■高市首相にとっては予想外の痛恨事
米国によるイラン攻撃は長期化の様相を見せている。対抗措置としてイランはホルムズ海峡の封鎖を宣言、石油タンカーなど船舶はホルムズ海峡を事実上通過できなくなっている。
日本は原油輸入の9割を中東に依存、74%がホルムズ海峡経由だとされ、封鎖が長期化すれば、原油調達に支障を来し経済に大きな影響を与えることは間違いない。
高市早苗首相は、物価上昇を抑え込み、実質賃金をプラスにすることを半ば公約として掲げてきた。3月9日に厚生労働省が発表した1月の毎月勤労統計では、名目賃金から物価変動分を差し引いた「実質賃金」が前年同月比1.4%のプラスと、2024年12月以来、13カ月ぶりにプラスに転じた。
当初は大半のエコノミストが2月、3月もプラスが続くと見ていたが、ここへきて急速にガソリンの小売価格が上昇したこともあり、先行きに暗雲が漂っている。高市首相からすれば、実質賃金のプラスが定着したと胸を張りたいところだったろうが、まさに予想外の痛恨事になっている。
■ガソリン価格の急激な引き上げ
首相としては、何としても物価上昇を抑えたいと思ったのだろう。石油備蓄の放出を決めたほか、激変緩和措置という名目で、石油元売り会社に補助金を出して販売価格を引き下げさせることを決めた。
石油備蓄は国が所有する国家備蓄と民間に義務付けている民間備蓄があり、昨年12月末で国家備蓄が146日分、民間備蓄が101日分ある。このうち石油元売り会社に義務付けている70日分を55日分に引き下げることで供給量の維持を目指す。さらに政府は、国家備蓄を1カ月分放出して元売りなどに販売することも決めた。備蓄の放出は合計45日分、約8000万バレルを取り崩す計画だ。
石油備蓄が200日分あるから大丈夫だ、と政府は繰り返すが、ホルムズ海峡の封鎖がどれだけ続くかは分からない。
米国はイランに降伏と体制転換を要求しているので、現イスラム政権がそう簡単に折れるとも思えない。そうした中で、早くも備蓄放出に手を付けて大丈夫なのだろうか。
市中のガソリンスタンドではガソリンの急激な価格引き上げが起きている。1リットル190円台を付けるところも多く、元々価格が高めの長野県などでは200円を超えるガソリンスタンドも出始めた。そんな価格上昇を高市首相は補助金と合わせて抑え込み、1リットル当たり170円程度に抑えるとしている。財源として既存の基金の残高2800億円を当てるとしているが、原油価格の動向によっては基金は1カ月で底をつくとの見方もある。
これまでもガソリン価格を抑えるために3年半で8兆円という巨額の財政を投じてきたが、今後も価格が上昇する「市場」に戦いを挑み続けることになれば、国の財政は悪化の一途をたどる。
■戦争が長引けば原油不足になる
伝統的な経済学者の間からは、石油価格を抑えるために多額の補助金を出し続けるのは「愚策」だという声が出ていた。もともと円安によって国内物価が上昇しているところに、補助金を出して政府の財政を悪化させれば、さらに円安が進んで、輸入価格が上昇しかねない。イタチごっこになるだけだ、という意見だった。
今回の場合、単に市場で価格が上昇しているだけでなく、ホルムズ海峡を通過できず石油自体が流れてこない深刻な「原油不足」が懸念されている。モノが足りなくなる懸念がある時に備蓄を放出して不足を補うのは意味があるが、価格を引き下げることを目的にするのは問題が多い。

