NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、京都に進出した織田信長が描かれた。しかし、信長より20年早く畿内を制し、「最初の天下人」と呼ぶべき戦国武将がいた。
教科書にその名はない。大河ドラマの主役を張れるほどの人物なのに、なぜ歴史に埋もれたのか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。
■信長より20年早く畿内を制した武将
「豊臣兄弟!」3月15日放送回に、三好三人衆と松永久秀が登場した。この4人は一時期畿内を支配していた阿波(徳島県)出身の戦国武将・三好長慶(みよしながよし)の一族と家臣だ。
長慶が率いた一団は永禄11(1568)年頃までの約20年にわたり、畿内に政権を築いた。三好氏研究で知られる歴史家の天野忠幸氏は、織田信長に先駆けた統一政権だったと評している。
これが三好政権である。
3月15日放送回は永禄11年の信長上洛を描いていたが、このときはすでに長慶は死去し、松永久秀と三好三人衆が分裂した政権の末期だった。
三人衆とは長康の従叔父で一族の長老格である三好長逸(ながやす)、長康に従っていた三好氏の庶流・三好政生(まさなり)(宗渭(そうい))、そして家臣の石成友通(いわなりともみち)。
永禄7(1564)年に長慶が没すると、後継者の三好義継(よしつぐ)がまだ10代半ばだったため、後見役となった3人だ。彼らは松永久秀の息子・久通(ひさみち)と協力し、永禄の変(永禄8/1565年)で室町幕府13代将軍・足利義輝を殺害した。

だが、義輝殺害を機に三人衆と久秀が畿内の主導権をめぐって対立するようになり、武力衝突に至る。息子の久通は当初、三人衆側に属していたようだが、永禄11(1568)年に再び父と行動を共にする。信長に奉じられて上洛した足利15代将軍・義昭に、親子で協力したからである。
一方の三人衆は、上洛した信長軍に三好の重要拠点だった芥川城(大阪府高槻市)を落とされ、巻き返しを期して逃れた。
これが久秀と三人衆が、当時置かれていた状況である。今後、どう展開するのか、またそもそも三好一族とは何者なのかを紹介したい。
■時代に埋もれた三好長慶
三好一族を語るには政権を築いた長慶と後継の三人衆、そして政権の中枢を担った松永久秀を順に見て行く必要があるだろう。
まず、長慶について。
長慶は人気の高い戦国武将で、大河ドラマの主人公に推す歴史ファンも少なくない。実際、地元の徳島県や関西が中心となって大河の誘致運動も展開している。また、武田信玄が大永元(1521)年、長慶は同2(1522)年の生まれ。何度も大河のテーマとなった「甲斐の虎」と、実は1歳しか違わない。

だが、全国的には知名度が低い。なぜかというと、
・長慶自身は信長・秀吉・家康の三英傑と関わっていないこと
・応仁の乱が終結(文明9/1477年)してから信長が上洛するまで約90年間、京の都と大坂の歴史は混沌として把握しづらく、長慶はその時代の人物だったこと

――この2点が影響していると思える。
長慶の時代の政局は室町幕府の重鎮だった細川晴元(ほそかわはるもと)が権勢を振るい、長慶は晴元に服属していた。
だが、本来は主君である足利将軍家と晴元が対立と和睦を繰り返し、そこにその他の戦国武将や一向宗・法華宗らの宗教勢力が加わるなど混迷を極めていた。そうした難しい局面を、晴元は打開できずにいた。
■主君を見限り、京を掌握
天文18(1549)年、長慶は晴元を見限って兵を挙げた。結果は晴元の敗北。このとき晴元が、13代将軍・足利義輝と共に近江に逃れたため、将軍と幕府実力者が京に不在となった。そこで京に長慶が入り、実権を掌握する。
長慶は下剋上を果たしたと同時に、新政権「三好政権」を樹立するのである。
翌年(天文19/1550)には、晴元・義輝が京都奪還をもくろんで中尾城(京都市左京区)で長慶軍と対峙した。この戦いでは両軍が鉄砲で攻防を繰り広げたことが『言継卿記』などに記されているそうで、すでに鉄砲が常備されていたことをうかがわせる。

