NHK「豊臣兄弟!」では、美濃攻略を狙う織田信長と斎藤龍興の争いが描かれている。史実の龍興は、どのような人物だったのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献などからひも解く――。
■“序盤のラスボス”的存在の「斎藤龍興」
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、藤吉郎(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀)の立身出世の第一歩となる美濃攻略が続いている。既に3月、この時点で美濃攻略だと、まだまだ長い兄弟の出世道がどのようなテンポで描かれていくのかが気になるところだ。
この美濃攻略においてラスボスとなるのが斎藤龍興(濱田龍臣)だ。濱田は2017年に「ウルトラマンジード」で主演に抜擢されて以来注目されている。彼が演じる龍興は家臣である美濃三人衆を「目障りな織田の者どもを、さっさと蹴散らして参れ‼」と叱責したりと(第8回)、兄弟や信長に比べると、能力的に見劣りする感じがある。
実に、これまで多くの作品で戦国時代に触れてきた人がイメージする斎藤龍興は、序盤のボスみたいなもの。「ドラゴンクエスト」でいえば、ローラ姫を助ける時に出現する沼地の洞窟のドラゴン。「機動戦士ガンダム」でいえば、ガルマ・ザビみたいな扱いである。ようは信長や秀吉が出世街道を進むための賑やかしとなる存在である。
とにかく歴史上、斎藤龍興はそうした存在として、序盤で攻め滅ぼされて当然の存在として弄ばれてきた。
例えば明治時代に出版された『絵本太閤記』では、こう書かれている。

(龍興は)兵足国強しも、不道として国乱れ織田の寸謀とて稲葉、安藤、氏家の三老臣も信長の味方に属す。(伴源平 編『絵本太閤記稚話 2編』赤志忠七、1883年)
■龍興の評価は変わっていない
時代が下っても評価は変わらず、信長や秀吉を扱う子供の伝記でも扱いは同じだ。例えばポプラ社版の世界伝記全集では墨俣一夜城のエピソードで、こんな記述が。
「してやられたか」稲葉山の斎藤龍興は、じだんだをふんで、くやしがりましたが、まにあいません。(世界伝記全集『織田信長』ポプラ社、1966年)
単なる間抜けなバカ殿様扱いである。こうした評価は子供向けの書籍以外でも変わらない。『織田信長と乱世の群像 戦国百人一話』という歴史系雑学本では、龍興を「忠臣の深謀遠慮をわからなかった男」として、こう記している。
もし龍興に人を見る目、せめて半兵衛の才能を見抜くだけの器量があれば、落ちぶれた最後を迎えなくてもよかったかも知れない。(『織田信長と乱世の群像 戦国百人一話』勁文社、1994年)
ここからは、1883年(明治)→1966年(高度成長期)→1994年(バブル後)と、時代が変わっても龍興の評価は固定されたまま「誰も疑わなかった」ことがよくわかる。
しかも、時代によって批判の仕方は全く違う。明治の絵本太閤記は「不道」=徳がないという儒教的断罪だ。ポプラ社版は「じだんだをふんで」という完全な道化キャラ。
勁文社の雑学本は「人を見る目がなかった」という能力批判になっている。
■“間抜けに倒される愚将”と描かれてきたが…
とにかく龍興は、時代を超えて、今川義元に続いてヒーローである信長や秀吉のために、間抜けに倒される愚将として再生産されてきたというわけである。
この流れが変わってきたのは21世紀に入ってから。おそらくもっとも再評価のきっかけを与えたのは宮下英樹のマンガ『センゴク』であろう。後半は歴史資料を駆使した硬派な作風となった作品だが、前半から登場する龍興は、稲葉山城を追われた後に突如覚醒、謀略家として暗躍し信長を苦しめ続ける強敵として描かれている。
これ自体はフィクションなのだが、この作品が「龍興もそんな愚将ではないのでは?」と読者が一歩立ち止まる機会を与えたのは間違いない。
