日本に帰化したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲は、妻・節子(セツ)を深く愛した。その仲睦まじい夫婦の様子を、詩人の萩原朔太郎が「小泉八雲の家庭生活 室生犀星と佐藤春夫の二詩友を偲びつつ」(昭和16年)に書いている。
一部を紹介する――。
※本稿は『ちくま日本文学036 萩原朔太郎』(筑摩書房)の一部を再編集したものです。
■息子も理解できない「ヘルンさん言葉」
ヘルンの日本語は、ヘルンの家族以外の人々には、容易に意味がわからなかった。家族の人々は、それを『ヘルンさん言葉』と呼んで面白がった。そうした奇妙な日本語は、時にしばしば、家庭内のユーモラスな流行語となったであろう。化物屋敷の一件以来、おそらくは『面白いの家』という言葉などが、一種の反語として家族中に流行し、すべての不潔の家、陰気な家などを指す代名詞になったであろう。それは結果において、一層八雲の家庭を楽しく団欒的のものにした。
しかしヘルンの奇妙な言葉を、真に完全に理解し得たものは、彼の妻より外にはなかった。そういう場合に、妻もまたヘルンさんの言葉を使って応答した。二人の仲の好い成人(おとな)が、子供の片言のようなことをしゃべり合って、何時間もの長い間、笑ったり戯れたりしている風景こそ、おそらく真にフェアリイランド的であったろう。
そうした夫婦の会話は女中や下僕(げぼく)にはもちろんのこと、子供たちにさえもよく解らなかった。『内のパパとママとは、だれにも解らない不思議な言葉でだれにも解らない神秘のことを話している』と、学校へ行ってる男の子が、自慢らしく仲間の子供に語ったほど、それは奇妙な別世界の会話であった。
(子供と会話する時には、ヘルンは多く英語を用いた。)
■夫婦だけで愛を育んだ会話
元来人間の会話というものは、動物に比して甚だ不完全なものである。犬や小鳥やの動物は、単に鼻を嗅(か)ぎ合うとか、尾を振り合うとか、目をちょっと見合すとかいうだけで、相互の意志が完全に疎通するのに、人間は廻(まわ)りくどく長たらしい会話をして、しかもなお容易に意志を通じ得ない。自分の意志や感情やを、真によく対手(あいて)に呑(の)み込んでもらうためには、対手が自分の親友知己(ちき)であり、自分の心持ちや性格やを、充分によく知っているものでない限り百万言を費して無駄になる場合が多い。単に眼を見合すだけで、一切の意味が了解される恋人同士の間には、普通の意味での言葉や会話は、全く必要がないのである。そしてヘルン夫妻の奇妙な会話が、おそらくそういう種類のものであろう。
『人生でいちばん楽しい瞬間は』とゲーテが言ってる。『だれにも解らない二人だけの言葉で、だれにも解らない二人だけの秘密や楽しみやを、愛人同士で語り合っている時である』と。同じ家の中に住んでる家族の者にさえも、ほとんど全く解らない不思議な言葉で、何時間も倦(あ)きずに睦じく語り合ってた二人の男女こそ、この世における最も理想的に幸福な夫婦であった。すべての恋する人々は、自分等以外に全く人影のない離れ小島の無人島で、心行くまで二人だけの生活をし、二人だけの会話をしたいと願うのである。
■八雲が喜んだ「華族の老婦人」の話
そしてヘルン夫妻の生活が、正にそうした通りの理想であった。彼等の愛人同士は、周囲に多くの人々が住んでる環境に居て、しかも無人島に居る二人だけの会話を会話し、二人だけの生活を自由に享楽していたのであった。

