■アメリカの調味料「マヨネーズ」に魅了された一人の青年
マヨネーズを初めて口にしたときのことを憶えている人は、そういないだろう。サンドイッチのパンにうっすら塗られた白いペースト。ポテト・卵・チキンサラダの「つなぎ」役。考え抜かれた食材や調理法で作られる料理のシンフォニーの中で、マヨネーズはBGMのようなもの。どんな料理にも合うが、存在を主張することはない。野菜サンドをパクリとやって「お、マヨネーズだ!」と叫ぶ人はいないのだ。
ところが、人生で初めてマヨネーズに遭遇したときのことをはっきりと憶えている人物が、ひとりいた。その人の名は、中島董一郎(なかしまとういちろう)。中島の初体験は、彼の人生だけでなく、世界中の食卓を変えた。
■日本で日本人のためのマヨネーズを作りたい
1900年代初頭、日本では水産缶詰産業が芽吹き始めていた。そんな中、とある缶詰会社に入社したばかりだった中島は、缶詰製造のノウハウをより深く学ぶため、海外実業練習生としてイギリスとアメリカへ渡った。少なくとも、当初の目的はそうだった。
第一次世界大戦の只中、アメリカのある町に滞在していた中島は、あるとき缶詰製造業者が主催する食事会に招かれた。中島は、次から次へと運ばれてくる料理を堪能したが、中でも特に衝撃を受けた一品があったという。それは、缶詰の鮭と細かく刻んだタマネギをマヨネーズで和えたものだった。
中島はこの「初めて見る美味なごちそう」にすっかり魅了されたという。後日、ポテトサラダとも出会い、マヨネーズをたっぷり使ったその食べ物が「味わい深く、安価で、栄養価が高い」ことに感心した。そして、アメリカの料理にはマヨネーズが頻繁に使われていることに気づき、だからこそアメリカ人はこんなにも屈強で健康なのだと考えた。
それならば、私は日本で、日本人のためのマヨネーズを作りたい。その思いを胸に、青年は日本へ帰国したのだった。
■関東大震災の復興で「西洋化」を確信した
イギリス、そして初めてマヨネーズを知ったアメリカで数年間を過ごした中島は、帰国して間もない1919年、東京で「食品工業株式会社」を設立した。中島は、ソース類の製造を開始し、まずまずの成功を収めるようになっていた。ところが1923年9月1日、すべてが一変する。この日、ちょうど正午になろうかというとき、マグニチュード7.9の大地震が日本を襲い、東京と近隣の県に甚大な被害をもたらした。
中島は、その復興のさなか、国が西洋化していくのを目の当たりにした。都市計画を担う人たちにとって、震災後の都市部の再建は超高層ビルなどの西洋式のインフラを導入する絶好の機会だったのだ。
中島には、この洋風化の波が建設分野を超えて広がるという予感があった。女学生の装いが伝統的な袴からセーラー服へ変わっていくのを見て、日本の家庭料理にも変化が訪れ、西洋の調味料やマヨネーズだって使われるようになるだろうと考えた。
■整髪料と間違えられ、初年度は全く売れなかった
1925年、中島は、日本初の国産マヨネーズを発売した。10年前に実業練習生として訪れたアメリカですっかり虜になったあの調味料を、研究に研究を重ねた末、自身のアレンジのもと再現したのである。当時の西洋産マヨネーズのほとんどが(現在と同様に)全卵を使って作られていたのに対し、中島のマヨネーズは卵黄のみを使うことでコクのある味わいに仕上がった。そして商品ラベルには、あの象徴的なキユーピーのキャラクターが採用されたのだった。
これは大きな賭けだった。当時、日本でマヨネーズはほとんど知られておらず、整髪料と間違えて購入した客もいたほどだった。そこで、食品工業株式会社の営業マンたちは小売店を訪れ、アメリカで中島を魅了した缶詰の魚とマヨネーズを和えたものを試食してもらい、キユーピーマヨネーズを置いてくれるよう頼んで回った。
発売初年度のキユーピーマヨネーズの販売量は、わずか120ケースだった。
■卵の安定供給のために養鶏場を作った
