※本稿は『ちくま日本文学036 萩原朔太郎』(筑摩書房)の一部を再編集したものです。一部に現在では差別的な言葉とされている表現がありますが、昭和16年発表の原文のまま掲載しています。
■萩原朔太郎から見た「小泉八雲」
万葉集にある浦島の長歌を愛誦(あいしょう)し、日夜低吟(ていぎん)しながら逍遥(しょうよう)していたという小泉八雲は、まさしく彼自身が浦島の子であった。希臘(ギリシャ)イオニア列島の一つである地中海の一孤島に生れ、愛蘭土(アイルランド)で育ち、仏蘭西(フランス)に遊び米国に渡て職を求め、西印度(インド)に巡遊(じゅんゆう)し、ついに極東の日本に漂泊して、その数奇な一生を終ったヘルンは、魂のイデーする(編集部註:理想である)桃源郷の夢を求めて、世界を当(あて)なくさまよい歩いたボヘミアンであり、正に浦島の子と同じく、悲しき『永遠の漂泊者』であった。
しかしこの悲しい宿命者も、さすがに日本に渡ってからは、多少の平和と幸福を経験した。日本は後年の彼にとって、最初の幻惑した印象のごとく、理想の桃源郷やフェアリイランドではなかった――後年彼は友人に手紙を送り、ここもまた我が住むべき里に非(あら)ずと言って嘆息した――けれども、貞淑で美しい妻をめとり、三人の愛児を生み、平和で楽しい家庭生活をするようになってから、寂しいながらも満足な晩年を経験した。
■ハーンは平均身長の低い日本になじんだ
ヘルン自ら、絶えずそれを羞恥(しゅうち)したごとく、彼のように短身矮躯(たんしんわいく)で、かつ不具に近い近眼の隻眼者(せきがんしゃ)で、その上に気むずかし屋の社交下手であったことから、至るところ西洋の女性に嫌われ通していた男が、日本に来て初めて人並の身長者となり、人並以上の美人を妻としかつその妻に終世深く愛されたことは、いかにしても得がたき望外の幸福であったろう。
彼の妻(小泉節子夫人)が、その旧日本的な美徳によって、いかに貞淑に良人(おっと)に仕え、いかによく彼を愛し理解していたかということは、後年彼が多少日本に幻滅して、在外の友人に日本の悪評を書いた時さえ、日本の女性に対してだけは、一貫して絶讃(ぜっさん)の言葉を惜まなかったことによっても、またその多くの『怪談』に出て来る日本の女性が、ちょうど彼の妻を聯想(れんそう)させるごとき貞婦であり、旧日本的なる婦道の美徳や、そうした女に特有の淑(しと)やかさいじらしさ、愛らしさを完備した女性であることによっても知られるのである。
■節子夫人のいる家庭が安らぎだった
筆者がかつて評論した、有名なヘルンのエッセイ『ある女の日記』も、校本に拠(よ)るところがあるとは言いながら、実はその愛妻節子夫人を、半面のモデルにしたものと言われている。幼にして母を失い、他人の家に養われ、貧困の中に育ち、飢餓と冷遇を忍びながら、職を求めて漂泊し、人の世の惨(さん)たる辛苦(しんく)を嘗(な)めつくして、しかも常に魂の充たされない孤独に寂しんでいたヘルンにとって、日本はついにそのハイマート(編集部註:ドイツ語で故郷)でなかったにしろ、すくなくともその妻に抱擁された家庭だけは、彼の最後に祝福された、唯一の楽しい安住の故郷であった。おそらくヘルンはその時初めて心の隅(すみ)に、幸福という物の侘(わび)しい実体を見たのであろう。
■小泉八雲が妻子を最優先したワケ
すべて貧困の家に育ち、肉親の愛にめぐまれずして家庭的、環境的の不遇に成長した人々は、そのかつて充たされなかった心の飢餓を、他の何物にも増して熱情するため、後に彼が一家の主人となった場合、その妻子の忠実な保護者となり、家庭を楽園化することに熱心である。
ラフカジオ・ヘルンの場合も、またその同じ例にもれなかった。彼が日本に帰化したことも、普通の常識が思惟(しい)するように、日本を真に愛したからではなかった。その頃の彼は、日本をもはや『夢の国』としては見ていなかった。そして『西洋の国々と同じく、ここにもやはり醜い生存競争があり、常々不義や奸計が行われている』と、地上の現実社会である日本を見ている。
詩人がその空想の中で画(えが)くような、ファンタスチックな夢の国は、現実の地球上にあるはずがない。しかも宿命的な詩人の悲願は、その有り得べからざる夢の国を、生涯夢見続けることの熱情にある。初めからボヘミアンであったヘルンは、晩年においてもなおボヘミアンであり、永遠に故郷を持たない浦島だった。もし彼に妻子がなかったら、日本に幻滅した最初の日に、再度また『まだ知らぬ新しい国』を探すために、あてのない漂泊の旅に出発したにちがいなかった。
■妻を英国籍に入れなかったのは…
だがその時、彼はその妻や子供のことを考えた。既に老いの近づいたヘルンは、自分の死後における妻子の地位を考えた。そして国籍を持たない家族が、財産上にも生命上にも、日本の政府から保護を受け得ないことを考えた。
