■「明太フランス」を生み出した“町のパン屋”
フランスパンに明太バターをはさんで焼き上げた「明太フランス」が、福岡の新グルメとして人気を集めている。市内の多くのパン店で販売され、ラーメン、もつ鍋、辛子明太子に並ぶ福岡名物になりつつある。
ある店舗では、まとめ買いする客もいるため、ひとり10本までと制限がかかるほどだ。最近では東京にも明太フランスで人気を集める店が現れた。
パン店だけではない。いまや明太子メーカーも参入している。明太子はかつて贈答用とされていたが、明太子そのものの需要が伸び悩むなか、老舗のやまや、「めんべい」を製造する山口油屋福太郎も、新たな収益の柱としてめんたいフランスを自ら手掛けている。
その流れを最初に作ったのが、福岡市東区松崎に本店を置くフルタパンだ。福岡市などにある5店舗で1日5000本、年間150万本を売り上げる。
1925(大正14)年に初代が米穀店として創業し、お米を売りながら「カタパン」と言われるゴーフルのようなお菓子を焼いて売ることで、地域のひとによろこばれていた。戦後、2代目が「町のパン屋」として再出発。2025年に創業100周年を迎えた。3代目の古田量平さんが家業に入った当時は5~6人ほどの家族経営だった。それが今では社員60人、アルバイトを含めると167人の規模になった。
「町のパン屋」は、どうやって人気店になったのだろうか。
■「真似してもらっていいんです」
取材の冒頭、一番気になっていたことを聞いてみた。明太フランスの競争は激しくなっているのではないか? 心配をよそに、3代目社長の古田量平さん(73)は笑いながらこう答えた。
「真似してもらっていいんですよ。うちの情報は全部オープン。
学びにくる事業者は多い。作り方を一から教えても、前編で紹介したようにカットして売るスタイルをすべて伝えても、続かないところが多いという。効率を考えると、手間のかかる工程をカットしてしまうそうだ。
「うちのベースはね、明太フランスがうまい店じゃなくて、社員のお客さんへの思い入れが強い店なんですよ。それがお客さんに伝わってる」
こうして古田さんへのインタビューが始まった。最初に飛び出したのは、思いがけない言葉だった。
「もともとパン屋の仕事は好きじゃなかった。銀行に勤めようかなと思ってたんですよ」
■「店を継ぐのが嫌だった」
毎朝4時には起きて、小学校に行く前の2時間、父が運転するミゼットの横に乗り、客先にパンを届ける。これが古田さんの日課だった。
コッペパンやヤキソバパン、コロッケサンドを地域の学校や大学に届けた。家では、パンを作る職人もいっしょに食卓を囲んだ。
「嫌でしたよ。でも、姉がやってるのを見てたから、手伝うのが当たり前だと思ってた」
家業を継いだ父からは、「工業高校を出て、設計士になれ」と言われていた。野球が好きだった少年は、スポーツ推薦で名門大濠高校へ進学し、野球漬けの日々を送った。大学を卒業したら、銀行に就職するつもりだった。普通の暮らしがしたかった。
ところがちょうどその頃、父が体調を崩し、働くことが難しくなった。
「親父は『お前、好きなことせい』と言ってくれてたんですけどね。
1976年、大学を卒業すると23歳で家業に入った。
■職人との衝突
若さもあり血気盛んな古田さんを待ち受けていたのは、ひと回りもふた回りも年上のパン職人たち。小さい頃から見てきた顔ぶれだった。23歳の若造への風当たりは強かった。負けじとぶつかっていくと、へそを曲げられた。
「学校に卸すパンを作らないといけないのに、職人が出勤してこない。アパートまで行って、頭を下げるしかなかった」
「そりゃもう、悔しかったね」
50年近く前のことなのに、声に力がこもる。
その頃は、親方のもとに弟子が住み込みで技術を習得する徒弟制度もある時代で、職人が幅を利かせていた。悔しさを抱えながらも、強くは出られない日々が続いていたある日、事件は起きる。
納品先の高校から「パンがジャリジャリする」とクレームが入った。食べてみると、確かにジャリジャリしていた。工場に戻り職人に聞くと、原因はわかっているという。
