※3月13日以後の放送回のネタバレを含む可能性があります。
■頬がこけた錦織(吉沢亮)はどうなるのか
やはり吉沢亮は、たいした役者である。NHK連続テレビ小説「ばけばけ」は、第20週「アンタ、ガタ、ドコサ。」(2月16日~20日放送)から熊本での新生活に移り、吉沢が演じる錦織は松江に残ったため、画面から姿を消した。これに対し、視聴者からは「錦織ロス」のボヤキが聞かれるようになり、視聴率も若干下がった。
しかし、第23週(3月9日~13日放送)は、サブタイトルもストレートに「ゴブサタ、ニシコオリサン。」で、錦織が再登場した。レフカダ・ヘブン(トミー・バストウ)は長男が生まれたのを機に、帰化してトキ(髙石あかり)と入籍することを決意。入籍手続きはトキの本籍地である松江で行う必要があるため、錦織に協力を求めるのである。
ところが、錦織はあまり協力的ではない。むしろ、ヘブンが「日本人にならないほうがいいと思っている」と言って、協力を躊躇する。ただ、これには裏があった。ヘブンがただ家族の幸せだけを願って入籍し、作家としてモチベーションを失ったりしないように、錦織はあえて焚きつけたのだ。
ともかく、こうして錦織は、頼まれた以上の役割を果たすわけだが、第23週の最初の回に気になる場面があった。以前より頬がこけたように見える錦織は、咳を押さえた際に血がついた手のひらを見つめ、しばらく考え込むのだった。
■史実でも「大磐石」と呼ばれた秀才
錦織のモデルは西田千太郎という。ハーンの13歳年下で、成績が際立って優秀だったので「大磐石」と呼ばれたのは、「ばけばけ」の錦織と同じである。松江中学(のちの島根県尋常中学校)ではずっと首位で、経済的事情から同校の中退を余儀なくされたが、それなのに学校から請われて授業手伝、つづいて教諭試補になっている。よほど優秀だったということだ。
その後、依願退職して上京し、アメリカ人やイギリス人から英語を学び、心理学や論理学、地学や哲学も一部は独学で習得し、明治19年(1886)には文部省中学校教員の検定試験に心理学、論理学、経済学、教育学の各分野で合格。兵庫県や香川県で教えたのち、母校から請われて、英語のほか全教科を教えることになった。
大学を出ていないので校長にはなれなかったが、「ばけばけ」の錦織のように、教員資格すらないわけではなかった。
ハーンが同中学校に英語教師として赴任したときは教頭で、以後、学校でハーンが困らないように、あらゆる面で便宜を図ってくれたのも、通訳をはじめ日常生活のすみずみまで助けてくれたのも西田だった。それこそ、松江での一人暮らしに不自由したハーンが、住み込みの女中を探してくれないかと頼んだ相手も西田だった。
■ドラマ以上に2人の距離は近かった
「ばけばけ」の錦織は、西田をモデルにしてはいるが、西田そのものではない。
1つは、ハーンと西田の関係は、「ばけばけ」のヘブンと錦織以上に近くて深く、たとえ物理的に距離が離れようと、密に連絡を取り合っていたということ。もう1つは、「ばけばけ」では錦織の「病状」が描かれない、ということだった。
ハーンの長男の一雄は、著書『父小泉八雲』に西田のことを、「父が最も信頼した、日本人中第一の友」だったと書いている。実際、ハーンの大事な場面にはいつも西田がいて、そうでないときは手紙で報告し合った。
ハーンとセツが結婚を決心し、杵築大社(現・出雲大社)で神前に誓ったときも、そもそもはハーンと西田が逗留していて、そこにセツが加わったのだった。
熊本に転居したハーンが、「熊本は大嫌いだ」と愚痴を送った先は西田だった。長男の一雄が発した最初の言葉が「パパ」だったとのろけた相手も西田だった。日本に帰化する決心をした際、真っ先に手紙で伝えた相手も西田だった。ハーンがいざ入籍と帰化の手続きを進めるにあたり、さまざまに仲立ちしたのも西田だった。
「ばけばけ」では、ヘブンが日本国籍を取得する決心をしたとき、熊本で書生としてヘブン邸に居候している錦織の弟の丈(杉田雷麟)が、兄に手紙で協力を求める。だが、ハーンは第三者にそんなことを頼まずとも、自分自身が西田と密に連絡をとっていた。
■患っていたのは結核
そしてもうひとつ、「ばけばけ」の錦織は見せなかった「病状」である。
前述のように、第23週でようやくそういう姿が映されたが、モデルの西田は、かなり早い時期から結核を患っていた。梶谷泰之『へるん先生生活記』には、ハーンが明治23年(1890)9月、島根県尋常中学校に着任して最初の講演のとき、西田が止血剤や注射で喀血を防ぎながら通訳を務めた旨が書かれている。
また、明治24年(1891)になって、ちょうどセツがハーンのもとで住み込み女中を務めるようになる直前のこと。『西田千太郎日記』によれば、1月27日から2月11日まで、西田は結核の熱と咳のために学校を欠席し、ハーンが連日のように見舞っている。
西田のハーンとの距離について、また西田の病気について、セツが端的に語っている。それはハーンの死後にセツが口述し、筆記された『思ひ出の記』に記されている。少し長いが引用したい。
■西田と過ごした最後の時間
「中学の教頭の西田と申す方に大層お世話になりました。二人は互いに好き合って非常に親密になりました。ヘルンは西田さんを全く信用してほめていました。『利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません、私の悪い事、皆いってくれます。
明治29年(1896)2月、ハーンの帰化およびセツとの入籍の手続きが終わると、ハーン改め小泉八雲は、9月から東京の帝国大学に採用されることになった。そして、6月末から東京に転居するまで、八雲夫妻は、長男の一雄とセツの義母の稲垣トミ(「ばけばけ」で池脇千鶴が演じるフミのモデル)を連れて出雲に帰省し、2カ月にわたって滞在した。
このときも西田は、ハーンらが滞在する旅館に足しげく通い、ハーンと宴席をともにし、セツはあらためて西田宅を訪れて、あいさつや礼を述べている。出雲滞在の最後の1週間は、ハーンとセツが結婚を誓った記念すべき杵築ですごし、そこに西田も合流している。だが、それがハーンにとって、西田とすごした最後の時間になった。
■両親、妻、4人の子どもを遺して
それから8カ月しか経たない明治30年(1897)3月15日、両親に妻、そして11歳の長女から2歳の三男まで4人の子どもをこの世に遺し、西田は旅立った。まだ34歳にすぎなかった。
ハーンは悲しみのどん底に突き落とされた。
「亡くなった後までも(ハーンは)『今日途中で、西田さんの後姿見ました、私の車急がせました、あの人、西田さんそっくりでした』などと話した事があります。似ていたのでなつかしかったといっていました。早稲田大学に参りました時、高田さんが、どこか西田さんに似ているといって、大層喜んでいました」
ハーンにとっての「西田ロス」が、視聴者にとっての「錦織ロス」などまったく比較にならないほどつらく苦しいものだったことは、言うまでもない。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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