実際、生涯をみると龍興は愚将とは言い難い。なにしろ、父の義龍が急死し家督を継いだのは14歳である。この年齢で家督を継いで家中をまとめるのはなかなかの困難。しかも、義龍が病死間近という情報を得た信長は、いきなり美濃に侵攻を始めている。
企業経営に置き換えるとこうだ。創業者の祖父(道三)が作り上げた会社を、父(義龍)が34歳で急死したために14歳で引き継いだ。
しかも父の死の情報をキャッチした競合他社(信長)が、葬儀も終わらないうちに市場を奪いに動き出した。
■“組織”の内情はグチャグチャ
しかも、この会社は三代続いたとはいえ内情はグチャグチャだ。だいたい、創業社長は息子にクーデターを起こされ、殺されたようなもの。
そもそも、創業社長も強引に顧客を奪ったり合併を繰り返して大きくなったから、社内に派閥はあるし、機会があれば顧客名簿を持ち出して独立を企む役員が何人もいる。そこに、14歳の息子が「え~父が亡くなったので、ボクが後を継ぐことになりました……」と挨拶しているわけである。
とはいっても、会社なのだから存続するために若い後継ぎをサポートするだろうなんて考えは甘い。お気楽な令和の発想だ。現代社会でも、カリスマ社長が急死した途端に会社が潰れるケースは珍しくない。戦国時代であればなおさらだ。
だいたい三代続いたところで家中の気質はずっとベンチャー。だから「今こそチャンス‼」と部下に声をかけて独立を画策する者。あるいはライバル企業に転職を考える者。
はたまた、社長を交代させて乗っ取りを企む者まで。役員会も荒れて社内の空気も最悪。あっちこっちで社員が「俺も辞めようかな~」なんて声も聞こえてくるような中で、資本力で乗っ取りに来たのが織田産業。それも、弱り目に付け込むハゲタカファンドのように……。
ともすれば、明日にも滅亡する最初の危機を、弱冠14歳の龍興はなんとか乗り越えている。
■“実力なき若い殿様”に頭を下げる理由がない
1561年5月11日に義龍が死去した報を得た信長は、直ちに木曽川を越えて西美濃に侵攻。森部(岐阜県安八町森部薬師堂の長良川畔)で斎藤軍と衝突し、斎藤家の六家老のうち長井甲斐守・日比野下野守を討ち取り、稲葉山城近くまで迫って民家などに放火した後に引き上げている。信長側も同族の織田越中守が戦死したともあるし、信長も美濃攻略には時期尚早と判断したようだ。家老が二人も戦死するとなれば大損害だが、それでもなんとか最初の危機は脱出できたのである(松田亮『信長の美濃攻略史研究』新美濃史学会、1976年)。
ただ、いかに龍興に能力があろうとも、家中を支配するのは困難だった。
というのも、初代・道三に従うには理由がある。美濃統一を成し遂げ実力を示して諸将を畏怖させたからだ。
その道三を敗死させた義龍も同様だ。ようは勝てる実力と、勝てるための軍を組織できるだけの能力を知らしめている。そういうものが、龍興にはまったくない。攻め込んできた信長に対しては引き上げさせただけで、別に真正面からぶつかって勝利を成し遂げたわけではない。
これでは、美濃の諸将にしてみれば、単に後を継いだだけでなんら実力も披露していない若い殿様に頭を下げる理由が無いも同然だ。その後、1563年にも龍興は再度侵攻してきた信長を撃退しているが、この時も活躍したのは半兵衛とされる。
つまり諸将の目には「殿が勝ったのではなく、半兵衛が勝った」と映ったわけである。まだ若い、かつ三代目の龍興は多少ズルくても手柄を自分のものにして「俺が勝った」「俺の采配で勝った」と知らしめることができなかったのだ。
■冷酷に実利を取ることができなかったか
同じ「三代目」でも、権威確立に成功した例がある。徳川三代将軍・家光だ。家光は「余は生まれながらの将軍である」と宣言し、大名を江戸に集めて「我に従う者は残れ、従わぬ者は国に帰って戦の準備をせよ」と言い放った。つまり三代目であることを逆手に取って、自分が新しい秩序の起点だと再定義したわけだ。

龍興にはこれができなかった。