結果はまたしても晴元が負け、近江へ退却。その後、次第に義輝は自壊し、晴元も没落し最期は幽閉されて死去する。
長慶には京に住む志向はなく、前述の芥川城を拠点とした。また、長慶は逃亡した足利義輝を追撃しようとはしなかった。足利将軍の威光などあてにせず、自分の力で京を支配しようとしたのである。
のちに信長も15代将軍・足利義昭を追放しただけで討ち取らず、自ら天下に号令を下す道を選んだ。長慶を信長の先駆者とする理由はこうした点にある。
■忠義を貫けなかった者たち
次に三好三人衆だが、メンバーは前述の通り三好長逸・三好政生、石成友通の3人。各人の役割は長逸が政務に通じた一族の長老、政生は細川晴元の旧家臣団の代表格、友通がのちに詳解する松永久秀と同じ新参の家臣の中心的存在だった。
なかでも石成友通は出自が一族ではないにもかかわらず、優れた行政手腕を発揮し奉行衆として取り立てられ、また戦においても一軍を任された。
行政・戦い双方に長けた武将というと、信長政権下の明智光秀を彷彿とさせる。古くから仕えている旧臣・譜代の他からも積極的に人材を登用した点も、信長と似ている。

とはいえ、友通は三好から離反し、その後、足利義昭が反信長に転ずると追随するなど、態度を二転三転させ信長に討たれた。長逸と政生の最期は諸説あって詳細は不明だ。
いずれにせよ、三好三人衆は滅びの道をたどるのである。
■松中久秀は本当に「梟雄」だったのか
次に松永久秀について見ていこう。
久秀の生誕は諸説あって詳しくはわからないが、前述の天野忠幸氏は摂津島上郡(しまかみぐん)(大阪府高槻市)の土豪出身だろうと推測している。また、久秀以前の松永氏の活動は記録がないものの、長慶と出会ってからは早い段階に重用されていたという。
一般的には狡猾な梟雄(きょうゆう)(猛々しくて悪どい)といった印象の強い人物で、『常山紀談(じょうざんきだん)』(江戸中期に成立した戦国武将の逸話集)や宣教師ルイス・フロイスの『日本史』は、
・将軍(13代・義輝)を殺し、南都(奈良)の大仏殿を焼いた者

・はなはだ巧妙、老獪で、公方様(足利将軍)や三好殿は彼がいなくては何もなし得ない

などと記している。ただし、これらは正しいとはいえず、義輝の殺害に加担したのは久秀ではなく、息子・久通であり、現在では久秀は殺害計画を知っていながら黙認した程度ではなかったかといわれている。また、「大仏殿を焼いた」という件も、久秀と三好三人衆が敵対した際に戦闘の火が大仏殿に延焼したことを指しており、久秀が東大寺に放火して焼き討ちにしたとは言い切れないという。
久秀は、長慶の存命中は三好家に忠実であり、謀反を企んだ形跡もない。三好と敵対するのは、あくまで長慶没後の方針をめぐっての食い違いにあり、梟雄とまでいうのは根拠が薄いように思える。
■後世が作り上げた「わかりやすい悪人」
また久秀は信長が上洛する前年(永禄10/1567)には、信長・足利義昭と同盟を結んでいたという。
信長が上洛して慌てて支配下に入ったと思われがちだが、実は事前に支援することに合意していたわけだ。
それでも、やはり久秀には奸臣・謀反のイメージがある。これは天正5(1577)年に信長から離反したインパクトが強いからだろう。だが、それにしたって信長を裏切ったのは別所長治、荒木村重などもおり(のちには明智光秀も)、久秀ばかりではない。
久秀が「悪人」と呼ばれるのは、のちの時代の誇大表現ではないだろうか。海千山千の「老翁」(常山紀談はこう記している)という評判や、フロイスの証言、三好から織田政権に鞍替えして最期は信長に反して死んだ「寝返りの常習犯」という印象が、一人歩きしているように思えるのだ。
以上が三好一族と松永久秀の概要だ。そして「豊臣兄弟!」3月22日放送回では、三好三人衆が京の奪還を目指して攻め入ってくる永禄12(1569)年1月5日の本圀寺の変が描かれる。
■信長が気づいた将軍家の限界
本圀寺(京都市山科区)は信長と共に上洛し、すでに将軍宣下を受けていた足利義昭が滞在していた寺院だった。一方の信長は一部の武将と軍勢を京に残して岐阜に帰還していた。信長不在の隙を突いて、三人衆は本圀寺を襲撃したのである。軍勢の総数は「1万余」だったという(軍記物『足利季世記』)。

