■ラーメン大賞で1位を取った埼玉・蕨の名店
東京都心から約30分。埼玉県のJR蕨駅から少し歩いた静かな住宅街に、行列を作る人気ラーメン店がある。
「麺屋 永太」。
その年の最もおいしいラーメンを決める「TRYラーメン大賞」の名店部門で、MIX部門、つけ麺濃厚部門でダブル1位を受賞した名店中の名店だ。
派手な看板もなければ、繁華街にあるわけでもない。それでも、昼のわずか4時間の営業に合わせて人が集まる。扉を開けると、カウンター越しに寡黙に一杯一杯を丁寧に作る店主の永松孝太郎さん(44)。その隣で、柔らかい目配りで店内を整える妻・文子さん。ふたりの呼吸が、この店のリズムをつくっている。
店に漂う空気は、どこか凛としている。誠実で、まじめ。
濃厚な豚骨スープの奥に、重層的に絡む魚介の旨味。派手さはないが、深い。奇抜ではないが、強い。
その味わいは、永松さんの性格そのもののようでもある。
■ラーメン屋を目指すきっかけとなった「一杯」
永松さんは1981年10月生まれ。地元・蕨で育った。
「ラーメン屋って、子どもの頃ほとんど行ったことなかったんですよ」
転機は浪人生活を送っていた18歳のころ。友人に連れられ、当時蕨にも支店があった名店「屯ちん」へ。そこで出会ったつけ麺に衝撃を受ける。
当時はまだつけ麺が全国的にはそれほどメジャーではなかった時代。猫舌だった彼にとって、麺を“つける”というスタイルは理にかなっていた。一気にラーメンの奥深さに魅了され、インターネットで有名なラーメン店を調べては予備校の合間に通う習慣ができた。その中で、後に永松さんが自身のラーメン店を開くきっかけとなったのが、当時高田馬場にあった「べんてん」(今は成増で営業中)での些細な出来事だった。
■数年ぶりなのに店主から「昔よく来てたよね」
予備校に通いながら、授業と授業の合間に1時間並ぶ。単語帳を手に、現実逃避のように列に立つ。
黙って食べ、黙って帰る。ただそれだけの一人の客だった。
一時は毎週のように通ったべんてんだったが、その後晴れて大学に入学し、全国チェーンのラーメン店への就職で東京を離れると、次第に足は遠のいた。
しかし、2009年、数年ぶりに店に訪れたとき、これまで一度も話したことのなかった店主に声をかけられる。
「昔よく来てたよね」
その一言が、胸を撃ち抜いた。
「覚えてもらってたんですよ。一度もしゃべったこともないのに」
味だけではない。一人ひとりのお客さんの存在を覚えているということ。その時の感動が、彼の進路を決定づけた。閉店まで待ち、「働かせてください」と頭を下げた。一度は断られたが、食い下がった。
新卒で入ったラーメンチェーンは、同じラーメン業界でも大量調理の精度とスピードが求められる世界だ。
レードルで均一にスープを量るなど、現場の基本的な技術こそ身に付いたが「このままでは自分の求める味には辿り着けない」という思いも募っていた。その場で退職を決意し、2009年12月、念願の暖簾の内側へ入った。
■貯金1000万円を使い切り、地元に店を構えた
「べんてん」での約4年。厳しい空気の中で学んだのは、技術以上に“姿勢”だった。
「『昔よく来てたよね』って一言。あれが嬉しかった。だから自分も、顔を見てラーメンを出したい」
毎日同じように仕込みをし、同じように味を整える。その反復の中で、ほんのわずかな改良を積み重ねる。大きく変えない勇気と、変え続ける執念。その両立が、やがて「永太」の礎になっていく。
2013年8月に「べんてん」を卒業。翌年5月、貯金約1000万円をほぼ全額使いきって、自身のルーツのある蕨に「永太」をオープンさせた。

「不安な顔してたよって、母に言われました」
プレ営業から想定を超える行列。だが秋には客足が落ち着く。
「2時間お客さん来ないとか、ありましたね」
それでも1日単位で赤字を出したことはない。限定メニューを出し、燻製味玉を試し、地道に地元に根を張った。
■閉店後に訪れた妻・文子さんとの出会い
独立後の日々は慌ただしく過ぎ、結婚はおろか、恋人を作る余裕すらなかった。
そんなある開業2年目の冬。土曜日の閉店後、母の知人が女性を連れてきた。
「もう終わりなんですけど……」
帰ってもらおうとしたが、「お母さんの紹介で」と言われ、片付けの手を止めてラーメンを出した。その女性が後に妻となる文子さんだった。
食事を重ねるうちに距離は縮まり、交際が始まった。喋っているととにかく自分とリズムの合う文子さんに「この人しかいない」と確信し、2018年に結婚した。文子さんは当時を振り返る。