価格が上昇すれば、消費者が節約するなど省エネに動くが、価格を引き下げてしまうと消費行動は従来と変わらない。戦争が長引けば原油不足になるリスクが顕在化しつつある中で、今重要なのは消費量をできるだけ減らす「省エネ」機運を盛り上げることだ。そのためには価格の上昇はある程度、放置し、市場に任せるべきなのだ。消費量が減って売れないとなれば石油元売り会社は価格を引き下げざるを得なくなる。それが市場原理というものだ。
■市場原理を機能不全にしている
ところが、日本政府がここ数年とり続けている政策は、補助金によって、この市場原理を機能不全にさせているとも言えるのだ。
1970年代のオイルショックの時は価格が大幅に上昇したことで、製造業を中心に企業は猛烈な「省エネ」に動き、それがその後の日本企業のコスト競争力の向上と、収益性アップに結びついたとされている。つまり、価格を意図的に抑えることが必ずしも良い結果をもたらさないのだ。
また、財政赤字が拡大すれば、円安が一段と加速しかねない。実際、ここへきて再びジリジリと円安となり1ドル=160円に接近している。衆議院を通過した2026年度一般会計予算は122.3兆円と過去最大規模の予算となった。高市首相が主張する「積極財政」が示された格好だが、これによって財政悪化懸念も再び頭をもたげている。

将来の経済成長につながる投資の呼び水として財政出動するものはまだ良いとして、防衛費などの大幅増加がどれだけ景気浮揚に結びつくのか分からない。また、巨額の予算を賄うために、ジワジワと増税が行われていくのも景気にマイナスになりかねない。
■物価上昇でますます苦しくなる
一方で、株価や地価、宝飾貴金属などの値上がりが大きく、こうした財産を持つ人と持たない人の格差がどんどん広がっている。米国とイランの戦争が始まった後は、株価は乱高下しているものの、「先行き不安から売り一色」という展開にはならない。それは、世界で余ったお金が行き場を失い、少しでも安全な資産へと資金が集まることから、必ずしも成長を買うということではなく、株価水準が一定以上下がれば買いが入るという構造になっているからだ。
イラン戦争によって原油価格が上がることで、幅広い物価が押し上げられていくと見られる。そうなると名目賃金が上がっても、物価上昇に追いつかないという状況が再び起きてくる。資産を持たない層は物価上昇でますます苦しむということになりかねない。選挙戦で約束したはずの食料品の消費税率ゼロを2年間という話も、遅々として実現するメドすら見えない。生活に困窮する世帯が益々増えることになるだろう。
■実質賃金プラスを維持するのは困難
過去最高を記録した企業収益にも暗雲が漂う。3月決算上場企業の2026年3月期は5年連続で最高益を更新する見込みだが、2027年3月期は楽観視できなくなった。
仮に1バレル=140ドルという過去のピークを超えて原油高が進んだ場合、製造業のコストが大幅に増加する可能性が高い。
これまでは大企業を中心に、好業績を背景にして従業員の賃金を引き上げる動きが広がっていた。深刻さを増す人手不足もこれに拍車をかけていた。この賃上げムードに一気に水を差すことになりかねない。名目賃金が今年ほど上がらないということになれば、ますます実質賃金がプラスを維持するのは難しくなるだろう。
円安が輸出企業の収益にプラスに働く傾向があるのは事実だが、地政学的な不透明さは貿易量そのものを減少させる懸念がある。中国の景気減速も鮮明で、日本から中国への輸出増も見込み薄だ。米国向け輸出は引き続きトランプ関税問題があり、不安定な状態が続く。欧州はウクライナとロシアの戦争、中東での紛争の影響で、経済成長は鈍化しそうだ。
1月に国際通貨基金(IMF)が発表した世界経済見通しでは2026年は3.3%に対して2027年は3.2%という予想だったが、イラン戦争の余波もあり成長率が下方修正される可能性も出てきた。日本は2025年の1.1%から2026年は0.7%、2027年は0.6%と鈍化する予想だったが、この数字すら危ぶまれる。物価上昇に対して国民がさらに財布の紐を締めることになれば、消費も一気に悪化する可能性が出てくる。


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磯山 友幸(いそやま・ともゆき)

経済ジャーナリスト

千葉商科大学教授。1962年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。日本経済新聞で証券部記者、同部次長、チューリヒ支局長、フランクフルト支局長、「日経ビジネス」副編集長・編集委員などを務め、2011年に退社、独立。著書に『国際会計基準戦争 完結編』(日経BP社)、共著に『株主の反乱』(日本経済新聞社)などがある。

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(経済ジャーナリスト 磯山 友幸)
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