NHK「ばけばけ」では、ヘブン(トミー・バストウ)とトキ(髙石あかり)の仲睦まじい夫婦の様子が描かれている。モデルとなった小泉八雲とセツは、どうだったのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献などから史実に迫る――。
■晩年にかけて「セツ愛」が増していった
NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」は、東京編。子供も生まれて、トキとヘブンの夫婦は円熟味を増している。
きっとモデルである小泉八雲とセツの夫婦も、こんな風に仲睦まじかったのだなあ……と思っている人は多いだろう。確かにそうかもしれないが、やっぱり毎日顔を合わせていると、当然仲良くしてばかりはいられない。なにしろ二人とも、ちょっと変わった性格なのだから。
もともと母の愛情を感じたことのない八雲である。だから、年下のセツには母の面影を見いだしていた。
(参考:だからセツとの距離が一気に縮まった…「ばけばけ」では描かれない、小泉八雲が重ねた「生き別れた母」の面影
特に、晩年になると、それは尋常なものではなくなっていた。このことを、セツはこう回想している。
晩年に健康が衰えたと申していましたが、淋しそうに大層私を力にいたしまして、私が外出することがありますと、まるで赤ん坊の母を慕うように帰るのを大層待っているのです。私の足音を聞きますと、ママさんですかと冗談などいって大喜びでございました。
少しおくれますと車が覆ったのではあるまいか、途中で何か災難でもなかったかと心配したと申しておりました。

(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)
■「セツの鼻の付け根」を撫でていた
結婚した時点で年齢差は18歳。東京へいってからの話だとして40も半ばを過ぎた初老の男が、30歳にも満たない妻にめちゃくちゃ甘えているのである。いくら母の愛情を感じたことが少なかったとはいえ、少々度が過ぎている。ここまで来ると、仲睦まじいというより、いささか気持ち悪い。でも、そんなことはいっさい考えずに八雲が甘える姿を慈しんでいたのだから、セツは大層な度量の持ち主だったといえるだろう。
そんな甘々なセツに対して、八雲はいささか調子に乗っている面もあった。長男・一雄はこんな風に書いている。
父は母を「世界で一番良きママさん」と申して熱愛してはいましたが、何も母を世界一の美人だとも世界一の怜悧な女だとも世界一の貞婦だとも決して思っちゃいなかったのです。

(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)
こう書くと八雲が「いい嫁だけど、顔はイマイチなんですよ~」な感じの話をしてニヤニヤしている男尊女卑な性質の人に聞こえてしまう。でも、そうではない、さすがは文豪というべきか審美眼が独特なのである。それを示すのが、次の一雄の証言だ。

眉間の下、両眼の間から隆起すべき鼻筋の山脈が見当たらずかえってここが一段と低くなりしかも平々坦々と拡がって一小平原状をなしている母の鼻の起源地を父は「こう珍しいもの」と申しまして、指先に柔らかに撫でて不思議がってはいました。