「はじめは夫と夫の両親のサポートとしてお店を手伝っていたので、“ラーメン屋の女将”になる覚悟のようなものはなかったです。不安もなく、ただ自分にできることを精一杯やるだけというのは昔も今も変わらないですね」
特別な決意よりも、目の前のことを丁寧に。その積み重ねが、いつしか店を支える柱になっていた。
文子さんは元バリスタ。接客、洗い場、やがて調理補助まで担う。
「妻はタイマーが鳴る前に麺が茹で上がるのがわかるんですよ」
■コロナ禍に減らした席数はそのまま、お客のゆとりを優先
茹で時間が3通りある麺を操る現場で、阿吽の呼吸が生まれる。
もともと、一般的なラーメン店より席の間隔は余裕を持って設計していたが、コロナ禍に8席から6席に減らし、ゆとりを優先した。コロナが明けても席は6席のままにした。これは2人で話し合って決めた。席を減らしても回転がそれほど変わらなかったこともあり、それならお客さんにゆったり座ってもらったほうがいいという判断だった。
「自分の作ったラーメンを並んででも食べたいと思ってもらえたことへの嬉しさや、感謝の気持ちを持っていれば、お客様を大事にするのは当然のことだと思っています。過度な接客はできませんが、お客様一人ひとりと向き合うことを心掛けています。
特にリピートしてくださる方は、並んでも“また”食べたいと思っていただけたということ。こんなに嬉しいことはありません」
■家庭との両立のために夜→昼営業にシフト
2024年8月には長女が誕生。半年間の産休を経て、夜営業をやめ、昼4時間営業へのシフトを決断した。
もともと夜型だった永松さんだが、家庭との両立を考えての決断だった。文子さんは母になったことで、店を見る目も変わったという。
「子供が生まれて、お子様連れで来てくださるお客様の気持ちが少しわかるようになったことが嬉しいですね。子育ては嬉しいこと、楽しいことが沢山ありますが、大変なことも多く、うちのラーメンを食べて明日への活力に、家族の楽しい思い出にしていただけたら幸せですね」
子どもを連れての外食は、楽しみと同時に緊張もある。だからこそ、この店での一杯が、家族にとって優しい記憶になればいい。そう願いながら、彼女は今日も客席に目を配る。
近年は「永太」もラーメンの原材料高騰に苦しむ。チャーシュー用の豚肉の価格はこの十数年で倍以上。それでも質は落とさない。
「仕入れ業者に頼らず、困った時は自分でスーパーに行って安い日にまとめ買いをしてやりくりしています」
地に足のついた努力だ。
味は大きく変えない。ただ、日々微調整を重ねる。ラーメンのコクも、つけ麺の濃度も、ほんのわずかな差異を見逃さない。
「無理はしない。でも、絶対手は抜かない」
お店を休む時は事前にしっかり予定してから休んで、臨時休業は十数年間一度もない。夏と年末年始以外は、仕込みが生活そのものだ。
■お客への誠実さと家族への想いが溶け込んだ一杯
「お久しぶりですね」
そう声をかけることがある。かつて自分が救われたように、お客の存在を覚えていたいからだ。
文子さんは、最後にこう語る。
「夫は本当に職人気質です。どうやって工夫したらさらにおいしいラーメンを作れるかを常に考え続けているのはすごいことだと思います。そんなことは当たり前だと言われるかもしれませんが、夫はその“当たり前”の基準が高いと感じます。毎日必ずお店で仕込みをしていて、人生でこんなに働いてもあまり弱音を吐かない人に出会ったことがないです。
一人で一つひとつ丁寧に作っている分、今の時代らしくない、タイパがいいとはいえないうちの店に何度も足を運んでくださるお客様には感謝の気持ちでいっぱいです。夫もつい嬉しい気持ちを伝えたいのでしょう。作っている人と食べる人が向き合える環境はとても素敵なことだと思います」
“当たり前”の基準が高いこと。それは才能ではなく、覚悟に近い。
「永太」の一杯に、積み重ねた日々が映る。その味は、誠実さと職人気質と、家族への想いが溶け込んだものだ。
蕨の小さな店で、今日もまた一杯が生まれる。それは永松孝太郎さんと文子さんが、互いを信じ、家族を守り、客の記憶を大切にしてきた時間の結晶なのである。

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井手隊長(いでたいちょう)

ラーメンライター、ミュージシャン

全国47都道府県のラーメンを食べ歩くラーメンライター。メディア出演、ラーメンの商品監修など多方面で活躍中。ラーメンの「1000円の壁」問題や「町中華の衰退事情」など、ラーメン業界をめぐる現状を精力的に取材。「羽鳥慎一モーニングショー」(テレビ朝日)「ABEMA的ニュースショー」(TBS)などテレビ出演も多数。本の要約サービス「フライヤー」執行役員、「読者が選ぶビジネス書グランプリ」事務局長も務める。著書に『できる人だけが知っている「ここだけの話」を聞く技術』(秀和システム新社)、『ラーメン一杯いくらが正解なのか』(早川書房)がある。

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(ラーメンライター、ミュージシャン 井手隊長)
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