■「豊臣兄弟!」で気になるシーン
織田信長(小栗旬)は永禄10年(1567)8月、斎藤龍興(濱田龍臣)の本拠地、稲葉山城(岐阜市)を攻略。およそ7年を費やした末に、ようやく美濃(岐阜県南部)を手中に収めた。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第9回「竹中半兵衛という男」(3月8日放送)。
続く第10回「信長上洛」(3月15日放送)では、信長は居城を小牧山城(愛知県小牧市)から稲葉山城に移す。同時に、井ノ口と呼ばれた地名を岐阜に変え、稲葉山城も岐阜城になる。そして翌年、足利義昭(尾上右近)を奉じて上洛を果たす。
小栗旬は「孤独な独裁者」としての信長を、よく演じていると思う。家臣たちに一切の抵抗を許さない、圧倒的な権力者としての信長像が、よく打ち出されている。ただ、「豊臣兄弟!」で時折描かれる評定(日常的な会議)などにおいては、気になる点もある。
たとえば、少し前だが第6回「兄弟の絆」(2月15日放送)。小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)は、鵜沼城(岐阜県各務原市)で人質にされている兄の藤吉郎(池松壮亮、のちの羽柴秀吉)の命を守るために、鵜沼城主の大沢次郎左衛門(松尾諭)の命を助けてもらえないかと信長に嘆願した。
■「信長に反抗する秀吉」はあり得るのか
そのときの評定では、柴田勝家(山口馬木也)や丹羽長秀(池田鉄洋)らの家臣が信長の面前で、大声を出して小一郎を罵倒し、勝家に至っては刀まで抜く。一方、小一郎も信長に大声で食ってかかった。この場面にかぎらず、「豊臣兄弟!」に描かれる信長を前にしての評定は、おおむねこんな感じである。
もちろん「豊臣兄弟!」でも基本的に、家臣はだれも信長に逆らわない。いや、逆らえない。だが、その面前で立ち上がったり、大声を上げたりするという点では、絶対者たる信長の前で案外、大胆に振る舞っているようにも見える。
というのも、イエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスが岐阜城を訪れた際に目にし、著書『日本史』に書き記した信長は、もっともっと、比較にならないくらい絶対的なのである。「豊臣兄弟!」の家臣たちのような、いってみれば「ざっくばらん」な振る舞いは、まったく許されていない。
以下にフロイスの描写を引用してみたい。
■フロイスが驚愕した岐阜城の内部
岐阜城は標高329メートルの金華山頂の要塞部と、山麓の居館部の二重構造で、「豊臣兄弟!」の第9回では、4層の御殿(事実上の天守か)を中心とする居館部を再現した映像が流された。この信長の城について、永禄12年(1569)7月に、信長みずからの案内で見学したフロイスは、以下のように書いている。
「彼(信長)は自らの栄華を示すために他のすべてに優ろうと欲しています。
フロイスは山麓では、庭園や水の流れを複雑にからませた御殿(宮殿)を細かく観察。その一部を引用しよう。
「二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。部屋には、その周囲を取り囲む前廊があり、市の側も山の側もすべてシナ製の金襴の幕で覆われていて、そこでは小鳥のあらゆる音楽が聞こえ、きわめて新鮮な水が満ちた他の池の中では鳥類のあらゆる美を見ることができます」
もちろん3階、4階にも上がっている。また、山頂も訪れ、「この前廊に面した内部に向かって、きわめて豪華な部屋があり、すべて塗金した屏風で飾られ、内に千本、あるいはそれ以上の矢が置かれていました」と記している。
■信長の手がわずかに動くだけで…
だが、フロイスには、城そのものに感嘆する以上に驚いたものがあった。「もっとも私を驚嘆せしめましたのは、この国主(信長)がいかに異常な仕方、また驚くべき用意をもって家臣に奉仕され畏敬されているかという点でありました」と感想を述べ、次のように書くのである。
「彼(註・信長)が手でちょっと合図するだけでも、彼ら(註・家臣たち)はきわめて兇暴な獅子の前から逃れるように、重なり合うようにしてただちに消え去りました。そして彼が内から一人呼んだだけでも、外で百名がきわめて抑揚のある声で返事しました。彼の一報告を伝達する者は、それが徒歩によるものであれ、馬であれ、飛ぶか火花が散るように行かねばならぬと言って差し支えがありません」