(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)
■「愛し方」が特殊すぎる
もはやいい話ではない。ともすれば一種の変態の類いである。
妻の鼻根部を「一小平原」と表現し、指先で撫でながら「珍しい……」と呟いているわけだ。しかも、一雄が子供の頃の思い出として書いているところを見ると、一度や二度じゃなかったことが推測できる。そうなると、余計にちょっと八雲先生大丈夫かなと思ってしまう。
ここまで記して来たとおり、セツの家族(セツの養母は一貫して同居)、そして女中、さらには書生まで常日頃から同居している。しかも、一雄が鮮明に覚えているところを見ると、子供も増えてからの時期の出来事であろう。そんな家で、しかも子供の前で父親が母親の鼻の付け根を、撫でているのだ。八雲が、セツを愛しているのは間違いない。ただその愛し方が、あまりにも特殊だったのだというわけだ。
さらに、八雲のセツへの愛情表現は体形にまで及んでいく。
セツは若い頃は太っていて体重も多かった。ところが、八雲がセツを呼ぶときには絶対にsmallかlittleという一言を添えていた。手紙で書くなら「小ママさん」という具合である。さらに、褒める言葉も多かった。
「小羊の香のママ」「私の小さい肥った雌鶏」「小餅のママ」などセツを褒めるために、八雲は様々な言葉を生み出している。
■幼児が母親に贈るような言葉に近い
いやいや、これで褒め言葉になっているというのは、少しおかしい。「小餅のママ」なんて遠回しに肥っていることを揶揄しているようにしか聞こえない。「私の小さい肥った雌鶏」は、もはや褒め言葉ではなく悪口である。
これは重要なポイントだ。八雲の言葉の感覚が独特すぎて、悪口と愛情表現の境界線が溶けてしまっているのである。あるいはセツの側が、八雲という人間の「言語」を完全に習得していたということかもしれない。夫婦とはいえ、英語と日本語という言葉の壁がある二人だ。
それでも長年連れ添ううちに、セツは八雲の発する言葉の意味よりも、その背後にある感情を読み取ることに長けていったのだろう。
そう考えると、これらの奇妙なあだ名には共通点がある。どれも、幼児が母親に贈るような言葉に近いのだ。「小餅」「小羊」「雌鶏」いずれも柔らかく、丸く、温かいものである。母の愛情を知らずに育った八雲が、生涯をかけてセツの中に見出し続けたものが、そこに凝縮されている。悪口にしか聞こえないあだ名も、文豪らしからぬ幼稚な甘え方も、すべてはその裏返しだったのだ。
もう初老を迎えて、かつ子供もいるというのに目を気にせずに子供みたいに甘える八雲と、それを「あらまあ」とニコニコしているセツ。それは、とても微笑ましい光景といえるかもしれない。
■セツは激昂すると収拾つかない性格
しかし、日々の暮らしは、そんな楽しいことばかりではない。夫婦喧嘩だって起きる。しかも常にセツの圧勝である。なにしろセツは激昂すると収拾がつかない性格なのだ。

一雄の回想には、喧嘩の果てに母が激昂して手がつけられなくなった話があちこちに出てくる。中でも最も激しかった喧嘩の種は、なんと女性がらみだった。
1901年、八雲が東京帝国大学で教壇に立っていた頃のことである。当時日本に滞在していたイギリス人教育者、エリザベス・フィリップス・ヒュースという女性が、どこで聞きつけたか、八雲の講義中の教室に断りもなく入ってきた。
もともと人嫌いの八雲である。見知らぬ闖入者にイラッとしながら授業を終え、さっさと帰ろうとした。するとヒュースがいきなり握手を求めてきた。狼狽した八雲は、本を一冊落としたまま逃げるように帰ってしまった。
これを好機と見たのがヒュースだ。落とした本を届けるという口実で八雲の自宅を訪問する。正直、このヒュースの目的がわからない。この女性、日本にはスウェーデン体操を伝えるなど教育では実績も残した人物なのだが、行動がほとんどストーカーである。
いや、単に「文豪として知られる八雲先生とお近づきになりたい」という天然な人だったのか。まあ、なんにせよ一雄の文章を読むと、めちゃくちゃ不快な人であることはわかる。
ともあれ、事情をよく知らないセツはヒュースと話が弾んだのか、どういうことか、後日、ヒュースらが主催するお茶会に招かれることになってしまった。
■「ヒステリーを起こし、歯を喰いしばって倒れた」
問題はここからだ。セツはそのことを八雲に伝えるのをすっかり忘れ、お茶会から帰ってきてから事後報告になってしまったのである。
当然、八雲のほうも激怒である。一雄はその出来事を、こう回想している。
父は蒼白な顔をして「あなた英語知るない事、今日何ぼう幸せでした」と叫んだ。母は例によってヒステリーを起こしてそこらへんの物を手当たり次第に床へ叩きつけた後、虚空を掴み、歯を喰いしばって倒れた。「お祖母様! 早く来て下され、ママさん又あの病気です!」と父は二階から祖母を呼び、書生新見君も母の背を圧さえるべく呼ばれ、女中達も気付薬を運ぶやら、床を延べるやらの騒ぎがあった。

