーのカシオが勝つだろう。それでも高級時計市場は拡大を続け、2026年1月にはロレックスが6~9%の価格改定を行った。デイトナやサブマリーナといった主要モデルが軒並み値上げされたにもかかわらず、正規店には行列が絶えない。

これは、一体どういうことなのか。
■高級時計を買う人の心理
一般的に、ちょっといい高級時計を求める動機は、素朴で、人間の本能に根ざしている――「自分を良く見せたい」、これに勝る理由があるだろうか。
袖口から垣間見えるロレックス、「素敵な時計ですね」と称賛を受けた刹那の陶酔感、認めざるを得ない、我々は他者の視線を欲している。異性を惹きつけたいし、「この人物、只者ではない」という印象を与えたい、収入を言葉にするのは野暮だが、時計は沈黙のうちに雄弁に物語ってくれる。
そして何より、自己の昂揚感が得られる、朝、時計を腕に纏う、その重量感、輝き、「自分は前進している」という実感。誰の目に触れずとも自分自身は知っている、この高揚が姿勢を正し、不思議と成果にも結実する。
畢竟、高級時計とは「自己暗示の装置」として購入を検討する人が一定数存在する。
■買っているのは「時刻」ではない
「時計」と「時間」は違う。
時計は時刻を示す。だが高級時計が示すのは、時刻ではなく「時間」である。
過去の時間。ブランドが積み重ねてきた歴史、職人が継承してきた技術、オーナーが刻んできた記憶。

パテックフィリップの広告コピーは有名だ。「あなたは本当の意味でパテックフィリップを所有することはない。次の世代のために預かっているだけだ」。
これは単なるマーケティングではない。高級時計を買う人間の心理を、見事に言い当てている。
現在の時間。腕に巻かれた時計は、持ち主の「いま」を物語る。商談の席で、会食の場で、言葉を発する前に時計が語る。
ロレックスなら「堅実な成功者」、パテックなら「本物を知る人間」、リシャール・ミルなら「スピードで勝ち上がった人間」。
時計は、名刺よりも雄弁な自己紹介である。
未来の時間。
良い時計は、壊れない。
メンテナンスを続ければ100年動き続ける。子に、孫に、受け継がれていく。富裕層にとって時計は「携帯できる資産」であり、「残せる記憶」なのだ。
■富裕層とシン富裕層で違う“時計選びの基準”
興味深いのは、同じ「お金持ち」でも、時計の選び方がまったく異なることである。
伝統的な富裕層、いわゆるオールドリッチ層は「バレない強さ」を好む。
派手な限定モデルや奇抜なデザインには手を出さない。定番の完成度、主張しすぎない格。ブレゲ、オーディマピゲ、ヴァシュロン・コンスタンタン……。これが彼らの美学だ。
資産性は「結果」であって「目的」ではない。
長く持てるモデルを選んだ結果として、値崩れしにくいだけのことである。
百貨店の外商が語る。

「本当の富裕層は、正規店で買います。購入履歴、メンテナンス履歴、信頼できるディーラー網。中古であっても『透明性・鑑定・保証』がある認定中古(CPO)を選ぶ。時計の価値は、出自で決まることを知っているからです」
一方、新富裕層(ニューリッチ)の基準は異なる。彼らは「分かりやすい勝ち筋」を選ぶ。
誰が見ても強いブランド、誰が見ても価値がわかる型。
なぜか。流動性が高いからである。市場参加者が多いほど、売りやすい。リセールが安定する。SNSで映える。周囲が認知している。

新富裕層の時計選びは、ある意味で合理的だ。
「興味がなければスマートウォッチで十分。しかし買うなら、リセールバリューが高いものを」
この徹底した合理性こそが、新富裕層の特徴である。
■購入した瞬間、価値が倍になる時計
〈ロレックス〉
2026年1月、ロレックスは全世界で平均約7%の価格改定を敢行した。
ステンレススティールのサブマリーナ 124060は、ついに定価1万50ドル(約150万円)の大台を突破。GMTマスターII 126710は1万2000ドル(約180万円)、デイトナ 126500LNは1万6900ドル(約253万円)、へと引き上げられた。
では、二次市場ではどうか。
まず、サブマリーナ 124060。実際の取引が行われる、高級時計専門の通販サイト「Chrono24」上の実勢価格は1万1500ドル前後(約172万円)。定価の1万50ドルを約15%上回る水準だ。
GMTマスターII ペプシは、2万ドル前後(約300万円)――定価(1万2000ドル)の約1.7倍が相場として成立している。
デイトナ 126500LNにいたっては、定価の約2倍、3万ドル(約450万円)を超える出品が並び、中にはそれをゆうに超え、4万ドル近くで出品されているものもある。