迎え撃つ義昭を守る幕府軍の戦力は不明だが、三人衆の軍勢より劣っていたようである。また『信長公記』によると、明智光秀は義昭と一緒に本圀寺にいた。
翌6日、細川藤孝、和田惟政ら義昭の奉行衆や御供衆が援軍に駆けつけ、本圀寺の籠城軍と三好三人衆を挟撃し、撃退に成功した。援軍のなかには荒木村重がいた。
報せを聞いた信長が京に入ったのが1月10日。松永久秀も同日に上洛したという。
なお、この戦闘に豊臣兄弟の藤吉郎と小一郎が加わっていたかは、確認できていない。
三好三人衆が洛中まで侵攻してきた本圀寺の変は、京の防衛の脆弱さを露呈し、信長は失望したと考えられる。義昭の側近たちが京に入るや寺社や公家の領地を横領し始め、反発を買っていたことも発覚する。信長はそうした行為を禁じるよう、義昭に求めた。すでに2人の間には隙間風が吹き始めていた。
信長はこの後も義昭のために二条御所を造営したりするが、結局のところ将軍家を奉じ、丁重に遇したところで、義昭と側近たちをコントロールできない。信長は次第に、足利将軍を御する限界を感じ始める。
■長慶は信長の“お手本”だった
これに対して三好政権時の三好長慶は、はなから足利将軍を信用せず、室町幕府に頼らない中央政権の確立を目指した。信長は長慶の前例の有効性に気づき、次第に義昭と距離を起き、天正元(1573)年には義昭を京から追放する――いわば長慶の手法を踏襲したと見ることもできる。
長慶が13代・義輝を駆逐したのは天文22(1553)年である。温故知新どころではない、わずか20年ほど前に起きた“事例”に信長は思いを馳せ、将軍など当てにしない方が天下に号令を下すには手っ取り早いと、見抜いたのかもしれない。
また、戦乱で荒れ果てた京の治安維持を目的に、信長は家臣の村井貞勝を置いた。これが京都所司代だ。長慶も京都所司代という名称こそなかったものの、同じ役割を持つ者を任命している。それが松永久秀だった。
もっともこの役職は室町幕府にもあり、侍所の長官を所司、その代理を所司代と呼んだ。それを長慶→信長が引き継いでいったところが興味深い。有効な政策なら、時代を超えて継承していく点も2人には共通している。
三好長慶と織田信長は、共に新しい時代に対応できる革新性を持ちつつ、良いと思えば旧体制のシステムも尊重する柔軟性にも長けていた。
歴史上の名将には、意外と類似点があるものだ。

参考文献

・天野忠幸『ミネルヴァ日本評伝選 三好長慶』(ミネルヴァ書房、2014年)

・天野忠幸『三好一族 戦国最初の「天下人」』(中央公論新社、2021年)

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小林 明(こばやし・あきら)

江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表

編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。

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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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