(小泉一雄『父小泉八雲』小山書店、1950年)
「又あの病気です!」とあるあたり、セツはブチ切れるとついには倒れてしまうタイプだったことが窺える。しかも一雄の筆致からは、総動員体制がすでに確立していたことが垣間見える。祖母、書生、女中と、それぞれの役割分担が手慣れたもので、おそらくこの家では「ママさんが倒れる」ことへの対応マニュアルが自然と出来上がっていたのだろう。
■「ヒュースの件」だけは我慢できなかった
こんな妻を相手に喧嘩などできるはずがない。怒らせてしまったら、なだめるかスルーするしかない。実際、八雲はセツの怒りをスルーすることにも慣れていた。
後年、静岡県の焼津に避暑で滞在していた際、八雲は地元の壊れた地蔵を石屋に作らせ、寄贈者として一雄の名前を刻んだ。それを知ったセツが「地蔵は子供が死んだ時などに作るもので縁起でもない」と激怒すると、八雲は「ほほウ、ママさんまた立腹です」とつぶやいて受け流したという(小泉一雄『父「八雲」を憶ふ』警醒社、1931年)。
そんな八雲が、ヒュースの件だけは我慢できなかった。「あんな女に呼ばれてノコノコ出かけるとは何事か」という怒りを、珍しく抑えられなかったのだろう。
なお、八雲の警戒心は正しかった、と後に証明されることになる。八雲の死後、遺稿の編集が進む中、ヒュースは編集者に「私は八雲とは親友だった」と連絡をよこしてきたのだ。迷惑この上ない。
父親以上にシニカルだった一雄は、ヒュースが「私もハーンも同じケルト人です(注:ヒュースはウェールズの生まれ、ハーンは父親がアイルランド人なので2000年くらい前の先祖はケルト人かもしれない)」と主張していたことを取り上げ、こう切り捨てている。「キリストを売ったユダは、同じユダヤ人ではなかったでしょうか」と(小泉一雄『父「八雲」を憶ふ』警醒社、1931年)。
■長男、お嫁さんにするのは「ヒステリーでない人」
ともあれ、愛情表現がいささか変わっている八雲であるが、セツを全力で愛していたのは事実。ただし、喧嘩となるとヒステリーを起こされて確実に自分が負けてしまう。かつ、地蔵のようによかれと思ってやったら激怒するしで、どこが感情の地雷なのかわからないという点では閉口していたようである。
この慈しみ深い妻であり母であるセツの感情のブレは家族にとっての悩みでもあった。一雄は、心底「これさえなければ……」と思っていた心情を、こう綴っている。
母に一生取憑いていたヒステリーなるものを無限に恨み憎み呪うのである。私は幼少の頃「一雄さんは大きくなったらどんなお嫁さんを貰う?」と聞かれると「ヒステリーでない人と答えた」

(小泉一雄『父小泉八雲』小山書店、1950年)
一雄がここまで書くのは理由もある。なにしろ、セツのヒステリーの被害は一雄にも及んでいたからだ。
一雄は自分と女中が食べた卵の数をごまかした時に母が激怒したことを回想している。その激怒たるや「気も狂います。皆が妾を馬鹿にするから!」と金切り声をあげて、障子まで突き破るというもの。
■朝ドラでは見せられない光景
この時のくらい発作の激しかったことは実に空前絶後です。私は散々に打たれたり、蹴られたり、抓られたり、頭髪や耳を掴んで引き摺られたりしました。「あんなにつねに可愛がって下さる母が……これは確かに気が違っちゃったのだ。私は殺されてもいいからどうか母が気が狂ったのではありませんように……」と打擲されながらも子供心にこう念じました。
いや、卵を食べただけで、セツは愛する息子をボコボコに殴っていたのである。とても朝の連続テレビ小説では見せられない光景だ。なお、一雄は無事に妻を迎え、その子孫が民俗学者の小泉凡である。果たして、一雄の妻がヒステリーであったかなかったかは、調べたがわからなかった。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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