つまり、正規店で買えた瞬間に、これらの時計は定価以上の価値を纏うことになるのだ。
そして、高級時計の市場平均価格をリアルタイムで教えてくれる「WatchCharts」のデータによれば、その価値は日を追うごとに高まっている。
ただし、ここに現代のロレックス市場の複雑な陰影がある。
2022年のピーク時、デイトナは5万ドルを超えていた。そこから約37%下落し、現在の3万1000ドル台に落ち着いた。
サブマリーナも、ピーク時には定価の3倍近い水準まで高騰した後に調整が入った。
coronet.orgの分析が指摘するように、2026年現在の水準は、パンデミック前の2017年から続いていたトレンドラインの延長線上に「正確に」乗っている。あのバブルがなければ、いまの価格が「あるべき場所」なのだ。
この数字が物語るのは何か。
それは、ロレックスは「通貨」であるということだ。
だが通貨にも為替レートがある。常に右肩上がりではない。
例えば、デイデイト40 228238(イエローゴールド)に代表されるゴールドモデルは、二次市場が定価を下回るという、ロレックスでは珍しい逆転現象が生じている(ただし、グリーン文字盤のような希少ダイヤルは別)。
しかしそれは、「どこに持っていっても値が付く」という通貨としての根源的な信頼を、揺るがすものではない。
世界のどの都市でも、ロレックスは換金できる。傷が付いても、箱がなくても、である。その「流動性の厚み」こそが、ロレックスが数百万円の価値を持つ真の理由であり、スマートフォンの時刻表示には絶対に宿らない力なのである。
■「お金があるだけ」では買えない世界
〈パテック フィリップ〉
パテック フィリップの世界に入ると、数字の次元が変わる。そしてその数字の落差に、このブランドの「哲学」が映し出される。
ノーチラス 5811/1G。現行のホワイトゴールドモデル。米国での正規定価は約8万9767ドル(約1350万円)。これだけでも十分に高額だが、二次市場の現実はさらに別世界にある。
WatchChartsの2026年2月6日時点のデータによれば、市場価格は16万1651ドル(約2425万円)。定価の約1.8倍。正規店で購入できた者は、その瞬間に約7万ドル(約1050万円)の「見えない資産」を手にしたことになる。
かつての5711はもっと凄まじかった。
定価約3万5000ドルの時計が、15万0000ドル超で取引されていた。定価の4倍以上。それは「時計」の値段ではなく、ある種の「入場券」の値段だった。
パテック フィリップの正規店で購入履歴を積み重ね、信頼を勝ち取り、ようやく「あなたにお売りできます」と告げられる。その行程そのものが、すでに一つの人生の勲章なのだ。
■もう一つの、パテック
しかし、同じパテック フィリップでも、カラトラバの数字はまるで違う風景を見せる。
カラトラバ 5196G(ホワイトゴールド)。定価2万5550ドル(約383万円)に対して、2026年2月時点の市場価格は1万9128ドル(約287万円)。定価の約75%。つまり、買った瞬間に定価の4分の1近くが「消える」。
この落差に、本文で外商マンが語った言葉が重なる。
「満足度ならノーチラス。しかし、人格や判断軸を示したいならカラトラバ」
ノーチラスは「値が上がる時計」だ。SNSで映え、リセールが強く、「投資」として語られる。カラトラバは「値が下がる時計」だ。派手さはなく、転売益もなく、ただ静かにそこにある。
だが、考えてほしい。
カラトラバを買う人間は、最初からリセールバリューなど気にしていない。定価の75%に「下がった」のではない。あの時計は、もともと「売らない」ために存在する。時を刻むことだけに奉仕する、純粋な機械。それをわかっている人間だけが、カラトラバに手を伸ばす。
ノーチラスの市場価格が定価の1.8倍であることは、世界中の人間がその時計を「欲しい」と叫んでいることの証明である。カラトラバの市場価格が定価の75%であることは、その時計を持つ人間が「売らない」と決めていることの証明なのだ。
どちらが「本物」かという問いには、答えがない。だが、パテック フィリップの広告コピーが最も深く響くのは、おそらくカラトラバを巻いた腕の上ではないだろうか。「次の世代のために預かっているだけだ」――売らない時計だからこそ、この言葉は嘘にならない。
■1本3億円、異次元の時計
〈リシャール・ミル〉
リシャール・ミルの数字を見ると、もはや「時計」という言葉が適切なのかさえ、わからなくなる。
RM 35-03 ラファエル・ナダル。カーボンTPTとアルマグネシウム合金で構成された、重量わずか「19-30グラム(ストラップを含む、種類によって異なる)」の「戦士の鎧」。定価は8万~13万ドル(約1200万~1950万円)。
これだけでも十分に驚くべき数字だが、二次市場では36万5000~37万5000ドル(約5475万~5625万円)で取引されている。定価の約3~4.5倍。ロレックスのデイトナが定価の約1.8倍であることを考えると、そのプレミアムの異常さが際立つ。
RM 11-03 オートマティック フライバック クロノグラフ。定価15万~25万ドル(約2250万~3750万円)に対して、二次市場平均は約28万3283ドル(約4250万円)。定価上限を超えた水準で安定している。
RM 72-01 シャルル・ルクレール。限定150本。定価20万~30万ドルに対して、市場では33万ドル超。わずか150本の中から、1本が市場に出るたびに、世界中のコレクターが殺到する。
