小泉八雲は妻セツとの間に長男、次男だけでなく、51歳のときに三男、53歳のときに長女をもうけた。その家庭生活を、詩人の萩原朔太郎が「小泉八雲の家庭生活 室生犀星と佐藤春夫の二詩友を偲びつつ」(昭和16年)にまとめている。
一部を紹介する――。
※本稿は『ちくま日本文学036 萩原朔太郎』(筑摩書房)の一部を再編集したものです。
■ハーンは純日本風の住まいを好んだ
ヘルンの生活様式は、全く純日本風であった。彼はいつも和服――特に浴衣を好んだ――を着、畳の上に正坐(せいざ)し、日本の煙管(きせる)で刻煙草(きざみたばこ)を詰めて吸ってた。食事も米の飯に味噌汁、野菜の漬物や煮魚を食い、夜は二三合の日本酒を晩酌にたしなんだ。(しかし朝はウイスキイを用い、ビフテキも好んで食った。)住居は度々(たびたび)変ったが、純日本風の家を好んで、少しでも洋風を加味したものを嫌った。
日本人の知人を訪問しても、洋風の応接間などに通されると、帰ってからも甚(はなは)だ不機嫌であった。当時の日本は、文明開化の欧米心酔時代であったので、至るところ、彼はそうした不機嫌の目に逢わされた。日本人は立派な文明を持っていながら好んで野蛮人の真似をしたがると、彼は常に不満を述べていた。『野蛮人』という言葉は、彼の語藻(ごそう)において『西洋人』と同字義であった。
そうしたヘルンの生活は、極めて質素のものであった。
彼は学生に向っても、常に奢侈(しゃし)を戒めて質素を説き、生活を簡易化することの利得を説いた。贅沢な暮しをするほど、生活が煩瑣(はんさ)に複雑化して来て、仕事に専念することができなくなるからである。一日二三合の米の飯と、少しばかりの副食物と、二三合の日本酒とさえあれば、それで私の生活は充分であると、その訪問客に語っているヘルンは、実際に学者風の簡易生活をしていたのである。
■音がすると「私の考え破れました」
しかし彼の精神生活は、反対に極めてデリケートで贅沢だった。いやしくもその詩興を損い、趣味を害するようなものは――人でも、家具でも、物音でも――絶対にその家庭に入れなかった。書斎に仕事をしている時のヘルンは、周囲のちょっとした物音にも、すぐ『私の考え破れました』といって、腹立しくペンを投げた。夫人はその追想記の中で、箪笥(たんす)の抽出(ひきだし)を開けるにさえも、そッと音を立てぬように気をつけたと書いている。しかしその他の場合では、罪のない笑談(じょうだん)を言ったりして、妻や子供の家族を笑わせ、女中までも仲間に入れて、一家団欒(だんらん)の空気を作った。
■妻・節子との間に4児が生まれた
どこへ旅行する時にも、彼はいつもその妻と同伴した。唯一の例外は、二児を連れて焼津へ行った時だけだった。(その時末の女の児が生れたばかりで、母の手を離れることが出来なかったから。)そうした彼の習慣は、普通に多くの西洋人が、彼等の風習によってするごとき、単なる形式的のものではなかった。
『私少シ淋シイ。今アナタノ顔見ナイノハ。マダデスカ。早ク見タイモノデス』という焼津の手紙でも解るように、妻と同伴することなしには、どんな旅行も楽しくないほど、夫人を熱愛していたからだった。
まだ子供が出来ない頃、この新婚の若夫婦は、山陰道の辺鄙(へんぴ)な島々を旅し歩いた。それは本土との交通がほとんどなく、少数の貧しい漁夫たちが、所々の寂しい山蔭(やまかげ)に住んでるような、暗く荒寥(こうりょう)とした島嶼(とうしょ)であった。人跡(ひとあと)絶えた山道には、人力車の通う術もなかったので、二人の若い男女は、互(たがい)に助け合いながら、蔦葛(つたかずら)の這(は)う細道を、幾時間となくさまよい歩いた。そして気味わるく物凄い顔をした、雲助(編集部註:宿場の人夫など)のような男たちに脅やかされたり、黒塚の一軒家のような家に泊って、白髪の恐ろしい老婆に睨まれたりした。
夫人はその時のことを追想して、草双紙で読んだ昔物語を、そっくり現実に経験した様だったと言ってる。新婚まもなく若い稚気(ちき)のぬけなかった夫人は、恐らく恐怖にふるえながらも、人生の最も楽しく忘れ得ない夢を経験したのだ。
