NHK大河「豊臣兄弟!」に信長(小栗旬)の重臣となる明智光秀(要潤)が登場。岐阜県内に2つある「あけち」の名前を冠した城を探訪した今泉慎一さんは「光秀の経歴は謎だらけ。
しかし、城を訪ねると、光秀が本能寺の変を起こした理由も分かるような気がした」という――。
■光秀はどこで生まれ育ったのか?
第6回:明知城(岐阜県恵那市)・明智城(岐阜県可児市)
2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」(NHK)では主人公として長谷川博己が演じた明智光秀。信長の重臣でもあり、豊臣兄弟の天下取りに立ち塞がるライバルでもある重要な役どころ。「豊臣兄弟!」では要潤が演じる。
「豊臣兄弟!」では、足利義昭(尾上左近)の使者として岐阜城を訪ねてくる光秀。義昭の家臣となって以降の経歴は比較的知られているが、それ以前、どこで何をしていたのか判然としない。光秀はどこで生まれ育ったのか。
出身地は美濃国東部という説が有力だ。平安時代末期に同地に土着した土岐氏の支流が明智氏で、その末裔が光秀だという。
土岐氏が土岐郡に土着し土岐氏を名乗ったように、地名はその一族を探す手掛かりになる。そう思って土岐氏美濃国東部、現在の岐阜県東部の地図を見ると、恵那市と可児市にそれぞれ「明智駅」がある。「それでは城は?」と探してみると、やはり「あけち」という名の城が両市にひとつづつ。
『麒麟がくる』放映時には、大河ドラマ館も恵那市、可児市それぞれに別々に存在していた。
明知城(図表1①岐阜県恵那市明智町城山1318-1)と明智城(図表1②岐阜県可児市瀬田1238-3)。いったいどちらが光秀ゆかりの城なのか。現地を探訪した。
■恵那市・明知城の堅城ぶり
まず、恵那市の明知城から見ていこう。別名・白鷹城とも称される。比高は80mとそれほどでもない。市街地から眺めると、なんの変哲もない小高い丘のように見える。
ただし実際に城内に足を踏み入れると、その印象は一変する。まず、城域の端をぐるりと横堀が張り巡らされている。現在は散策路にもなっている横堀はかなりの深さ。城の中枢部ははるか頭上だ。

さらに、横堀の外側にはV字に鋭く穿たれた畝状竪堀(うねじょうたてぼり)があらゆる場所にビッシリ。急斜面なだけでも登りづらい上に、凸凹の竪堀でさらに登攀(とうはん)を困難にしてあるのだ。
やっと登り切ったと思いきや、さらに横堀が立ちはだかる。この横堀、ところどころ折れを伴いながら、城の東西南北ぐるりと巡らせてある。つまり、どこから侵入しようとしてもこの横堀に絡め取られてしまう。まるで迷路のごとし。右へ? 左へ? さまよっているうちに討ち取られてしまう。
■深い谷間に「猿戻し」、鉄壁の守り
城内の南西端には大堀切。崖のように尾根をぶった斬ってある。地形的には南西側が比較的尾根伝いに登りやすそうなのだが、そこには大堀切。守りにぬかりはない。
一方で城内中心部は本丸、二ノ丸、出丸と、城内の主要な曲輪はいずれも広大な平地。
内部は大勢の兵が駐屯しやすく、外からの侵入は難しい。なかなかの堅城だといえる。
なお、本丸と出丸を繋ぐ尾根の片側は深い谷間で「猿戻し」という看板があり苦笑。にっくき秀吉を意識したものではもちろんない。「猿も登れずに引き返す絶壁」だそうだ。
■光秀はここで教養を身につけた?
明知城の一角に「万ヶ同天神神社」という小さな天神様がある。
天神様なので、御本尊は菅原道真公。現地案内板によると、光秀幼少時、京都の天龍寺から招いた学僧から学んだ学問所とも伝わっている。山の中腹にある八幡神社境内には、光秀手植えの楓や明知家の家紋入りの人麻呂神社も祀られている。
八王子神社に隣接して立つのが龍護寺(りょうごじ)。建立は1596(慶長元)年と既に光秀が世を去った後だが、それ以前から仏僧が住む草庵があったという。山門のすぐ脇に、光秀公供養塔が立つ。