東京帝国大学の招聘(しょうへい)に応じて、松江や熊本の地を去ったことも、同じくヘルンの身にとっては、愛する妻への献身的な犠牲だった。上陸当初の日に一瞥(いちべつ)して嘔吐を催し、現代日本の醜悪面を代表する都会と罵(ののし)り、世界のどんな汚い俗悪の都市より、もっと殺風景で非芸術的な都市と評した東京は、彼が死んでも住みたくない所であった。
■東京に移ったのは妻のためと言った
しかも彼の夫人にとって――世の多くの若い女性と同じく――東京はあこがれの都であり、そこでの生活は一生最高の理想であった。『わたし、フロックコート着る。東京に住む。皆(みな)あなたのためです』と、さすがにヘルンも夫人に愚痴(ぐち)をこぼしている。夫人もよくその良人の心を知り、『ヘルンの一生は、皆私や子供のために尽(つく)してくれた犠牲でした。勿体(もったい)ないほどありがたいことでした』と、その追懐談(ついかいだん)の中で沁々(しみじみ)と語っている。
■「かわいいママさま」と手紙に書いた
彼がいかにその妻を熱愛していたかは、焼津の旅先から、留守居の妻に送った手紙によく現われている。
小サイ可愛(カワイ)イママサマ。
ヨク来タト申シタイアナタノ可愛イ手紙、今朝参リマシタ。口デ言エナイホド喜ビマシタ。<
ママサマ、少シモアブナイ事ハアリマセン。ドウゾ案ジナイデ下サイ。今年ハ一度モ[#「一度モ」は底本では「一度も」]夜ノ海ニ行キマセン。乙吉(オトキチ)ト新美(シンミ)ノ二人ガ、子供ヲ大事ニ気ヲ附(ツ)ケマス。(編集部註:セツと八雲の長男)一雄ハ深イ所デ泳イデモ危イコトハアリマセン。コノ夏ハクラゲヲ大変恐レマス。シカシヨク泳ギ、ソシテヨク遊ビマス。
アノ成田様ノオ護符(マモリ)ノコトヲ思ウ。アノイワレハ可愛ラシイモノデス。
私少シ淋シイ。今アナタノ顔ヲ見ナイノハ。マダデスカ。見タイモノデス。
蚤(ノミ)ガ群ッテ集マルノデ眠ルノハ少シムツカシイ。シカシ朝、海デ泳グカラ、皆、夜ノ心配ヲ忘レマス。
今年私ハ、小サイタライノオ風呂ニ二三日ゴトニ入リマス。
焼津 八月十七日
パパカラ
可愛イ子ニ、ソレカラ皆ノ人ニヨロシク。
小泉八雲
小サイ可愛イママサマ。
今朝成田様ノオマモリガ参リマシタ。パパハ乙吉ニヤリマシタ。スルト大変喜ビマシタ。
ママニ願ウ。自分ノ身体ヲ可愛ガルヨウニ。今アナタ忙ガシイデショウネ。大工(ダイク)ヤ壁屋(カベヤ)ヤ沢山(タクサン)ノ仕事デ。デスカラ身体ヲ大事ニスルヨウニクレグレモ願イマス。私今日ハ忙ガシカッタ。本屋ガ校正ヲヨコシタカラ。シカシモウ皆スマセマシタ。
(編集部註:セツと八雲の次男)巌(イワヲ)ト一雄、丈夫(ジョウブ)デ可愛ラシイ。海デ沢山遊ビ黒クナリマシタ。乙吉ハ二人ヲ大事ニシテクレマス。勉強毎日シマス。
サヨナラ、可愛イママサマ。
オババサンニ可愛イ言葉。
子供ニ接吻(セップン)。
焼津 八月十八日
小泉八雲
■セツの義母も大切にしていた
この情緒纏綿(じょうしょてんめん)たる手紙は、新婚当時の手紙ではない。結婚十数年、ヘルン既に五十歳を過ぎ、二人の男児と一人の女児の親となってる晩年の手紙である。妻を愛称して『小サイ可愛イママサマ』と呼んでるヘルンは、同時にいかにまた子煩悩(こぼんのう)であったかが解(わか)る。
彼はいつも手紙の終りに『オババサマニヨロシク』とか『オババサマニ可愛イ言葉』とか書いている。オババサマとは彼の妻の母であって、名義上、小泉家の養子たる彼にとっては、姑の義母に当る老婦人である。ヘルンはその妻と共に、姑の老婦人と一家に同居し、純日本風の仕方でよく孝養の道を尽した。この姑の婦人もまた、旧武士の家庭に育った士族の娘で、純日本風の礼儀正しき教育を受け、かつ極めて善良に優しい心根の人であった。
ヘルンの文学に出る日本婦人のモデルは、多くその妻に非(あら)ずば姑の老婦人だといわれてるが、すくなくともヘルンは、この点での好運にめぐまれていた。なぜなら日本においても、それほど貞淑な妻や善良な姑は、一般に沢山は居ないからである。それ故ある人々は、ヘルンがもし悪妻をめとり、意地悪の姑等と同居したら、彼の神国日本観は、おそらく顛倒(てんとう)した結果になったろうと言っている。
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萩原 朔太郎(はぎわら・さくたろう)
詩人
1886年、群馬県前橋市生まれ。熊本の第五高等学校、岡山の第六高等学校をともに中退。1913年、27歳のときから詩人として作品を発表する。1917年第一詩集『月に吠える』で高く評価される。第二詩集『青猫』も評判となり、日本の近代詩を確立した。他の作品に『氷島』『猫町』など。1942年に55歳で没
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(詩人 萩原 朔太郎)

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