体調や人間関係の悪化などで働けなくなった時、誰に助けを求めればいいのか。28歳男性は職を転々とする中、双極性障害を発症する。
実家に頼ることもできず、ひとり苦しんだ男性を救ったのは「生活保護」。病とともに生きる覚悟を決めた男性が今、自分と同じ境遇の人に伝えたいこととは――。(後編/全2回)
前編のあらすじ】両親は共働き。5歳上の姉はダウン症。焼場さんは物心ついた頃から「両親に迷惑をかけてはいけない」と考え、他人に気を遣いながら生きてきた。大学2年の時に突然、原因不明の不調に見舞われる。朝起きられなくなったり、起きられたとしても家から出られなくなったりし、単位を落とした結果、留年が決まってしまった――。
■原因不明の不調で留年
関東在住の焼場雷太さん(仮名・28歳)は、大学2年の時に原因不明の不調に襲われた。朝起きられなかったり、起きられても身支度することができなかったり、家を出ることができなくなったりしてしまったのだ。
それでも焼場さんは、親にも友だちにも相談しなかった。
「共働きの両親は、朝は僕が起きてくる前に家を出ているので、僕が大学に行けていないことに気づいていませんでした。両親が帰宅する時間に僕が家にいると怪しまれると思い、夕方ぐらいからなんとか家を出て、近所を散歩するなどして夜に帰るようにして、大学に行っているフリをしてやり過ごしていました」
しかし3年になった年に、単位が足りずに留年することが決定する。

この時、焼場さんは、2年生になった頃から大学に行けていなかったことには触れず、単位が足らずに留年したことだけを両親に報告した。
「両親には、『留年が決まったから4年で卒業できない。だから大学を辞めようと思う』と話しました。そうしたら父に、『そんなの絶対ダメだ。お前が行きたいって言った大学なんだから、留年した分の学費は自分で払ってでもちゃんと卒業しろ』と言われました」
「何年かかっても、ちゃんと卒業しろ」と叱咤された焼場さんは、本来なら5年かかるところを、4年半で卒業することができた。
■「もう、この生活ちょっとしんどいな」
焼場さんは、留年が決まってから初めてアルバイトをし始め、留年した分の学費を自分で賄っていた。
「父から『大学に入ったら家から出て行け』と言われていたのですが、結局出ていきませんでした。だから、『就職したら、今度こそ出て行かなければ』と思っていました。学費を払った残りのアルバイト代は娯楽に使ってしまったので貯金がなく、就職先は寮があるところを選びました」
2020年9月に大学を卒業した焼場さんは、インターネットで仕事を探し、3社だけ受けて、1社に採用が決まった。
「僕は、みんな同じようにスーツを着て、それまで茶髪にしていた髪を黒染めし、同じような履歴書を書いて面接を受ける……という就職活動に気持ち悪さを感じていました。だから、履歴書と1回の面接だけで内定を出してくれて、寮があるという会社を探していたんです」
全国展開しているその会社で、焼場さんは関東を希望したが、中部地方に配属が決まった。
中部地方に引っ越し、働き始めた焼場さんは、そこで初めて夜勤があることを知る。

「僕が採用になった会社に登録している派遣スタッフの人たちと一緒に、半導体の素材を作る工場でいち工員として働くという仕事内容でした。土日祝日は一切関係なく、4日日勤をやって2日休んだら、今度は4日夜勤をやって2日休むという繰り返しで働かされました」
12月末頃「もう、この生活ちょっとしんどいな」と思った焼場さんは、上司に辞表を出すと、都内に住む小学校からの同級生を頼って東京に戻ろうと考える。
「両親には、一応居場所だけでも伝えなければ」と思い、実家に電話をすると、父親が出た。会社を辞めて東京に戻る旨を話すと、
「3カ月で何がわかるんだ? 辞めるなんてダメだ! 今からでも会社に行って辞表を撤回して来い!」
と言われる。
「それなら、もう少し続けてみようかな」と思った焼場さんは、上司に電話をして、「先日お渡しした辞表を取り下げさせてもらえないでしょうか?」と申し出た。
すると、上司はまだ上に提出せずにいたため、撤回することができた。年が明けて、2021年。焼場さんはまた同じ工場で働き始めたが、8月頃には「やっぱり何も変わらないな」と思い、転職活動を開始した。
都内の大手損保会社に就職が決まると、都内に移り、一人暮らしを始めた。
■親に言わずに転職を重ねる
損保会社に就職した焼場さんだったが、今度は仕事にやりがいを感じられなかったため、9カ月で退職。両親には言わなかった。
「コールセンターの仕事だったんですが、僕である必要性を感じなかったんです。
前職より給料がよく、割と貯金があったため、退職後は3カ月くらい働かずに過ごしましたが、図書館で、20代の若者に正社員に挑戦する機会を提供するプロジェクトのチラシを見つけて、面白そうだなと思って応募してみました」
説明会に行き、インターンが決まり、インターン後の2022年の11月、その会社に就職できることになった。ところがその会社も、1年くらいで辞めることに。
「インフラエンジニアと呼ばれる仕事だったのですが、プロジェクトごとに職場や一緒に働くメンバーが変わるんです。そこも夜勤がある会社でしたが、最初の案件はチームの仲も良くて、すごく楽しかったんです」
しかし、次の案件が合わなかったのか、不眠の症状が出始める。
「僕としては、チームでコミュニケーションを取りながらやりたかったんですけど、全くコミュニケーションがないチームだったんです。会社へは電車で1時間以上かかるため疲れてきてしまって、2023年4月に精神科に予約を入れました。でも、ゴールデンウィークのおかげで症状が良くなったので、予約を取り消してしまって……」
6月にその案件をなんとかクリアしたが、8月に入った案件がまた合わなかった。
「社員同士の仲が悪く、ギスギスしていました。今度こそ精神科を受診すると、『適応障害』と診断され、休職を勧められました」
9月に1カ月間休職した焼場さんは、「また合わない案件で体調を崩すのは嫌だ」と考え、転職活動を始める。
通勤に疲れやすく、人間関係の影響を強く受けてしまう傾向があることに気づいていたため、今度はテレワーク中心の会社を選んだ。
10月。新しい会社に勤め始めると、前編の冒頭につながる。

