主君・信長の死を聞きつけた秀吉は「中国大返し」を行って山崎の合戦で明智光秀を破った、とされる。その定説が崩されようとしている。
歴史評論家の香原斗志さんは「中京大学の馬部教授の最新研究で、その伝説が覆る可能性が出てきた」という――。
■秀吉は「山崎の合戦」に間に合わなかった?
羽柴秀吉ならではの常軌を逸した能力とパワーの象徴で、その後、天下一統を成し遂げるうえで、いちばん重要なポイントになったと語られるものに「中国大返し」がある。
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれたとき、秀吉は弟の秀長とともに毛利攻めの最中で、備中高松城(岡山市北区)を水攻めにしていた。信長自身による援軍も予定されていたので、秀吉は畿内との緊密な連絡網を築いており、そのおかげで翌3日夜には急報を受けたという。
秀吉は翌4日、毛利家と急いで和睦を結び、城主の清水宗治の切腹を見届けて水攻めの包囲を解除。翌5日から秀長らとともに進軍を開始し、12日には摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)を治める池田恒興らと合流。13日には山城国南部の山崎(京都府大山崎町)に布陣した――。これが「中国大返し」で、秀吉はこの史上屈指の大強行軍を成し遂げた末に、山崎の戦いで光秀の軍を打ち破ったとされる。
進軍のスピード自体は、当時の常識に照らして、必ずしも速いとはいえないが、2万といわれる大軍勢での移動だから、それがこの速度で戻ってくるとは光秀側は予想しておらず、大きな動揺につながったとされる。
ところが、「中国大返し」の伝説がひっくり返ってしまう、とんでもない文書が見つかったというのである。
■書状に書かれていた衝撃の事実
問題の文書は、中京大学の馬部(ばべ)隆弘教授(日本中近世史)が令和6年(2024)に古書店で入手したという秀吉の書状で、合戦があった6月13日の日中、山崎からは12キロほど離れた富田(大阪府高槻市)で書かれたものいう。配下の小寺職隆らに宛てたもので、「明日、西岡に出陣し、陣を構える」と記されている。