信長が手をわずかに動かしたり、だれか一人を呼んだりしただけで、周囲にいる人たちがみな慌てふためき、即座に席を立ったり、電光石火のごとく返事をしたりした様子が伝わる。
しかも、そういう態度を取らなければならないのは、身分が低い者だけではなかったようだ。
■「彼の前で目を上げる者は誰もおりません」
「都では大いに評価される公方様の最大の寵臣のような殿も、信長と語る際には、顔を地につけて行うのであり、彼の前で目を上げる者は誰もおりません」
往時の主従関係においては、家臣が主君の顔を許可なく仰ぎ見て視線を合わせることは、基本的に不遜な態度であり、無作法だとされていた。そんななかでも信長はとくに、自分の絶対性を強調するあまり、家臣が彼の前で目を上げることを許さなかったということだろう。
また、この場合、「公方様の最大の寵臣のような殿」とは信長の家臣ではなく、おそらく将軍である足利義昭の家臣だと思われる。それでも信長を畏怖するあまり、面前では目を上げられず、信長も目を上げることを許さなかったのかもしれない。さらにフロイスの描写は続く。
「彼と語ることを望む、政庁になんらかの用件のある者は、彼が城から出て宮殿に下りて来るのを途上で待ち受けるのです。すなわち何びとも登城してはならぬことは厳命であり、犯すべからざる禁令で、彼は登城をごくわずかの人に許可しているに過ぎません」
山頂に登ることが許されている家臣はごくわずかで、原則、どんな用があろうと、いつ下りてくるともわからない信長を、山の途中で待つしかなかったということだ。
■事実の信長は大河ドラマでは描きづらい
また、山麓の居館でもこんな具合だったという。
「信長の習慣および性格から、たとえその寵臣であっても、彼が明白な言葉で召喚したのでなければ、誰もこの宮殿の中へは入らぬのであり、彼は入った者とは外の第一の玄関から語るのであります」
よほどの重臣でも、信長から直接声をかけられないかぎり、御殿に足を踏み入れることは許されず、入ることが許された人へは、信長は離れたところから語りかけた、ということのようだ。
これらの描写から伝わるのは、信長が強く意識して演出していたのであろう、自身の他者に対する絶対性である。
岐阜城の内部の描写もさることながら、そこにおける信長の振る舞いや態度、そして、家臣や客人たちの接し方については、ほかの史料にはほとんど記されていない。それも、もっともだと思う。信長と交流があればあるほど、こうしたことは信長に忖度して書きづらかったであろうことは、容易に想像がつく。
一方、宣教師には政治上の利害関係がないうえに、ポルトガル語でなにを書こうと解読されないので、忖度する必要がなかった。したがって、基本的に信用できる描写だと考えて差し支えないだろう。
大河ドラマで、家臣たちが信長の前で目を上げず、だれも直接声を上げず、信長の一言で電光石火のごとく動く様子を描くのは、たしかに難しい。ドラマにならなくなってしまうかもしれない。だから仕方ないとは思うが、事実の信長はこれほどまで家臣に君臨し、まるで神のような絶対的な存在だったのである。
----------
香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。
----------
(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 昼夜兼用立体 ハーブ&ユーカリの香り 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q-T7qhTGL._SL500_.jpg)
![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 就寝立体タイプ 無香料 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51pV-1+GeGL._SL500_.jpg)







![NHKラジオ ラジオビジネス英語 2024年 9月号 [雑誌] (NHKテキスト)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Ku32P5LhL._SL500_.jpg)