「商品をチェックしてなかった自分も悪い。でも、これはどうにもならんなと。職人が怖いと思っていたけど、職人の意見ばかりがとおるような職場だったら、いずれはダメになるって思った。同年代くらいの仲間を増やし、職人がへそを曲げても(アパートへ)迎えに行かなくていいようにした」
■「クッソー、見とけよ」自分の店を持とうと決めた瞬間
当時を振り返り、ガハハと笑う古田さんだが、このとき覚悟を決めていた。
入院していた父に「私に会社を預けてくれないか。自分の考えでやっていきたい」と願い出た。父からバトンを受け取り、32歳で家業を継いだ。
家業を継いでからは、大口の卸先を次から次へと開拓した。朝から深夜までパンを作り続けるなか、ある思いが芽生えてくる。
「自分の店を作りたい」
その背景には、卸売り先との力関係があった。
「あんたんとこの社員の生活は、俺のところが守ってやってるんだ」
取引先から言われた言葉を、今でも覚えている。値段は向こうが決めて、逆らえば取引を切られる。「潰れるぞ」と言われたこともあった。
「プライド傷つくじゃないですか。クッソー、見とけよって思いましたね」
自分たちで値段を決めたい。自分たちが作ったパンを自分たちの店で売りたい。1986年、本社工場を移転し直営店を開いた。店の名は、「Full Full(フルフル)」。
■焼きたてのない「町のパン屋」だった
意を決して直営店を開いたものの、最初は閑古鳥が鳴いていた。
1日の売り上げは7000円から1万円ほど。振り返ればそれもそのはず、焼きたてのパンを提供するわけでもなく、工場で学校向けに作ったパンを並べているだけだった。新たな人材を採用し、4~5年かけて焼きたてパンを提供するスタイルを築いていった。スタッフも増えてきたところで、1992年には有限会社フルタ製パンから株式会社フルタパンへと組織変更を行った。
数年後の1998年、転換点が訪れる。取引のあったグリーンコープとの縁で国産小麦と出会った。「最初はグリーンコープさんが言うなら」くらいの気持ちで使いはじめたが、小麦について勉強するうちに、次の世代のために食料自給率に貢献したいと考えるようになった。4人の子を持つ父としても、食の安全は他人事ではなかった。子どもたちがアトピーに苦しむ姿を見てきた。「うちは国産小麦しか使わない」と決め、屋号を「国産小麦パン工房 フルフル」に変えた。
しかし、国産小麦のパン作りは困難を極めた。国産小麦はタンパク質の含有量が少なく、焼き上がりがへこんだり、形が崩れたりした。パンにならない時期もあった。それでも古田さんは諦めなかった。北海道の生産者のもとに足を運び、良い小麦を作るために話し合いを重ねた。
取引先からは価格について厳しい声も届いた。グリーンコープの組合員たちは、一般的なスーパーで売られているパンに比べて1~2割値段が高くても、国産小麦のパンを買って支えてくれた。このとき、「直接自分たちの声で伝える売り方」を学んだと振り返る。
「それまでパン屋は好きじゃなかった。嫌々ながら継いだ。でも、初めてこの仕事は大事やなと思いましたね。日本のためにもなるし、地域のためにもなる。子どもたちの健康のためにもなる。食べ物には責任がある」
初めて「パン屋」という仕事に意味を見出した瞬間だった。
■看板商品を作りたい
火がついた古田さんは、勉強をはじめた。業界の青年部で仲間と共にパン組合の勉強会に参加し、各地のパン店を視察して回った。直営店をやる以上、看板商品が欲しかった。自分たちで値段を決められる、自分たちだけの商品。それが何かを探していた。
2000年頃、勉強会で高知を訪れたときのことだ。小さなパン店で、明太子を使ったパンを見つけた。手のひら大くらいの小さなパンだった。
「これはいいなと思ったんです。でも、明太子といえば博多でしょう。福岡のパン屋こそ、力を入れて作るべきじゃないかって」
当時、明太子は贈答用が中心で、地元でも食卓に並ぶ機会は減りつつあった。明太子をパンに入れれば、もっと身近な食べ物になる。国産小麦のパンで明太子を広められれば、地域貢献にもなる。