これほど良い商品を作っていれば当然出てくるのが、競合相手だ。キユーピーマヨネーズの需要は発売から数年で急増し、日本のマヨネーズ市場に新たな競合他社を呼び込む結果となった。ところが、アメリカで始まった大恐慌を引き金に昭和金融恐慌が勃発すると、多くのライバルブランドは経営破綻してしまう。
そんな中にあっても、のちにキユーピー株式会社となる食品工業株式会社の業績は成長を続けていた。1930年代を通して売り上げは毎年右肩上がりを記録し、会社は増え続けるマヨネーズ需要に応えるため原材料の輸入を拡大し、2カ所目の工場を新設。養鶏場も設置した。
そう、卵農場を作ったのだ。中島と彼のチームは、卵黄のみを使うキユーピーマヨネーズの製造を滞りなく行うには、質の良い鶏卵の安定確保が不可欠であることに気付き、それを自社で供給することに決めた。
彼らは、東京府北多摩郡(現在の東京都府中市)の砂埃舞う土地の一角に西府農場を開設し、木造の鶏舎を建て、地元の働き手を確保すると、屋内外でたくさんの雌鶏の放し飼いを始めた(西府農場は、現在キユーピー株式会社の中河原工場として存続している)。
■第二次世界大戦で原料不足、生産量は底を打った
マヨネーズの生産量の増加に伴い、新たな問題が浮上した。
その解決策として、食品工業は、残った卵白を菓子製造業社、製薬会社、印刷会社に販売し始め、のちに個別の製品として乾燥卵白の製造も開始した。卵白を乾燥させ粉末にするアイデアは大当たりし、農場に乾燥機が導入された。
しかしながら、この卵白問題は、1930年代末に食品工業株式会社が直面した苦難に比べれば些細な悩みに過ぎなかった。ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、サプライチェーンが世界各地で寸断されたため、植物油を含め、マヨネーズ製造に不可欠な、卵以外の原料の輸入が困難になったのだ。ほどなくして、キユーピーマヨネーズの生産量が目標を下回り始めた。1940年に日本に戦争の足音が近づくと、生産量はどん底を記録した。
■質の悪い「闇市」の原料には決して手を出さなかった
太平洋戦争の開戦とともに、食品工業株式会社(現キユーピー株式会社)も当時の多くの日本企業と同様に、国の軍事活動に巻き込まれていく。マヨネーズを作りたくとも、働き手の多くが徴兵され主原料も不足していたため、とうてい不可能だった。工場ではマヨネーズの生産がストップし、軍需品の製造が始まった。同社は兵士のために、卵黄を原料とした「ヨークミン」という“栄養ドリンク”も開発した。
戦時中、配給制度や不安定な供給網の機能不全を補うように闇市が出没した。闇市は、多くの日本人にとって日常生活に不可欠なものとなり、1945年に戦争が終結したあとも、国が復興するあいだ物資の調達源として残り続けた。食品工業の社員たちは(そしておそらくは顧客も)、キユーピーマヨネーズがすぐにでも華々しく復活すると期待していたが、そのためには原料を闇市で入手する必要があった。
中島は、これをかたくなに拒んだ。彼にとって、闇市での仕入れは自身の信念に反することだった。違法かつ品質の劣る材料を使って製品の質を落とすことはしたくなかったのだ。中島の考えに同調できない大勢の社員が会社を去り、そのうちの何人かは共同で別のマヨネーズ会社を立ち上げさえした。
■仲間は次々と去り、わずか数人に…
1948年にようやくキユーピーマヨネーズの製造が再開された際、会社に残っていたのは中島と息子の雄一のほか、わずか数人だったという。5年の休止期間があったため最初の生産量は少なく、社員が三輪トラックで注文先へ配達できる程度だった。しかし間もなくすると、中島の愛すべきオレンジママレードの製造元である「青旗缶詰株式会社」(現アヲハタ株式会社)にマヨネーズ製造の一部を委託しなくては回らないほど、生産量は増加した。