「10月1日に入社して、10月19日に退職しました。その会社には全く問題はありません。完全に僕の持つ疾患のせいでした……」
■炊き出しで生活相談
退職した翌週がちょうど精神科の受診日だった。退職したことを伝えると、主治医は生育歴について焼場さんに訊ねた。
焼場さんは、自分の家族のことや中学受験でつらかったこと、大学入学から現在までのことを1時間ほどかけて話す。
静かに頷きながら聞いていた主治医は、焼場さんが一通り話し終わると言った。
「あなたは適応障害ではありません。双極性障害です」
「主治医から双極性障害の説明を受けて、自分でもネットなどで調べてみたら、腑に落ちることがいっぱいありました。確かに、気分の浮き沈みが激しくて、頑張れる時と全く動けなくなる時を繰り返していたなあと思いました」
中学受験の時や大学時代はまだうつ状態の時でも全く動けないほどではなく、“気分の波”程度で収まっていた。だが、大きく生活に支障が出るような波が訪れ始めたのは、就職後からだった。
「主治医には、もともと遺伝的な要因でなりやすい人はいるけれど、そのきっかけとなる出来事が必ずあり、『夜勤がある仕事に就いて、生活リズムが崩れたことが発症のきっかけになったのではないか』と言われました。僕の場合、転職活動中や転職してしばらくは躁状態でめちゃめちゃ頑張れますが、その反動でうつの波が来ると、全く動けなくなってしまうということを繰り返していました」
双極性障害は100人に1人弱が発症し、20代前後で多く発症すると言われ、決して珍しい病気ではない。

10月19日にテレワークの会社を辞めて無職になった焼場さんは、11月には貯金が底をつきかけていた。
翌月の家賃を払うアテがなかった焼場さんは、ネットで炊き出し情報を得ると、新宿区の公園に行き、炊き出しをしているNPO職員に生活に困っている旨を話す。すると、生活保護を勧められ、NPOの本部に来るように促される。
NPOの本部では、生活保護に関する書類の書き方の手解きを受け、最後に扶養照会について説明された。その時、焼場さんは、「家族には連絡してほしくないです」と言った。
「親にはそもそも、2社目の会社を辞めたことを言ってなくて、すでに3社目も4社目も辞めています。それを説明する気力が、当時の僕にはもう残っていませんでした」
NPOの職員のアドバイスで「扶養照会に関する申出書」を書いた焼場さんは、扶養照会なしで申請が通り、11月から生活保護の受給がスタートした。
■ふっと死にたくなる
それから7カ月経った2024年の6月。主治医から就業開始許可が得られたことで、失業保険がおりることになった。そのため、焼場さんは8月から職業訓練を受け始め、9月に生活保護が終了。2025年1月まで職業訓練を受けた後、就労移行支援を受けながら就職活動を行う。
この頃ようやく焼場さんは、大学2年の時に原因不明の不調に襲われたことや、生活保護を受給してもらっていたことを両親に打ち明けた。