■東京でも静かな場所を好んだ
ヘルンは常に散歩を好み、学校の帰途などには、まだ知らない町の隅々を徘徊したが、新しい興味の対象を見出すごとに、必ず妻を連れてそこへ再度案内した。『今日私、面白い所見つけました。
あなた一所に行きます』と言って、ヘルンが妻を連れ出す所はたいてい多くは寂しい静閑の所であり、寺院の墓地や、邸(やしき)の空庭や、小高い見晴らしの丘などであった。つまり一口にいえば、今の日本の若い娘たちが、最も退屈を感じて『詰(つ)まンないの』というような場所であった。
しかし琴、生花、茶道によって教育され、和歌や昔物語によって、物のあわれの風雅を知ってた彼の妻は、良人と共に、その楽しみを別ち味わうことができた。しかしある時、ヘルンが案内して連れ出した所は、暗い闇夜の野道の中に、小高い丘があるばかりで、周囲は一面の稲田であった。何の見る物もなく風情もないので、夫人が怪しんで質問したところ、ヘルンは耳を指して、『お聴きなさい。なんぼ楽しいの歌でしょう』と言った。あたり一面、稲田の中で蛙(かえる)が雨のように鳴いていたのである。
■東京で初めて一軒家を買う
松江から東京に移るまで、ヘルン夫妻は、自分の家を持たなかった。ある時は下宿をしたり、ある時は間借りをしたり、ある時は借家をしたりして、常に住居を転々としていた。しかし東京へ移ってから、子供が大ぜい生れたりして、家内(やうち)が狭くなった上に、貯財も少し出来て来たので、夫人のすすめで売家を一軒買うことにした。
ある日二人は、例によって睦じく連れそいながら、牛込辺(うしごめあたり)の売邸を探しに歩いた。すると一軒頃合(ころあい)の家が見つかった。
それは昔の旗本が住んでた屋敷で、大きな武家風の門があり、庭には蓮池などがあった。しかし何となく陰気に薄暗くじめじめして、妙に気味の悪い厭(いや)な感じがしたので、夫人が直覚的に反対したにもかかわらず、ヘルンは一見して大いに気に入り、『面白いの家』『面白いの家』と、子供のように嬉しがって、是非それを買おうと言った。
結局それは、夫人の強硬な反対によって中止されたが、後でそれが有名な化物(ばけもの)屋敷と解った時、夫人がほッと胸を撫でおろしたとは反対に、ヘルンは大変失望して、『ですからなぜ、あの家住みませんでしたか。私あの家、面白いの家と思いました』と幾度も繰返して口惜(くや)しがった。
■日本語はあまり覚えなかった
ヘルンについての一不思議は、あれほど広く多方面の文献に亘(わた)って、日本人以上に日本のことを知っていながら、日本語をほとんど知らなかったということである。彼の知ってた日本文字は、片仮名のイロハと僅少(きんしょう)の漢字にすぎず、彼の語る日本語は、焼津からの手紙にある通り、不思議な文法によって独創された、子供の片言のような日本語である。
後に買った大久保の家に、書斎を新しく建て増しする時、一切の設計や事務を妻に一任して、自分は全く無頓着(むとんちゃく)で居たが、それでも妻が時々相談を持ちかけると、『もう、あの家よろしいの時、あなた言いましょう。今日パパさん、大久保にお出で下され。私この家に、朝さよならします。と大学に参る。よろしいの時、大久保に参ります。あの新しい家に。
ただこれだけです』と煩(わずら)わしそうに言った。

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萩原 朔太郎(はぎわら・さくたろう)

詩人

1886年、群馬県前橋市生まれ。熊本の第五高等学校、岡山の第六高等学校をともに中退。1913年、27歳のときから詩人として作品を発表する。1917年第一詩集『月に吠える』で高く評価される。第二詩集『青猫』も評判となり、日本の近代詩を確立した。他の作品に『氷島』『猫町』など。1942年に55歳で没

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(詩人 萩原 朔太郎)
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