親子で意見が分かれたときはどうすればいいのか。スクールカウンセラーの藪下遊さんは「学童期前半の年齢(6~9歳前後)になってくると、学校という社会に入って外界と調和することが大切になってくる。
家庭でも子どもにばかり従うのではなく、親子で意見をすり合わせる練習をするとよい」という――。
※本稿は、藪下遊『スクールカウンセラーは何を見ているのか』(ちくまプリマー新書)の一部を再編集したものです。
■学校という社会に入っていく
小学校の6~12歳くらいまでを「学童期」と呼びます。ここでは学童期前半の年齢(6~9歳前後)の「こころの発達」についてお話していきます。この年齢では、学校社会に入っていくという大きな変化がありますね。
学校という社会に入っていくことは子どもにとって大変ですが、それまでの経験の偏りが調整されるチャンスでもあります。我が家の例でいうと、息子はトマトが好きなため、どうしても家庭内で出す野菜はトマトが多くなってしまいます。しかし、学校の給食ではトマトばかり出るわけではありませんよね。つまり、学校の給食を経験することによって、「食事のときはトマトが出ることが多いだろう」という無自覚に染みついている偏った認識を調整することができるのです。
家庭では子どもに合わせた対応がしやすいものですし、それは悪いことではありません。
しかし、当たり前になっているが故に、子どもは「社会と乖離(かいり)していること」に気づけません。だからこそ、外の世界(学校)での体験を通して、「今までは当たり前だと思っていた偏り」を調整していくことが大切になるわけです。
このようにして、子どもたちは本格的に「外の世界」を知ることになるのです。
■「給食が怖い」と登校しぶりに
【事例:登校渋りが続出した小学校】
ある小学校で、入学したばかりの一年生数名が「給食が怖い」と言い、登校を渋るようになった。担任は、苦手なものを減らしたり残したりすることは認めており、厳しい給食指導も行っていない。登校を渋っている数名は同じこども園出身であり、そのこども園では給食をビュッフェ形式(好きなものだけを好きな量だけ食べる)にしていたという。

こども園での経験によって、子どもたちは「給食は好きなものだけを好きな量取って食べるのが普通」という認識があったと考えられます。「食べたくないものは目の前にも置かない」のが当たり前だった子どもたちにとって、一時的とはいえ苦手なものが目の前にやってくる小学校の給食に怖さを感じてしまったのでしょう。この予測を親や教員と話し合い、給食時の声掛け、家庭での給食の捉え方・伝え方を調整することで、事例の子どもたちは問題なく学校に通えるようになっています。この年齢の子どもたちにスクールカウンセラーとして支援していくときには、今までの世界と学校との「段差」を意識し、そこを調整していくことが必要な場合があるのです。
とは言え、事例のこども園のように「これから子どもたちが出合う現実」を考慮しないやり方は困ったものです。今までの場所と新しい場所の「段差」があまりに大きいと、偏りの調整が大変になってしまいます。ビュッフェ形式ならこども園での給食は楽だったでしょうが、そのツケを払うのは「子ども自身」や「次の場所で子どもと関わる人」になることを忘れてはいけません。
■大切なのは「外界との調和」
多くの子どもが一緒に過ごす学校にはルールがあるので「全部自分の思う通り」とはいかず、多少なりとも「外界との調和」が求められます。
ただ、それは単に「ルールだから守るべき」という話ではなく、この年齢の子どもの「こころの発達」に関連する課題なのです。
小学校入学前の遊びは「集まっても別々のことをしている」という未熟な段階なので「外界との調和」は強く求められませんが、小学校入学後の発達段階になると集団で協同的に遊ぶようになります。すると、ルールに従わなければならないし、折り合わなければならないし、競争の結果、負けることも覚悟しなければなりません。アメリカの精神科医ハリー・スタック・サリヴァンが学童期の子どもの課題として「協力、妥協、競争」を挙げているのは、こうした事情があってのことです。
ここでルールを自分本位に曲げる、負けを認めないなど「全部自分の思う通り」にしていては、子ども同士で遊べなくなります。小学校からは遊びや人間関係の発達という観点からも、子どもが自分の欲求に手綱を付けて「外界と調和すること」が大切になってくるのです。
ただ、困ったことに「外界との調和」という言葉は、ガマンや自己犠牲と混同されやすいようです。しかし、これらはまったく別物なので詳しく説明しておきましょう。
■大人の言いなりも子供の言いなりもNG
昭和の子育てイメージは「子どもは親の言うことを聞け!」という感じだったと思います。
一方で近年は、上で述べたような「親が子どもの言うとおりにしてあげる」というパターンを目にするようになりました。この二つは対象が入れ替わっているだけで「誰かの思い通りにする」という点では同じです。実は、こうした関わりがガマンや自己犠牲を生んでしまうのです。