そして最上位モデル――RM 75-01 フライング トゥールビヨン サファイア。全面サファイアクリスタルケース。定価は200万ドル超(約3億円)。もはや「時計の値段」ではない。
都心のマンションが買える金額が、手首に載っている。
ここまでくると、二次市場に「相場」などというものは存在しない。そこにあるのは、選ばれし者たちが静かに交わす、不可侵の合意だけである。
年間生産数は約5000本。ロレックスが推定約100万本を生産していることを考えれば、その200分の1以下だ。この圧倒的な希少性が、二次市場での「定価の3~4倍」というプレミアムを支えている。
WatchChartsの2026年2月データによれば、リシャール・ミル全体の市場平均価格は約25万2000ドル(約3780万円)。この「平均」ですら、多くの人間にとっては非現実的な数字だ。
だが、リシャール・ミルを選ぶ人間にとって、リセールバリューは「結果」であって「動機」ではない。
外商マンの言葉を借りれば、「時間を使い切る人」――成功のスピードが速く、人生を全力で駆け抜ける人間が、その加速度を証明するために腕に巻く。
面白いのは、素材の違いが二次市場のプレミアムに直結することだ。チタン合金をベースラインとした場合、カーボンTPTモデルには約25%のプレミアムが乗り、サファイアTPTに至っては40~60%のプレミアムが加算される。航空宇宙産業から来た素材が、時計の世界で「価値の倍率」を塗り替えている。
RM 035 ナダルモデルの定価比プレミアムが3~4.5倍という数字は、ある意味で、その名の由来となった伝説のテニスプレーヤー、ラファエル・ナダルの「全仏オープン14回優勝」と同じ種類の事実だ。常識では説明がつかない。
だが、それが現実として存在している。リシャール・ミルとは、そういう時計なのだ。
■「リセールバリュー=本当の価値」ではない
ロレックス デイトナ――定価の約1.9倍。世界中で「換金」できる、時計界の基軸通貨。
パテック フィリップ ノーチラス――定価の約1.8倍。「手に入れた」という事実そのものが資産。
リシャール・ミル RM 035――定価の約3~4.5倍。希少性と速度が生み出す、異次元のプレミアム。
そして、パテック フィリップ カラトラバ――定価の約75%。「売らない」と決めた人間だけが持つ、沈黙の勲章。
リセールバリューとは、結局のところ、世界中の人間の「欲望の総量」を数字にしたものに過ぎない。だが、その数字の裏側には、一人ひとりの物語がある。
商談を成功させた朝にデイトナを巻いた記憶。父から受け継いだカラトラバの裏蓋に刻まれた日付。人生最大の勝負に臨む日、RM 035の軽さに背中を押された感覚。
スマートフォンは正確だ。だが、スマートフォンには「定価の1.9倍」も「定価の75%」もない。値段が付くということは、誰かがその時計を欲しいと思っているということだ。
値段が動くということは、その時計を巡る物語が、いまも世界のどこかで紡がれ続けているということだ。
時計に刻まれるのは、時刻ではない。人生である。そして人生には、値段が付けられない。
■「Apple Watchか高級時計か」への答え
ここで、現代ならではの問いに触れておきたい。
富裕層はApple Watch派と高級時計派に分かれるのか?
答えは「分かれるし、両方持ちが多い」である。
Apple Watchは「機能」を担う。仕事の通知、健康管理、フィットネス記録。
一方、機械式時計は「記号」と「嗜好」を担う。会食、商談、式典、趣味の場面。役割が違うから、競合ではなく使い分けになる。
米国の高所得層の10代で、Apple Watchがロレックスを抜いて「最も人気のある時計ブランド」になったという調査結果が報告されている。若い世代にとって、Apple Watchは「時計」というカテゴリーの筆頭なのだ。
しかし、彼らが年齢を重ね、資産を築いたとき、機械式時計に手を伸ばすケースは少なくない。2026年の高級腕時計市場では、「初めて時計を購入する人々」が新しい購買動向を生み出している。彼らは自分らしさを表現するファッションアイテムとして、同時に長期的な投資として、高級時計を捉えている。
一般のサラリーマンにとって、数百万円の時計は「贅沢品」に見えるかもしれない。しかし、富裕層の視点は異なる。
高級時計を買う動機は、大きく5つに分類できる。
第1に、記号性。信頼と成功の証明だ。ビジネスの場で一瞬で伝わる。
第2に、嗜好品としての満足。工芸、機械、歴史への共感。
第3に、携帯できる価値の保存。現金や宝飾ほど露骨でなく、資産を分散できる。
第4に、コミュニティ通貨。同じ趣味の人間と会話が生まれる。
第5に、相続・記念品。モノとして残る。
これらは「時刻を知る」という機能とは無関係である。高級時計とは、時刻を超えた「時間」を買う行為なのだ。
■私が時計を買う理由
最後に、マーケッターとして、そして長年会社を経営してきた人間として、私自身の「時計論」を述べたい。
経営には波がある。良い年もあれば、そうでない年もある。ただ私は、良い決算が出た年には必ず、時計を1本、買うことにしている。
贅沢ではない。儀式である。
「良い時」を刻めた年に、翌年もまた「良い時」を刻むための相棒を迎える。その時計を見れば、あの年の決算が蘇る。苦労が蘇る。喜びが蘇る。
時計とは、過去の自分との対話であり、未来の自分への宣誓である。
スマートフォンは正確だ。だが、記憶がない。時計には記憶がある。傷の一つ一つに、物語がある。
だから時刻ではなく、時間を買う。
過去と現在と未来を、腕に巻く。それは、自分が生きた証――いや、生き抜いた証である。

