東京・アーティゾン美術館で開催中のモネ展は連日盛況。なぜモネの絵は日本人に愛されるのか。
美術史ソムリエの井上響さんは「西洋絵画は宗教画から発展してきたが、モネの人気には日本特有の歴史的な理由がある」という――。
※本稿は、井上響『ムンクは何を叫んでいるのか?』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。
■モネがどん底の時に描かれた絵
雲が優しく広がる青空の下、緑豊かな丘から、日傘をさす女性と少年がこちらを見つめている。光の煌めきが2人を包み込み、まるで幸福そのものを描いたような作品だ。
これは印象派の巨匠クロード・モネによる作品である。
青と白と緑を中心に構成された本作は、「私は鳥が歌うように、絵を描きたい」という言葉を残したモネらしい作品だ。
大気の揺らぎ、微風の感覚、そして緑の匂いが見事に描き出されている。
日傘の女性は、モネの最初の妻カミーユ。
隣にいるのは長男のジャン。
つまりこれは、モネ自身の家族を描いた作品なのだ。
一見、家族の愛があふれている絵に見えるが、この幸せな光景の裏側には、凄絶な物語があった。
現在でこそ最も人気のある画家の1人となったモネだが、カミーユと共にいた若い頃はまったく違った。

当時の批評家は彼の作品をこう罵倒した。
「何と自由に、何と気軽に描かれていることでしょう! まだ描きかけの壁紙でもこの海景画よりはもっと仕上がっていますよ!」
(引用『印象派の歴史 下』ジョン・リウォルド著・三浦篤、坂上桂子訳、KADOKAWA)
■認められず、橋から身を投げた
画家として成功するには官展(サロン)で認められることが必須だった時代。しかしモネの革新的な作品は理解されず、ほとんど売れなかった。
日々の食事にも困る極貧生活。その苦しさのあまり、モネは一度、橋から身を投げたことさえあった。
■最初の妻との結婚を許されず…
もし最初から成功していたら、後の『睡蓮』も生まれなかっただろう。
カミーユとの結婚も苦難の連続だった。
モネの親は彼女を認めず、結婚を許さなかった。
長男ジャンが生まれても、親に隠してこっそりと暮らす日々。正式に結婚できたのは、ずっと後のことだった。
それらのことを知った上で、この絵を改めて見ると、深い感動を覚えないだろうか。
誰も知らない秘密。
それは、この光あふれる幸福な家族の絵が、実は人生のどん底で描かれたということ。しかし、どんなに暗い人生の時でも、モネが見ていたのは暖かな光と澄み渡った空気だった。貧困も、世間の無理解も、彼の目に映る家族の美しさを曇らせることはなかったのだ。
■なぜ「睡蓮」は日本で愛される?
モネ展があると聞けば、日本中から人が押し寄せる。印象派の展覧会は、いつも大盛況だ。
しかし、考えてみれば不思議ではないだろうか。フランスで生まれた100年以上前の絵画が、なぜ日本でこれほど愛されるのか? と。
実は、この人気には日本特有の「歴史的な理由」があった。
時は明治時代。日本が西洋文化を本格的に取り入れ始めた頃、最初に輸入された「油絵」は、ダ・ヴィンチやラファエロのような古典絵画ではなかった。
驚くべきことに、印象派の影響を受けた「外光派」と呼ばれる、明るく軽やかな絵画だったのだ。
なぜか? 黒田清輝をはじめ、政府がフランスに派遣した画家たちが学んできたのが、たまたまこの「外光派」だったからだ。

彼らが帰国後、東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)で教鞭を執った結果、日本の洋画は印象派的な画風からスタートした。
つまり、日本人にとって「西洋絵画」といえば、最初から印象派だった。この「刷り込み」は、明治から現代まで続いている。
■印象派の絵は日本人と相性よし
しかし、人気の理由はそれだけではない。
印象派の絵には「予備知識」が要らないのだ。
従来の西洋絵画を理解するには、膨大な知識が必要だった。
ギリシャ神話とは?

聖書の物語とは?

この人物が持つ道具の意味は?

花が象徴するものは?

そんなふうに。
それに対して、印象派はシンプルだ。光の美しさ、水面の煌めき、風に揺れる花々――見たままを感じればいい。
■自然の風景をただ楽しめばよい
西洋の「お約束」を知らない日本人にとって、これほど親しみやすい絵画はなかった。
モネの『睡蓮』を見てみよう。池に浮かぶ睡蓮、水面に映る空、揺らめく光と影。
それだけだ。
神話も歴史も宗教も関係ない。ただ、美しい。
この「ただ美しい」という感覚は、実は日本の美意識とも通じている。桜を愛で、紅葉を楽しむ。理屈ではなく、瞬間の美しさを大切にする文化。
印象派が日本で愛される理由。
それはモネの作品の素晴らしさにあることに異論はない。
しかし、同時に歴史的背景もあった。モネの作品は日本人のDNAに刻まれた名画なのである。

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井上 響(いのうえ・ひびき)

美術史ソムリエ、クリエイター

東京大学文学部人文学科美術史学専修卒。「美術館が2割面白くなる解説」というTikTokアカウントをメインに、西洋絵画の背後にある物語や美術史を誰でも楽しめるように発信。
2025年5月現在、SNS総フォロワーは19万人を超えている。著書:『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)。

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(美術史ソムリエ、クリエイター 井上 響)
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