「言うことを聞け!」と大人の考えを押し付けられ、反発すらできなければ、それはガマンや自己犠牲になるでしょう。また、思う通りに現実を変えてもらってきた子どもからすれば、学童期の大切な課題である「協力、妥協、競争」でさえガマンや自己犠牲と感じられることでしょう。すなわち、「身勝手な押しつけ」をしたりされたりしてきた子どもは、人間関係においてガマンや自己犠牲を敏感に感じやすいのです。
■家族の外食では誰が店を決めるのか
一方で、「外界との調和」を目指した子育てのイメージは以下のようなものになります。
たとえば、外食時に子どもの行きたいお店ばかりに行くのではなく、たまには親の行きたいお店を選択するということがあると思います(あった方が良いです)。このような機会に、親子で話し合いながら意見をすり合わせる経験が子どもにとって大切です。具体的には、「この前は○○(子ども)の行きたいお店に行ったから、今日はお母さんの行きたいところにしよう」と伝えたり、子どもが不満を示したとしても「家族だから順番にしようね」とやり取りで子どもの気持ちを納めていくのです。加えて、子どもが本意ではなくても協力したことに「あなたのおかげでお母さんは楽しめたよ」などと感謝の意を伝えつつ、子どもが気持ちを調整したことにも理解を向けるのです。
こうしたやり取りを通して、子どもが「自分のおかげで家族がうまく機能している」と感じられたら、この体験はガマンや自己犠牲にはならず、自分の価値を高めるものになります。
これが「外界との調和」です。心理学者のアドラーは、自らの貢献によって「自分が共同体にとって有益な存在だ」と感じられるときにこそ、自らの価値を実感できるとしています。
「外界との調和」は本来、自分の価値を高め、支えをもたらす体験なのです。

■ドラえもんが伝えてくれていること
このような「外界との調和」や、それに伴う「欲求のコントロール」の大切さを伝え続けてくれているのが「ドラえもん」です。
ドラえもんのひみつ道具というのは基本的に「万能」です。しかし、ドラえもんを観(み)た多くの人が、ひみつ道具を乱用したり、独り占めしたりすることで、ひみつ道具を使わない方が良かったぐらいの悲惨な状況になってしまうという「オチ」を知っていると思います。
精神科医の中井久夫は、このドラえもんの構造を「現実原則を教えている」としています。
現実原則とは、現実的な状況や社会規範に合致した行動をとろうとする「こころの動き」であり、自分の思うままに欲求を満たそうとする「快楽原則」と対になる概念です。つまり、ドラえもんの「オチ」には、子どもに「欲求の赴くままに振る舞う=快楽原則で生きる」というのは最終的に損だというメッセージが含まれているのです。
加えて、ドラえもんではひみつ道具を調和的に使うことで、平和的な結末に至る「オチ」も用意されています。欲求をコントロールし、周囲と調和的に振る舞うことの重要性が描かれているわけですね。ドラえもんの登場人物は小学校四年生という設定ですが、そのくらいの年齢には達成しつつあってほしい「こころの発達」と言えるでしょう。
■揉めがちな修学旅行の班決め
欲求に手綱を付けて「外界との調和」をしていくことに加え、学校だからこそ身につけられる「こころの発達」があります。それが「自由の相互承認」です。説明のため、最近の学校でよくある光景を紹介しましょう。

【事例:小学校六年生の担任の嘆き】
小学校六年生のクラスの担任が、「修学旅行の班決めが進まない」とスクールカウンセラーにため息交じりに話す。何人かの児童が「○○ちゃんと同じ班じゃないと修学旅行に行けない」「バスの隣は××さんじゃなきゃイヤだ」などと主張を繰り返しているという。

ドイツの哲学者ヘーゲルは「お互いに自由がある」という状況で大切なのは、ひとまず「他者にも自由があるという事実を認める」ことだと主張しました。自分は自由を求めているが、他者も同じく求めているので、互いの自由をすり合わせて調整していくということが大切であるという考え方で「自由の相互承認」と呼ばれています。互いの自由をすり合わせることなく「剝(む)き出しの自由」を他者に押し付ければ、さまざまな争いになります。先ほどの事例は、「剝き出しの自由」によって生じる争いの典型的なものです。
■他者を他者として認める
学童期前半の未熟な子どもは「外界との調和」がうまくいかず、どうしてもいさかいになってしまいます。このとき、教員などの大人がいさかいの仲裁に入りますが、これは仲良くすることを強制しているのではありません。本質としては「他者にも自由があるから、それをすり合わせましょうね」という「自由の相互承認」への誘いを行っているのです。こうしたぶつかり合い、すり合わせの実体験を通して、子どもたちは「自由の相互承認」の感覚を身体に刻み込んでいるのです。
「自由の相互承認」の感覚が根付くことで、子どもたちは「他者を他者として認める」ことがしやすくなります。他者が自分と違う考えを持っていても、好きになれなくても、自分や他者の自由を侵害していない限りは「他者の存在」を承認する。
これは社会を成り立たせ、そこで生きていくために欠かせないことです。教育哲学者の苫野(とまの)一徳(いっとく)は、子どもたちに「自由の相互承認」の感度を育み、「自由の相互承認」を原理とした社会を実質化していくことが教育の担う使命であると述べています。

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藪下 遊(やぶした・ゆう)

スクールカウンセラー

1982年生まれ。仁愛大学大学院人間学研究科修了。東亜大学大学院総合学術研究科中退。博士(臨床心理学)。仁愛大学人間学部助手、東亜大学大学院人間学研究科准教授等を経て、現在は福井県スクールカウンセラーおよび石川県スクールカウンセラー、各市でのいじめ第三者委員会等を務める。共著に『「叱らない」が子どもを苦しめる』(ちくまプリマー新書)がある。3月10日に『スクールカウンセラーは何を見ているのか』(ちくまプリマー新書)が発売予定。

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(スクールカウンセラー 藪下 遊)
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