心穏やかに生きるにはどうすればいいか。元結不動密蔵院住職の名取芳彦さんは「世の中は『諸行無常の法則』に逆らえないため、正しいやり方も間違ったやり方もない。
残るのは、『俺のやり方』だから、だれしもが自分のやり方しかできないと考えてみるといい」という――。
※本稿は、名取芳彦『グズを直す本』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
■問題解決の糸口は3つの異なる側面から見る
家族、仕事、イベントなど、自分はみんなと協力してうまくやりたいと思っているのに、他のメンバーが自分勝手で、なかなかスムーズに事が進まない場合があります。こんな時は、「まったく、みんな自分勝手だ」と呆れたり、憤慨したりしたくなるものです。
他人と一緒に何かをする時に、こうした厄介な問題が起きる本質は、「こちらにはこちらの都合があり、相手には相手の都合がある」という点に尽きます。
これをどうにかしたければ、どちらかが相手に合わせて自分の都合を譲るなどの調整が必要です。どう調整するかは目標を共有し、智恵を出し合うしかありません。 
一人で考えても埒が明かなければ、「三人寄れば文殊の智恵」です。3つの異なる側面から問題解決の糸口を見つけるにこしたことはありません。
右の、相手に合わせたり、別の考え方を参考にしたりする思考過程は、問題を解決して心おだやかになるために、私が何かにつけて数秒から数分で行なってきた自己流のメソッドです。
そこに、映画『カジノ』(1995年公開)に登場するセリフに出合い、もう一つの切り口が加わりました。
ラスベガスのカジノ再建を託された主人公(ロバート・デ・ニーロ)が、自分のやり方に対して部下から異議を唱えられた時のセリフです。

「人のやり方には3つある。正しいやり方、間違ったやり方、そして俺のやり方だ(There’s three ways to do things : the right way, the wrong way, and the way that I do it)」
このセリフを聞いた時、私は思わず一時停止ボタンを押して、何度も見直すほど感動しました。
■「正しいやり方」なんて、どこにもない
このセリフでは、「私のやり方」を引き出すために「正しいやり方」と「間違ったやり方」が前置きされます。
ところが、世の中には、だれが何と言おうと絶対に正しいやり方も、いつの時代、どんな場所でも必ず間違っているやり方も存在しません。
それは、あらゆる作られたものは同じ状態を保てないという「諸行無常の法則」に逆らえないからです。改めて簡単に振り返りましょう。
多くの縁が集まると、一つの結果が生まれます(縁起の法則)。この集まる縁は、時間が経過するという縁をはじめ、人の価値観や社会のあり方なども次々に変化していきます。
そのため、結果も変わりつづけ、同じ状態を保つことはありません。これが世界を貫く諸行無常というあり方です。
ですから、「正しいやり方」はいつまでも正しいやり方ではなく、「間違ったやり方」も永遠に間違ったやり方ではないと言えます。
実際、昔は正しいと思われていたやり方が、今では誤りだったということはよくあります。

逆に、昔は間違っていると考えられていたことが、じつは正しかったということもあります。
これは、反証可能性を特徴とする科学の世界で顕著です。間違いが指摘、証明されるまでの暫定的な理論で成り立っているのが科学だからです。
■「みんな自分勝手」なので気にしない
しかし、他にも会社運営、育児方法、ゲームの攻略法に至るまで、「正しいと思われていたことがじつは間違っていた」という事態は、その逆も含めて、ガンジス川の砂の数ほど起こります。
ですから、映画の中で主人公役のデ・ニーロが言った「正しいやり方」も「間違ったやり方」も、不変ではないのです。
残るのは、「俺のやり方」です。他にも「やり方」があるかもしれませんが、みんな自分勝手なやり方をしている状況を納得するには、「みんなが『自分のやり方』をしている」と考えれば十分です。
ここで加えておきたいのは、「みんなが自分勝手なやり方をしているのだから、自分も自分勝手なやり方でいい」と開き直らないほうがいいということです。
結果的に、だれもが自分のやり方が正しいと信じてやっています。それに異議を唱えて、「あなたは間違っている」と熊ゼミの鳴き声なみの声で世界の真ん中で叫んだとしても、何の解決にもなりません。
「みんな自分勝手だ」を「だれしもが自分のやり方しかできない」と考えてみてください。そうすれば、自分と違うやり方に寄り添う余裕が生まれ、心おだやかな時間が確実に増えていくことでしょう。

