ルーヴル美術館の至宝、ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を知らない人はいない。美術史ソムリエの井上響さんは「鑑賞者がこの絵を美しいと感じるのは、美人だからではない。
ダ・ヴィンチが編み出した画期的な技法がそう思わせるのだ」という――。
※本稿は、井上響『ムンクは何を叫んでいるのか?』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。
■500年前にダ・ヴィンチが描いた
「世界で一番美しい女性の絵画を挙げてください」
そう聞かれたら、多くの人が『モナ・リザ』と答えるのではないだろうか。
そして、その答えを否定する人はほとんどいないだろう。
では、なぜ『モナ・リザ』は世界で一番美しいのか。
そう聞かれたら、あなたは即答できるだろうか。
「顔が美しいから」
そう答える人が多いかもしれない。確かに、彼女の顔は穏やかで、どこか神秘的な微笑みを浮かべている。しかし、本当にそれだけだろうか。
なぜなら美の基準は時代によって変わる。
10年前に流行していたファッションを思い浮かべてほしい。当時は最先端だったものが、今見ると古臭く感じることがあるだろう。

美の感覚とは、それほど移ろいやすいものなのだ。
そうであるにもかかわらず、『モナ・リザ』は500年以上の時が経っても、美の到達点として語られている。
それは顔立ちが美しいからではない。衣装が豪華だからでもない。
■『モナ・リザ』には輪郭線がない
答えは、技法にある。
『モナ・リザ』の輪郭をよく見てほしい。
頬から顎にかけてのライン。
どこにも明確な線が引かれていないことに気づくだろうか。
境界線がぼんやりとぼかされ、肌と背景が柔らかく溶け合っている。
これは「スフマート」と呼ばれる技法だ。ダ・ヴィンチが生み出したとされる、革命的な手法である。
ダ・ヴィンチ以前、画家たちは輪郭線を描くのが当たり前だった。
対象の形をはっきりと線で縁取り、そこに色を塗る。それが絵画の常識だった。
ダ・ヴィンチはその常識を壊した。
輪郭線を描かず、色と色の境界を何層にもわたってぼかしていく。気の遠くなるような作業を繰り返すことで、まるで本物の人間の肌のような、柔らかな質感を生み出した。
絵なのに、そこに血が通っているように見える。それがスフマートの力だ。
そして、ダ・ヴィンチの作品の中でも、このスフマートが最も見事に使われているのが『モナ・リザ』なのである。
顔が美しいから名画なのではない。それまでの美術史に存在しなかった、まったく新しい美しさを生み出したから名画なのだ。
『モナ・リザ』が世界で一番美しいと言われる理由。それは、美の歴史を塗り替えた1枚だからである。

■ミラノにある有名な「最後の晩餐」
世界で最も有名な食事風景。しかし、この絵には奇妙な点がある。
普通、食事をする時、人は向かい合って座る。
特に13人もいれば、テーブルを囲むはずだ。
それなのに、この絵では全員が同じ側に横一列に並んでいる。
まるで記念写真のように。
なぜダ・ヴィンチは、こんな不自然な構図を選んだのか?
答えは、この食事が「普通の食事」ではないからだ。
これは、裏切りが暴かれる瞬間を描いた絵なのだ。
場面は紀元30年頃のエルサレム。
イエス・キリストと12人の弟子たちの食事のシーン。一見、和やかな夕食に見える。
しかし、たった今、爆弾が投下された。

「この中に、私を裏切る者がいる」
イエスの言葉が、食卓を凍りつかせた。
よく見ると、12人の反応がすべて違う。
驚愕する者、否定する者、隣の者と囁き合う者。
まるで波紋が広がるように、動揺が伝わっていく。
そして、左から4番目の男に注目してほしい。他の弟子たちがイエスの方を向いているのに、この男だけが体を反らし、顔を背けている。
さらに決定的なのは、彼の右手だ。しっかりと袋を握りしめている。
その中身は、銀貨30枚。
イエスを売った代金だ。
■誰が動揺しているかを見せる
この男こそ、イスカリオテのユダ。数時間後、彼はイエスに接吻をして、敵対者に「この人だ」と教える。
その裏切りの報酬が、今まさに彼の手の中にある。
ダ・ヴィンチが全員を横一列に配置したのは、この瞬間を観客に「目撃」させるためだった。
まるで舞台のように、13人全員の表情と仕草が一度に見える。誰が動揺し、誰が怒り、誰が恐れているか。そして、誰が裏切り者か。
中央のイエスだけが、静かに運命を受け入れている。
彼は知っていた。自分がこれから十字架にかけられることも、それが人類の救済のために必要なことも。
『最後の晩餐』という題名の意味がここにある。これは単なる最後の食事ではない。信頼が崩壊し、運命が動き出す、まさに「最後」の瞬間なのだ。

----------

井上 響(いのうえ・ひびき)

美術史ソムリエ、クリエイター

東京大学文学部人文学科美術史学専修卒。
「美術館が2割面白くなる解説」というTikTokアカウントをメインに、西洋絵画の背後にある物語や美術史を誰でも楽しめるように発信。2025年5月現在、SNS総フォロワーは19万人を超えている。著書:『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)。

----------

(美術史ソムリエ、クリエイター 井上 響)
編集部おすすめ