この供養塔は斜めに大きくひび割れているが、これは光秀の悲痛な思いによるものだという。龍護寺には、光秀の直垂の布が縫い込まれた「九条衣」という寺宝も収蔵されており、毎年5月3日の光秀まつりで一般公開される。
明知城は、代々明智遠山氏の城だった。その戦国時代の当主・遠山景行が光秀の叔父で、兄(光秀の父)が亡くなった際、幼い光秀の後見を託されたとの説がある。ゆえにこの地で光秀は幼少期を過ごしたのだとも考えられているのだ。
■山城としては造りの甘い明智城
もうひとつの可児市の明智城は、木曽川と明智荘を見晴らす山城。こちらは明智長山城の異名を持つ。麓からの比高は80mと明知城と同様だが、こちらは横に長い屏風のような小山だ。
城の表玄関、大手門からの道は勾配はゆるい谷底道。登るほど狭まり、かつては両斜面ともに竪堀が掘られていたようだが、その痕跡はほとんどわからない。
尾根まで登ると二ノ丸曲輪で、ここから本丸曲輪まではほとんど平地。明知城に比べると削平が甘い。
曲輪の外周部には土塁もあるがごくわずか。
大手道ではなく「裏口」の搦手道はというと、こちらはやや構造的に工夫が見られる気がする。ただし荒々しく、人工的な加工だとわかる遺構はごくわずかだ。自然地形としてはそれなりに険しいが、明知城に比べると圧倒的に加工が甘い。その差は、実際に登ってみると歴然だ。
■昭和になって発見された遺物
搦手道の先には、乾曲輪という出丸がある。北側に半島のように突き出ているこの曲輪上に、小さな祠が立っていた。
「六親眷属(けんぞく)幽魂塔」とはこの縦長の石のことで、発見されたのは1973(昭和48)年と比較的最近。生えかけの筍のごとく、先端だけ地表からわずかに飛び出していたとか。
「六親眷属」とは、歴代の明智城城主・明智家とその一門のことを指す。地元民に愛された領主である一方で、謀反の末に討たれた逆賊を密かに慰霊するために、地中に隠しながら密かに手を合わせたのではないか(現地案内板より)。まるで隠れキリシタンが、観音像の中にマリア像を隠し祈りを捧げていたエピソードのような、実に興味深い話だ。

城の構造的にはやや技巧が足らず、知略に長けた光秀ゆかりの城らしさはないが、あくまで先代までの城だとすれば、さもありなん。この城は1556(弘治2)年9月、斎藤義龍に攻められ落城、城主だった光秀の叔父・光安は自刃している。この明智光安が、先に挙げた遠山影行と同一人物という説もある。
光秀の生年は諸説あるが、有力な説のうち最も遅い1528(享禄元)年だとしても、元服どころではなく、既に30歳間近。明智一族の一員として、このとき籠城していたとしてもおかしくない。
■明智家親族を見殺しにした信長
明智城の麓には、明智一族の菩提を弔う天龍寺もある。先の「六親眷属幽霊塔」とともに、明智家とこの地域との関係性を示す手掛かりといえる。すでに消失してしまっているが、麓の農地の一角に「明智光秀産湯の井戸」と伝わる井戸も、昭和40年代まで存在していた。
こうしてみてみると、光秀が生まれたのはやはり、可児市の明智城の城下と考える方が自然な気がする。幼少期に父が亡くなったため、叔父の遠山影行の元に預けられ、その居城である恵那市の明知城で育てられたのではないか。
そして大人になり、再び明智城へ帰還し、斎藤家との戦いに敗れ流浪を余儀なくされた。確固たる裏付けはないが、辻褄(つじつま)は合う。ふたつの「あけち城」で見てきたゆかりの史跡にも説明がつく。
■本能寺の変の動機がここに?
最後に、これも確固たる裏付けはないが、筆者の想像、いや妄想を記すことをお許しいただききたい。『明智軍記』によると、甥・光秀は明智家の再興を託され、落城寸前に密かに城を脱出したという。のちに仕える織田信長は、仇敵・斎藤家を討った男。御家再興を心に誓っていたとしたら。
まがりなりにも将軍である足利義昭から、当時は尾張・美濃の2国を支配するに過ぎなかった信長へと主君を変えたのも、合点がゆく。流浪の末、十数年ぶりに明智城へ帰還。
その頃、もうひとつの恵那の明知城は武田家との最前線だった。親族の地を守るべく、城を全面的に改修。あの凝りに凝った城の縄張には、もしや光秀の知恵も反映されているのではないか。
1574(天正2)年春、武田勝頼率いる2万の大軍が明知城へ攻め寄せてくる。城兵はわずか500。信長は3万の兵を率いて援軍に向かうも、武田軍の別働隊に退路を断たれそうになり撤退。そして城は落城し、光秀の親族達も落命する。
御家再興の恩人から、親族を見殺しにした非情の主君へ。この時から光秀の心には、やがて本能寺の変へと至る信長への恨みが、ふつふつと沸き上がっていったのではないか――。
あくまで歴史好き、城好きの「if」である。

----------

今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)

古城探訪家

1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。

----------

(古城探訪家 今泉 慎一)
編集部おすすめ