■自分がしたことはやりっ放しがいい
世の中は、持ちつ持たれつのギブ・アンド・テイクです。「あれをしてもらったら、これを返す」が世の習いでしょう。日本では義理人情の付き合いが、この習わしを継続させる大きな原動力となっているのはご承知の通りです。
日本に来た外国人のビジネスパーソンが、日本人から「先日はどうもありがとうございました」と言われて戸惑うことがあるそうです。数カ月前に仕事の会議で同席したことだと気づき、日本文化に詳しい友人に尋ねました。
「日本人は数カ月も前に会議でたった一度同席したことも覚えておいて、お礼を言わないといけないのか?」
すると友人から「そうですよ。日本人は数カ月前どころか数年前のことも記憶に留めて、次に会った時は、同じ時間、同じ空間を共有できた縁に感謝するのです」と教えられ、彼はビックリ仰天したと言います。
言われてみれば、人情味厚く、義理堅いと言われる人は、そのくらいのことは当たり前のようにこなしています。
そのような人は、嫌だったことは忘れ、受けた恩は忘れず、何かの形でお礼の気持ちを表します。それが社会で生きていくための大切な潤滑油の役目をすると知っているからです。
ですが私は、自分がしたことはやりっ放しでいい、否、やりっ放しがいいという潔さを是としています。それが、仏教の説く「布施の精神」だと思っているからです。

■終わったことはほとんど記憶にない
講演会の講師をして数カ月後に主催関係者に会うと、「先日はありがとうございました」と挨拶されます。私は「何でしたっけ?」と答えることがあります。しらばくれているわけではありません。終わったことはほとんど記憶にないのです。
義理人情のルールに従えば、私を講師に起用してくれたことに感謝し、それを覚えていなければいけません。
しかし私は、自分ができること、お手伝いできることをし終えれば、それで私の役目は終わりという意識がとても強いのです。
かつてお世話になった人がいて、その時はしっかりお礼を言い、品物も贈りました。しかし、その人と久しぶりにお会いした時、私は「その節は」とお礼を言いそびれてしまいました。
すると数週間後、その人が「名取さんは『その節はお世話になり、ありがとうございました』の一言も言わない」と不平を言っているという話が風の便りに聞こえてきました。
その時、私が思ったのは、「そんなに私に恩を着せたいのか、何度もお礼を言われたいのか。そんなつもりなら、世話などしてもらわなくて、けっこう毛だらけだ」でした。
こうしたことをいくつか経験したおかげで、私は気をつけるけれど、相手にはそれを期待しないことが増えました。

■“心配りはする”けれど“心配はしない”
私は長い間かけて作り上げた信頼を一瞬で壊す裏切りはなるべくしないようにと心がける一方で、相手の状況が変化して裏切られることは、思っているより簡単に起きると覚悟しています。
だれかに心配してもらったら、なるべく心配をかけないようにしようとは思います。ですが私は、自分はだれかに“心配りはする”けれど“心配はしない”と決めています。
私たちは、相手がこちらの思っている状態でない時に心配します。いわば、心配するのは自分の思いを相手に“押しつける行為”なのです。
心配しているのに相手がそれに反応をしなければ、「せっかく心配してあげたのに」と愚痴が出ます。そして「じゃ、もう知らないからね」と開き直ってしまいます。どちらも心が乱れている状態で、私が目指す心おだやかな状態ではありません。
こうした考えから、私はなるべく不義理はしないように心がけますが、相手に不義理をされても、梵天耳掻きのお尻についている羽毛を揺らす風ほどにも感じないようになりました。
不義理をしたことに気づいた時の気まずさを「敷居が鴨居になる(敷居が鴨居ほども高くなるために、ある場所に出入りしにくくなってしまうこと)」と言いますが、病気をしてしまった、超がつくほど多忙になったなどの状況の変化により、多少の不義理は仕方がありません。
別の機会に、別の方法で、本人に直接でなくても、別のだれかにご恩返しをしても、長い意味、広い意味で、義理に報いた、恩返ししたとしていいでしょう。義理は少しくらい薄めても、社会の潤滑油としての効果はあるのです。


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名取 芳彦(なとり・ほうげん)

元結不動密蔵院住職

1958年、東京都江戸川区小岩生まれ。密蔵院住職。真言宗豊山派布教研究所所長。豊山流大師講(ご詠歌)詠匠。密蔵院写仏講座・ご詠歌指導など、積極的な布教活動を行っている。主な著書に、『気にしない練習』『人生がすっきりわかるご縁の法則』『ためない練習』『般若心経、心の「大そうじ」』(以上、三笠書房《知的生きかた文庫》)などベストセラー、ロングセラーが多数ある。

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(元結不動密蔵院住職 名取 芳彦)
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