晩餐(ばんさん)の時、ヘルンはいつも二三本の日本酒を盃(さかずき)で傾けながら、甚だ上機嫌に朗かだった。夫人や家族の者たちは、彼の左右に侍(はべ)って酌(しゃく)をしながら、その日の日本新聞を読んできかせた。(ヘルン自身には、英字新聞しか読めなかったから。)
ある日の新聞に、次のような記事が出ていた。山の手の某所に住んでるある華族の老婦人が、非常に極端な西洋嫌いで、何でも舶来のものやハイカラなものは、一切『西洋臭(くさ)い』と言って使用しない。そのためその家では、シャボンやランプはもちろんのこと女中たちの髪飾(かみかざり)や持物に至るまで、すべて禁令がやかましく、万事皆昔の大名御殿(だいみょうごてん)にそっくりなので、どの女中も居つかずに逃げ出してしまい、人に頼んで募集しても、『あのお邸なら真ッぴら、真ッぴら』と言って寄りつかない、というような記事が明治時代の新聞に特有な洒落本口調(しゃれぼんくちょう)で書いてあった。
■節子夫人にからかわれて…
夫人がそれを読んできかすと、ヘルンはすっかり上機嫌になってしまい、『いかに面白い。いかに面白い』と、子供のように手を拍(う)って悦(よろこ)びながら、『私、その人大好きです。そのような人、私の一番の友達。私見る好きです。その家、私是非見る好きです。私、少しも西洋臭くない』と言って大満足なので、『あなた西洋臭くないでしょう。
しかし、あなた鼻高い。眼青い。駄目(だめ)です』などと夫人にからかわれ、『あ、どうしよう、私この鼻』など言って悄気返(しょげかえ)り、『真ッぴら、真ッぴら』と、今おぼえたばかりの日本語を面白がって使ったりして、夫人や女中たちを大笑いさせたりしているのだが、その後で、『しかし、よく思うて下さい。私この小泉八雲、日本人よりも本当の日本を愛するのです』と言ったヘルンは、真に日本を熱愛した詩人であった。
晩年多少日本に幻滅を感じた時でさえも、他の外人が日本を悪意的に批評する時、いつも憤然として大(おおい)に怒り、さながら自分の愛人を侮辱された時の騎士のごとく、鋭い反撃の槍(やり)をふるって突き当って行った。そうした八雲の心理は、我が子の魯鈍(ろどん)に幻滅を感じてる親が、他人から、その愛児の悪評を聞いて怒る心理と、よく似たものであったと思われる。
■西洋化する日本を悲しんだ
日本が西洋臭くなり日本の文化や風俗やが、日々にますます欧米化して来ることは、ヘルンにとって忍びがたい悲哀であった。なかんずくヘルンを最も悲しませたのは、盆踊(ぼんおどり)等の農村行事や風俗やが、明治政府によって禁圧されたことから、自然に衰褪(すいたい)して来ることだった。彼はそれを憤慨しているが、むしろ彼の真の怒りは基督(キリスト)教に向っていた。政府が盆踊を禁ずるのも、国民が欧米人の真似(まね)をするのも、固有の日本文化が亡びるのも、すべて皆基督教の宣教師が宣伝するためであり、一切の悪は耶蘇(やそ)教の罪に帰せられた。
『皆、耶蘇がさせるのです。耶蘇が皆悪くするのです。
耶蘇、日本の敵です』と、至るところで彼は耶蘇教を罵り、その宣教師を仇敵のごとく憎んでいる。そうした彼は、事実上において熱心な仏教信者でもあった。彼の信仰の中には、仏教的な輪廻永生思想があり、それがヘルンらしい純情の詩人的想像によって、一種独特の人生観にまで展開していた。『自分が死んでから、後生が鳥や虫に生れ変るとしても、自分は少しも悲しいと思わない。なぜなら鳥や虫の生活の方が、人間よりも不幸であるとは思えないから』と、あるエッセイの中で書いてるヘルンは、日本人の民族化した仏教情操であるところの、あの『物のあわれ』の抒情的ペーソスを知ってたのである。
■寺の住職になりたいと言い出した
そうしたヘルンの小泉八雲が、常に最も好んだ散歩区域は、寺院の閑静な境内だった。特に東京の富久町(とみひさちょう)に居た時には、近所の瘤寺(こぶでら)へ毎日のように出かけて行った。その寺は庭が広く、背後に老杉の茂った林があったので、彼の瞑想的(めいそうてき)な散歩に最も好ましい所であった。寺の老僧とも懇意になり、ついにある時、自分がその住持になりたいと言い出し、夫人と次のような問答をした。
『ママさん私この寺に坐(すわ)る。むずかしいでしょうか』

『あなた、坊さんでない。ですから、むずかしいですね』

『私、坊さん。
なんぼ仕合せですね。坊さんになるさえもよきです』

『あなた、坊さんになる。面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よき坊さんです』

『その同じ時、あなた比丘尼(びくに)となりましょう。一雄(長男)小さい坊主です。いかに可愛いでしょう。毎日経よむと墓を弔(とむら)いするで、よろこぶの生きるです』

『あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい』

『ああ、私願うです』
人間よりも、虫や鳥の方が幸福だと言ったヘルンは、人生について、悲哀の外の何物をも知らなかった。厭離一切娑婆世界(おんりいっさいしゃばせかい)の厭世観は、ヘルンの多くの作品中に一貫して、その特殊な文学情操の基調となってる。

----------

萩原 朔太郎(はぎわら・さくたろう)

詩人

1886年、群馬県前橋市生まれ。熊本の第五高等学校、岡山の第六高等学校をともに中退。1913年、27歳のときから詩人として作品を発表する。1917年第一詩集『月に吠える』で高く評価される。
第二詩集『青猫』も評判となり、日本の近代詩を確立した。他の作品に『氷島』『猫町』など。1942年に55歳で没

----------

(詩人 萩原 朔太郎)
編集部おすすめ