福岡の老舗・福さ屋に相談を持ちかけた。以前から取引があり、「いっしょにやろう」と言われたが、自分たちで作りたかった。福さ屋の明太子を使わせてもらい、自分たちの手でパンを開発する。そう決めた。
試作は古田さんの自宅で始まった。食パンにあれこれ具材を乗せては焼いてみる。刺身を乗せたこともあったが、スタッフには不評だった。
■「生臭いんじゃ…」職人には不評だった
職人たちに明太子を使ったパンの話をすると、最初の反応は、「え? 明太子ですか⁈ 生臭いんじゃ……」だった。古田さんは職人たちに「作れ」とは言わなかった。
「私がこれ作れって言ったら、いったんは作るんですよ。でも、あんまり熱がないんですよね。自然と作らなくなっていく。自分たちで作りたいと思ったものじゃないと、気持ちが入らないんです」
自身がそうだった。銀行員になりたかったのに、パン店を継いだ。嫌々やっていた時期は、何も生まれなかった。国産小麦と出会い、自分で「この仕事は大事だ」と思えてから、初めて火がついた。職人もきっと同じだ。切り口やヒントは見せるが、本人たちがやりたいと言い出すまでは待つことにした。
当時、後に独立して自分の店を開くことになる職人が、バゲットを作りたいと言っていた。古田さんはフランス窯を導入し、任せた。
国産小麦でバゲットを焼くのは難しく、何度も試作を重ねたが、ようやく完成したバゲットは売れなかった。日本人にはまだ馴染みが薄かったのだ。
バゲットをどうやって売るかを考えたときに、古田さんが温めていた「明太子を使ったパンを作りたい」という構想と重なった。職人たちが自ら動きはじめた。
約1年の試作を経て、2002年、「明太フランス」が誕生した。
■任せてみたら、売れた
満を持して発売した明太フランスも、売れなかった。
転機をもたらしたのは、販売チーフを務めていた女性スタッフだった。パンが好きで証券会社を辞めてフルフルに入ってきた。「1本だと女性には大きくて食べにくい。食べやすくカットしてみたらどうですか」と提案してきた。さらに、明太フランスが焼き上がるとお客さんに声をかけ、試食を配りはじめた。
「体育会系でずっとやってきた私には、食べにくいって何だろうと思いましたね」とガハハと笑う。
スタッフの言うとおりに試してみると、流れが変わった。明太フランスは、どんどん売れはじめた。
お客さんの声を聞いてカットする、試食を配り、焼き上がりを伝える。スタッフたちは、焼きたてを届けたいと、まとめて焼くのではなく小刻みに焼くようになった。1日150回。
「お客さんも並ばれるしね、商売的に非効率なのはわかってますよ。でもね、社員がそうしたいって言ってるんだから。私がやめろとは言えないですよ。これは踏ん張らないかんなと」
2009年、「日本一明太フランスを売る店」とメディアに紹介された。看板商品になるにつれて直営店を増やし、卸しは次第に縮小していった。今では売り上げのほとんどが直営店によるもので、卸は約1%にすぎない。自分たちで作ったパンを、自分たちの店で売りたい。あの思いは、現実となった。
「アイデアを出してくれるスタッフがいてくれて本当に助かりました。私の転換点でしたね」
「よっぽど問題でない限り、口を出さない。何かあるときは、参考程度にヒントやアイデアを言うくらい。邪魔しない方がいいなと思ったんです。ものを作るひとの思い、売るひとの思いを。これを大事に育てていこうと思った」
■作っているのは、パンじゃない
ある日、店舗で見かけた光景に目が留まった。スタッフとお客さんが笑顔で会話をしている。パンを受け取るお客さんも、パンを提供するスタッフも笑っていた。
「これいいなあ、と思ったんです」
会話が生まれる場所を作っている。「コミュニティベーカリーを目指す」と決めた。「スーパー行くのが遠いから、パンといっしょに野菜も買いたい」と声が上がれば、敷地内にマルシェを作った。国産小麦のパスタを提供できたらと、イタリアンの店も作った。
「お客さんがよろこんでくれると思ったことはね、すぐ行動しましょうって。いろいろ言わなくても、もう自主的にやってくれてる。社員一人ひとりが経営者みたいな気持ちでね。だから楽なんですよ」