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西田 理一郎(にしだ・りいちろう)

価値共創プロデューサー、ディープルート 代表取締役

富裕層向けブランド体験の「物語」を紡ぐナラティブ・マーケティングをプロデュース。また、情報伝達を超えた行動を仕組化し、個の全盛時代において、ラグジュアリー市場での持続的成長を実現する知の「価値共創」戦略を構築する。プレミアムブランドの世界観を体現する戦略的プラットフォームの商品化を手がけ、ミシュラン・ガストロノミーから超高級ライフスタイルまで、文化的価値を経済価値に転換するマーケティング、ブランディングを専門とする。「to create a Real LIFE 敏腕マーケターが示唆するこれからの真の生き方とは」「Life is a Journey」「食と文化の交差点 ガストロノミーへの飽くなき情熱」などのメディア掲載・連載を通じて真のラグジュアリーとは「所有」ではなく「体験」であり、その体験に宿る物語こそがブランド価値の源泉である――という信念のもと、富裕層マーケティングの新境地を開拓し続けている。主要著書に『予測感性マーケティング』(幻冬舎)、『アフターコロナ時代のトラベルトランスフォーメーション』(ゴマブックス)、『GRAND MICHELIN ミシュラン調査員のことば[特別編集版]』(アンドエト)がある。個人サイト

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(価値共創プロデューサー、ディープルート 代表取締役 西田 理一郎)
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