「両親はショックだったみたいです。母には『頼ってくれればよかったのに』と。父には『大学入ったら家を出ろとか、就職したら家を出ろなんて言ってない』と言われました。もしかしたら、僕が勝手に思い込んでいただけかもしれません」
しかし就業開始許可は出たものの、焼場さんとしては不安定な状態で、職業訓練に行けない日も少なくなかった。
障害者雇用で4月からIT企業で働き始めたが、すぐに問題が起こる。
「その会社にはすごく配慮していただいてましたし、僕自身、無理をしている感覚はなかったんです。でもある日突然、なぜかはわかりませんが、ふっと死にたくなって、自殺未遂をしてしまいました。死にたくなるきっかけが何なのかわかれば防ぎようがあるのですが、自分的にもわからなくて……」
念のため会社に報告すると、就業時間を8時間から6時間にしてくれた。それでもあまり症状が改善しなかったため、主治医の判断で5月末から11月まで休職が決まる。
休職することになった焼場さんは、6月に実家に戻ることに。だが、11月になっても主治医からの許可が降りなかったため、退職することとなった。今も、親と自宅で暮らしている。
■病とともに生きていく
焼場さんは中学3年の時、テレビを見ていたところに母親から「お風呂に入りなさい」と声をかけられただけでカッとなり、家の壁を殴って穴を開けてしまったことがあるという。「なぜそんなことをしたのかわからない。反抗期だったからかもしれない」と言うが、反抗期だからといって、そんな些細なことで家の壁に穴を開けるほどの怒りが湧くだろうか。
両親が共働きで、姉がダウン症だった焼場さんは、「寂しい」「悲しい」「悔しい」などのマイナス感情を押し殺し、「両親に迷惑をかけないように」生きてきた。特に父親とは「意見が合わない」と感じており、「何度かぶつかったこともありますが、長年その考えで生きている人を簡単には変えられない。だったら話し合ってもしかたない」と対話を避けている。
もしかしたら焼場さんは、幼い頃から「よい子でない自分は価値がない」とさえ感じ、自分で自分を追い詰めていたのではないだろうか。
障害を持つ姉を優先する家族たちに囲まれ、「寂しい」「もっと僕を見て」と心の中では叫びながらも、実際に声を上げられず、押し殺してきたその感情は、壁を壊すなどといった「怒り」の形でときどき噴出する。
家族にさえ本音を言えず、本当の自分を誰にも見せないまま成長し、自己肯定感が育まれなかった焼場さんは、他人と衝突せず、流されるように生き、その中で積もり積もったストレスで体がSOSを上げた結果が、双極性障害発症だったのかもしれない。
「双極性障害って脳の神経物質が関連する病気で、脳に異常が出ている状態なので、認知症とも似た症状が出ることがあるそうなんです。治療は薬物療法が中心。主治医には『急がないで』と言われているので、働くことは今のところ考えていません。夜勤のある仕事に就いて、生活リズムが崩れたことが発症のきっかけと言われましたけど、自分が選択したことなので、受け入れるしかないと思っています」
振り返れば、焼場さんがうつ状態に陥っているときにNPO職員を頼り、生活保護に繋がったことが病気に気づくきっかけになった。
「生活保護がなかったら、一番しんどい状況で、親にこれまでの経緯を説明しなければなりませんでした。だから、精神的にも生活的にも安定した状態で説明できたのはよかったです。生活保護がなかったら、病状が今よりも深刻な状態になっていたと思います」
これまでは誰にも本音や不安を言えなかった焼場さんだったが、現在は両親や友だちに吐き出せるようになったという。
「悩みや不安は尽きませんが、それを吐き出せるようになったのは大きな変化だと感じます。死にたいときに死にたい気持ちを吐き出すことができるということは、とても大事なことだと思います」
現在焼場さんは、障害年金を受けながら、ZINE(ジン)を作る活動を行っている。ZINEとは、文章やイラスト、写真などで、誰もが自由に作れる本のこと。MAGAZINEのZINEだ。
「僕が今『死にたい人のためのZINE』を作っているのも、死にたい気持ちを吐き出す場所や、それを目にする機会が増えれば、あの時の僕のように『死にたい』なんて思う人を減らせるのではないかと考えたためです」
本連載ではこれまで5人の生活保護経験者の事例を紹介してきたが、焼場さんを含めどの人も生活保護の存在に救われ、一度は詰みかけた人生の「再スタート」が切れた。
「生活保護」は、利用したことがない人にとっては、自分とは無関係の遠い世界のもののように感じられる。筆者も、一度利用したら二度と戻れないのではないかという恐怖を感じていた。しかし実際に利用し、卒業した人は存在する。自分とは無関係の遠い世界のもののように感じるのは、その実態を捉え切れていないからに他ならない。
賃金は上がらず、物価が異常に高騰する昨今、生活が困窮する人の増加が予想される。
生活保護とはどんなものなのか。どんな人が利用し、どんな生活をして、どんな人が卒業し、再び社会に戻っていくのか。
引き続き生活保護の実態を明確にすることで、生活保護に対する批判や恐怖を減らし、救われる人や機会を増やしていきたい。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)

ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー

愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。

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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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