古田さんは利益の5%をスタッフへの投資に使うと決めた。一流の接客やサービスを肌で感じてもらう。体験した社員は、店に戻ってその学びを生かす。
「パンを作ってるんじゃないんですよ。パンを作るひとを作ってるんです」
フルフルが1年間で世に出すパンは100種類以上。そのほとんどが、スタッフ自ら開発した商品だ。
ただし、きれいごとだけではひとはついてこない。
「お客さんに笑顔になって帰ってもらえたら一番うれしい。でも、うちのスタッフにも家族との時間がある。社員も家族なんです。家族を守るのにも、子どもが学校行くのにもお金がいるからね、収入も大事。今はお客さんが支えてくれるから、社員にそれなりに給料を渡すことができるし、休みをとってもらうことができる」
フルフルは、火曜定休。お盆も正月もきっちり休む。辞めても戻ってきてくれる社員がいるという。「それが、うれしい」と古田さんは笑った。
一時期、店舗を県内7店舗まで拡大した。しかし店舗が増えるほどパンの味にばらつきが出た。客足が離れ、福岡市内を中心に5店舗に集約した。この経験から、店舗拡大を目的にしないと決めた。
■店舗拡大より、触れあい
「あと3年ぐらいで社長を交代しようと思っています」
取材も終わりに差しかかる頃、古田さんは静かに口をひらいた。長男は専務としてパン事業を担い、次男は敷地内のイタリアン「クッチーナフルッタ」で腕を振るっている。
「私自身が嫌でしょうがなかったんですから。息子にも、ああしろこうしろとは言わないです。根底にある考え方だけは引き継いでほしいけど、やり方は任せます」
自身も父から、「好きなことをせい」と言われて育った。自分で「この仕事は大事だ」と思えてから、火がついた。言われてやったことは続かない。自分で決めたことだから、続けられる。
失敗も成功も見せてきた。その上で、自分で考えて動いてほしい。子どもの頃、職人も一緒に食卓を囲んでいた。あの風景が、古田さんの商売の原点にある。会社を支える息子さんも、幼い頃に職人たちと食卓を囲み、祖母がつくってくれたまかないのカレーをみんなで食べている光景が頭に残っていると話すそうだ。
「商売っていうのはね、金儲けのためだけにやるんじゃない。携帯電話やらどんどん進んで、家のなかでもひととの触れ合いがなくなってきてるでしょう。ひとの温かさや優しさを感じられるような店を作りたいんです。フルフルのパンをみんなが食べるときに、そういう風景が生まれたらいいなって。それがより良い地域づくりのお手伝いになれば。だから、触れ合いがなくなるような広げ方は、絶対にしてほしくない。息子もそれはわかってきたみたいですね」
■相手を満たせば、自分も満たされる
取材の終わりに、店名の由来を聞いた。直営店を始めるとき、知り合いの設計士に店の設計を頼んだ。名前をどうしようかと相談すると、「フルフルでいいんじゃないの」と言われた。
「フルフルってなんか軽いねって思ったんですけど、古田のフルでいいって。あ、そうかと思って決めたんです」
店名を決めたあと、古田さんは自分なりに理屈をつけた。「フル=full」には「満たす」という意味がある。
「相手を満たせば自分も満たされるという気持ちでね」
「フルフル」
少し照れたように笑った。
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サオリス・ユーフラテス(さおりす・ゆーふらてす)
インタビュアー・ライター
1979年、佐賀生まれ。製薬会社勤務を経て、2007年より14年半リクルートエージェントに勤めた後、2021年に独立。福岡を拠点に人の人生を深掘りするインタビューや、経営者のアウトプットサポートをメインに活動中。
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(インタビュアー・ライター サオリス・ユーフラテス)

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