「西岡」とは、光秀が山崎での敗戦後に逃げ込んだ勝龍寺城(京都市長岡京市)がある地域を指す。たしかに、光秀は本能寺の変後に勝龍寺城を占拠し、決戦前日の12日も、池田恒興らによってこの城に追い込まれていた。だから、秀吉は14日に、勝龍寺城にいる光秀を攻めるつもりだったのだろう。
ところが、秀吉の予想に反して、光秀は13日に打って出てしまったというわけだ。この書状の通りなら、光秀の軍勢は池田恒興らの軍勢に敗北。勝龍寺城に逃げ込むが、再起するために抜け出して本拠地の坂本城(滋賀県大津市)に向かおうとして、途中で落人狩りに遭って命を落とした、ということになる。
つまり、秀吉は備中高松城から富田のあたりまで「大返し」したのはいいが、肝心の合戦には全然間に合わず、まったく参戦していなかったということだ。光秀を動揺させた功は大きいにせよ、秀吉の軍勢が山崎の戦いで光秀の軍勢を打ち破ったという史実は、なかったことになるのである。
■宣教師は遅参したと書いていたのに
むろん秀吉としては、決戦に自分の軍勢は間に合わず、着陣できていなかったとなれば、織田政権を簒奪するうえでウィークポイントになるし、簒奪できても沽券にかかわる。なんとしても隠したかったのではないだろうか。だから馬部教授も、合戦から4カ月後に書かれた秀吉の書状には、先に山崎に着いたことにし、遅参した事実を隠そうとして修正した形跡が見られると指摘している。
そして、秀吉がその事実を隠したいと望んでいる以上、周囲は忖度して、「秀吉は間に合わなかった」などとは、だれも書けなかっただろう。
日本の同時代の史料にはそういう限界がある。ところが日本の歴史研究者は、同時代に書かれたというだけで鵜呑みにし、書かれた内容には、さまざまな意図が働いている可能性があることを、見すごしてしまうきらいがある。
だが、イエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスだけは、秀吉が遅参したと書き記していた。筆者は研究者たちがその記述を無視するのを苦々しく思っていた。彼らの主張はおおむね、「キリシタンの高山右近の活躍を誇張して書くために、デマを記したと考えられる」というものだった。
たしかに、誇張や非難めいた記述はあるが、捏造はない、というのが筆者のスタンスである。宣教師は日本の権力者の「隠したい」気持ちに忖度する必要がないし、そもそも、ポルトガル語で書かれた文書を日本人は読めないので、表現に遠慮は要らない。それに、命を賭して極東まで布教にやってきた真摯な宗教者として、今後の布教活動に役立てるための記録を書いているのであり、内容を捏造したら布教活動を妨げることにつながりかねず、絶対に避けたと思われる。
■高山右近は「羽柴軍の遅延」を見ていた
フロイスの『日本史』には、次のように書かれている。
「明智は都から一里の鳥羽と称する地に布陣し、信長の家臣が城主であった勝竜寺と称する、都から三里離れた非常に重要な一城を占拠していた。彼はその辺りにいて、自分の許に投降して来る者たちを待機するとともに、羽柴の出方を見きわめようとした。(中略)当時、彼は八千ないし一万の兵を有していたであろう。
そして津の国(註・摂津国)の者たちが、予期したように、自分に投降して来ないのを見ると、彼は若干の城を包囲することを決意して、高槻に接近していった」
「同国(註・摂津国)の三名の重立った武将は、羽柴がもはやさほど遠くないところまで戻って来ているとの希望のもとに出陣し、軍勢を率い、山崎と称せられる非常に大きく堅固な村落まで進んだ」
続いて、摂津の3名の間には、中川清秀が山の手に、池田恒興が淀川沿いに進軍し、高山右近は山崎の村の間に留まるという協約があったと記され、こう書かれている。
「ジュスト(註・高山右近)が村に入り、明智がすでに間近に来ているのを知ると、まだ三里以上も後方にいた羽柴に対し、急信をもってできうるかぎり速やかに来着するようにと要請した。(中略)右近殿は、羽柴の軍勢が遅延するのを見、自ら赴いて現下の危険を報告しようとしたが、まさにその時、明智の軍勢が村の門を叩き始めた。そこで右近殿はこの上待つべきではないと考えた」
こうして右近は1000名余りの兵とともに敵をめざして突撃したという。
■清須会議にいた「宿老」の謎
「この最初の衝突が終わると、ジュストと間隔を置いて併進して来た二人の殿たちが到着した。そこで明智方は戦意を喪失し、背を向けて退却し始めたが、敵方がもっとも勇気を挫かれたのは、信長の息子と羽柴が同所から一里足らずのところに、二万以上の兵を率いて到着していることを知ったことであった。だがこの軍勢は幾多の旅と長い道のり、それに強制的に急がせられたので疲労困憊していて、予想どおりに到着しなかった」
中国大返しに明智方が動揺したのはまちがいなさそうだが、やはり無理があって、軍勢は疲労困憊したのだろう。山崎の合戦で光秀の軍勢を破ったとされる秀吉も、信長の三男の信孝も、戦いの現場にはいなかった、と書かれている。そしてこのフロイスの記述は、発見された秀吉の書状の内容と、ピタリと符合するのである。
すると、もうひとつの疑問も解けることになる。
光秀が討たれて2週間ほど経った6月27日、清洲城(愛知県清須市)で、今後の織田政権の運営方法と所領の配分を決める、いわゆる「清須会議」が開かれた。そこでは、信長と一緒に討たれた信忠の嫡男、つまり信長の嫡孫である幼い三法師を当主に立て、今後は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人の「宿老」による話し合いで、政権を運営していくことに決まった。

■山崎の戦いの真の勝利者
だが、信長の宿老と言えば、少し前までは柴田、丹羽のほかは、佐久間信盛と滝川一益だった。だから、今後の政権運営に柴田と丹羽が関わるのはいい。秀吉もすでに宿老と言っていい立場にあり、(山崎の戦いに間に合わなかったにせよ)光秀討伐を主導したのだからいい。では、どうしてもう1人が池田恒興なのだろうか。
佐久間は本能寺の変の2年近く前に追放されていた。滝川はこのとき関東にいたため清須会議に間に合わなかった。そういう事情はあるにせよ、池田恒興の名がいきなり浮上したのには違和感があった。摂津の伊丹城(大阪府伊丹市)などをまかされた有力武将ではあっても、中堅の域を出なかったからである。
しかし、秀吉が遅参した状況で、彼が中心になって光秀の軍を破ったのであれば合点がいく。フロイスが書く摂津の「三名の重立った武将」の残り、中川清秀と高山右近は、恒興が説得して、光秀に加担させないようにしていた。フロイスは「津の国(註・摂津国)の者たちが、予期したように、自分に投降して来ない」と、光秀の誤算について書いていたが、これも恒興の功績なのである。
つまり、池田恒興が山崎の戦いの勝利者であるなら、清須会議での厚遇は当然である。

それにしても、444年も経って自分の失態がバレるなんて、秀吉も悔しいだろう。彼には絶対に隠したい事実だったはずだから。だが、1つの書状が見つかっただけで大きく書き換えられるから、歴史はおもしろい。ただ、もう1つ指摘しておきたい。宣教師は書いていたのである。宣教師の記録がどういう性質のものなのか、しっかり考えて読めば、見えてくることがもっとあると思うのだが。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。


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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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