14歳という年齢的限界なのか、道三・義龍と続いた下剋上の家風を龍興だけが持っていなかったのか。むしろ龍興は祖父や父と違って、正統な後継者として育てられた分、冷酷に実利を取ることができなかった可能性もある。確かに現代でも「アレは、私の仕事なんですよ~」とかいう人はいるけど、それを堂々とやりきれるのは、一種の特殊能力である。
さて、1563年の信長との激突も、発端は龍興の求心力の問題から起きている。この年、家臣の山岸光信は、墨俣を奪取して対信長戦で優位に立つ軍略を上申している。しかし、龍興はこれを用いなかった。これに西美濃の諸将は反発、あろうことか居城に戻り引きこもってしまった。これをみて信長は出兵したのだが、そうすると今度は龍興のために出兵する武将も現れてなんとか撃退できたという流れである(松田亮『信長の美濃攻略史研究』新美濃史学会、1976年)。
采配を振るえない若社長に、ベテラン社員が「俺の案を使え」と上申する。却下されたら「じゃあ知らん」と有給消化して出社拒否。そしたら競合他社が動き出したので「しょうがねえな」と渋々出てくる。
現代の会社なら即・人事部案件である。
■稲葉山城を失っても、信長に抗い続けた
ベテランの上申を採用しなかっただけで職場放棄。しぶしぶ従うにしても「やっぱり若造には無理」と足元をみている。周囲にいるのは、こんな家臣ばかり。よくもまあ、こんな組織を6年も維持できたものだ。その時点で龍興は天才だ。
そして、その真価が光るのは稲葉山城を失ってからだ。面倒くさい家臣を気にしなくてよくなった龍興は、のびのびと信長に抗い続けるのである。
本当に凡将ならば、ここは信長に「すみませんでした」と頭を下げて、家臣の一団に加えてもらう手もあっただろう。実際、西美濃三人衆をはじめ、かつての龍興の家臣たちはそうした。信長政権下で重用され、それなりの地位を得ている。
しかし、龍興はそうしなかった。
曲がりなりにも三代目の後継ぎである。内紛で会社が崩れたとはいえ、乗っ取りにきた新興スタートアップに与するのは、理屈ではよくても感情が追いつかない。なによりも「筋が通らない」。大義だけが問題ではない。そもそも、負けを認めたら、自分が何者かわからなくなる。これは古今東西変わらない不文律。降伏するのが恥なのではない。だからフサインはカルバラーでウマイヤ朝に屈しなかったし、コンスタンティノス11世はオスマン帝国に降らない。
これと同じ構造で、龍興は「そりゃあ、筋が通らないだろ」と言い切るしかない。降伏すれば生き延びるための手段が、生き延びる理由を消してしまうのだ。ゆえに信長と戦い続けるしか選択肢はない。トランプ大統領みたいに「ディール」で解決する選択肢などないのだ。
■「負けた三代目」を武器にする巧妙さ
稲葉山城を追われた後、龍興は連携先を次々と変えながら美濃奪還を諦めなかった。三好三人衆、本願寺、そして朝倉へ……いわば資本提携を繰り返しながら再起を図り続けたのだ。
そして1573年、刀根坂の戦いで朝倉軍とともに織田軍の猛追を受け、26歳で戦死したのである。
稲葉山城を失ってから、実に6年。その間、一度も「負けました」と言わなかった。
これは優秀じゃないとできない芸当だ。なにせ、領国も城も失い、文字通り何もない状態で三好や本願寺に押しかけ、「織田とは戦うんですよね? ぜひ参加させてください」と売り込み続けたのである。
しかも龍興は、単なる「居場所を失った流れ者」ではなかった。美濃の旧主という肩書は、信長包囲網を組む勢力にとって格好の大義名分だった。「信長に不当に奪われた正統な領主」を味方に加えることで、対信長戦の正当性が増す。龍興は自分が「負けた三代目」であるという事実を、逆に外交カードとして使いこなしていたのだ。
敗北すら武器にした男、それが斎藤龍興の実像である。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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