それでもまだ、食品工業株式会社は財政的な立て直しに苦戦していた。中島は事業を継続するために、私物を売り払い、銀行から多額の借り入れを行っていた。
■マヨネーズの会社らしい名前「キユーピー」へ
戦後、キユーピーマヨネーズは復活を遂げ、中島はそれまで以上に事業に注力した。輸入した油を自ら検査して自身が求める品質基準を満たしていることを確認した。また、工場では極めて高い清浄度を維持し、最新鋭の設備を導入している。
工場での長い一日を終えたあと、中島は毎晩のように従業員たちと面談し、仕事で浮上した問題や悩みに耳を傾け、日本人の体を強くし滋養をつけられるマヨネーズを作りたいという自身のビジョンを共有した。彼の努力は報われた。1952年には、キユーピーマヨネーズの生産量と売上高が、戦前のピークを上回ったのだ。
このころになると、現在誰もが知る(そして愛する)キユーピーのブランドが定着し始めた。1957年、食品工業株式会社は、社名を正式にキユーピー株式会社に変更する。「食品工業」という言葉が「食品製造業」を意味することから、今後「○○食品工業」という名の会社が増え、社名を間違われるかもしれないと考えたからだ。
中島は、新しい社名を決めるにあたり、3つの条件を設けた。1.日本語でも英語でも通じること。2.「食品」という言葉を使わないこと。そして3.マヨネーズの会社らしい名前であること。そこで、「キユーピー株式会社」である。
■1958年、おなじみのデザインが登場
キユーピーは1956年に、ポリエチレン袋入りのマヨネーズを試験的に発売した。この新包装は、軽量で使いやすく、また従来の蓋付き瓶容器よりも酸素の遮断性が高いことが判明した。消費者もこの新しいパッケージを気に入ったようで、購買数は予想を大きく超えた。
そして1958年、今では象徴的となったあのポリボトル容器が誕生する。初代の涙型容器のデザインは、今日のものとほとんど変わらない。柔らかく、片手で絞り出せ、赤いキャップがついていた。
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キユーピー
キユーピー株式会社は1919年に、「日本人の体格と健康の向上に貢献したい」と願った中島董一郎によって設立された。1925年、中島はキユーピー マヨネーズを開発。今日、日本屈指の人気を誇る調味料へと成長した。キユーピーは、多くの人に愛されているマヨネーズに加え、サラダドレッシング、フルーツジャム、パスタソースなど、バラエティーに富んだ製品を数多く生み出し、それらは世界中で販売されている。キユーピー株式会社の本社は東京都渋谷区に所在する。
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ヤナガワ 智予(やながわ・ともよ)
英語翻訳者
ブリティッシュ・コロンビア州立大学付属の英語学校にて英文学、民俗学、文明学、討論法などを学ぶ。訳書に『Sketchbook――ハンス・P・バッハーの「構図」と「ショット」のアイデア』(ハンス・P・バッハー著、翔泳社)、『THE ART OF GAME OF THRONES』(デボラ・ライリー、ジョディ・レベンソン著、ホビージャパン)、『真珠湾諜報戦秘録』(マーク・ハーモン、レオン・キャロル・ジュニア著、原書房)、『MAGNUM MAGNUM(増補改訂版)』(ブリジット・ラルディノワ編、共訳、青幻舎)、『世界の図書館を巡る 進化する叡智の神殿』(ゲシュタルテン編、マール社)、『MARVEL BY DESIGN マーベル・コミックスのデザイン』(gestalten編、玄光社)などがある。カナダ、バンクーバー在住。
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(キユーピー、英語翻訳者 ヤナガワ 智予)

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