NHK「ばけばけ」は、ヘブン(トミー・バストウ)とトキ(髙石あかり)の一家が東京で生活する様子を描いている。作中ではあっという間に駆け抜けているが、実際はどのような生活を送っていたのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に史実をひも解く――。
■結婚生活の半分以上が「東京暮らし」だが…
NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」もいよいよ残すところ、あとわずか。トキ(髙石あかり)とヘブン(トミー・バストウ)の幸せな夫婦の物語はどう最後を迎えるのか。
ドラマでは、昨年末に結婚を決めたトキとヘブン。年が明けてから2月に入り熊本へ、そして東京へと慌ただしく動いている。トキを中心に松江での物語に重点が置かれたためだが、実のところモデルである小泉八雲とセツの生活は東京に来てからのほうが長い。
1891年に結婚した二人は、その年の11月には熊本へ。ここで長男の一雄が誕生、さらに1894年に神戸へ転居、1896年に東京へ移っている。
その後は、ずっと東京暮らし、間に次男の巌、三男の清、長女の寿々子と家族も増えている。都合13年あまりの結婚生活のうち東京暮らしは約8年と長いのに、ドラマ中では1週間ちょっと。
これは、もったいない。ぜひともドラマ人気の余勢を駆って特別篇を製作してほしいものだ。

さて、東京に移った時には、長男の一雄は3歳になる頃。八雲が死去したのは11歳ごろ。それもあってか、ほかの兄弟よりも八雲に対する記憶は濃い。そして、文才もあった一雄は、八雲もしのぐシニカルな筆致で、当時のことを記録している。
■長男が明かした食後の“奇習”
中でも、一雄が雄弁に語るのは子供の目から見た家族の生活だ。
そもそも、東京での生活は賑やかだ。セツの養父母である稲垣金十郎とトミは東京でも同居生活を送っている。金十郎は筆跡が心もとないセツの代筆をしたり子供たちの遊び相手にと、よいおじいちゃんぶりを発揮し、1900年に富久町の八雲宅で亡くなっている。トミのほうは、その後も小泉家の家事や女中の采配を振るい、八雲の終の棲家となった西大久保でも同居している。
これに加えて、小泉家には女中のみならず書生も同居していた。ハーンも月に400円の俸給をもらい東京帝国大学で英語を教える知識人である。だから、女中のほかにも書生をおいて、使いをさせたり、大学に出向く際にお供をさせるのは当たり前のことだった。

そんな賑やかな小泉家を一段と賑やかにさせていたのは、八雲の提案した奇習であった。その奇習とは、食後の運動である。一雄によれば、その内容は次のようなものだ。
夕食後、すぐに寝に就くのは衛生上宜しくないとの父の意見から、ほとんど毎夕、食後には食堂兼子供室に充られていた階下十二畳で、我々子供等を初め書生さん達も女中達も諸共に唱歌や軍歌を謡いながら、四角な大卓の周囲を1時間ばかり、グルグルと腹ごなしに巡るのが例になっていました。偶には父や母も仲間入りすることがありました。

(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)
■歌声にあわせて、部屋を1時間歩き続ける
食後の運動というがストレッチとかではなく、歩くだけ。それも1時間も。12畳間で大卓すなわち大きめのテーブルの周囲を、大人も子供もずっと歩いているというのはなかなかシュールな光景だ、しかも歌付きである。
一雄によれば、歌はいつも、上手な書生の玉木光栄が歌っていたという。この人はセツの従姉の子供で13歳から18歳までを「食客」として過ごしていたという。第一高等中学校から、農業大学(注:帝国大学農科大学、現在の東京大学農学部)に進んだというから、なかなかの逸材……当時でいえばけっこうなエリートである。
そんな青年の歌声に合わせて、子供や女中、書生が1時間も部屋の中を歩き続けるのだ。
とても食後の軽い運動とは思えない。
そして、歌われていたものとして一雄の記録からは「君が代」「霞か雲か」「汽笛一声」などが挙げられている。君が代は今も歌われる日本の国歌、霞か雲かはドイツ民謡をもとにした当時の唱歌の一つ。汽笛一声は、汽笛一声新橋を~から始まる鉄道唱歌のことであろう。
鉄道唱歌はまだしも、君が代を歌いながら調子をあわせて歩くとはどういうことか。この原稿を書きながら、試しにやってみたが、どうやっても歩けなかった。
■八雲の“手厳しいダメ出し”
そして、そんな奇妙な運動を自分がやらせておきながら、八雲は手厳しいダメ出しをする。新美という書生は、いつもリズム感がなかったようで大変な目に遭っている。一雄によれば、こういうことらしい。
(新美さんは)しばしば頓狂な声を発してはこのオーケストラのせっかくの整調を攪乱してしまうのでした。余りの殺風景に堪りかねて父が折々「新美さん、も少し声遠慮しまショ」などと注意することもありました。

(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)
さらには、歌のうまい玉木にもダメ出しが飛ぶ。

一度は余りに図に乗って賛美歌を歌って、父から、私の家でそうした歌だけは歌ってくれるな、説明し難い一種の不愉快を覚えさせられるからと申されたことがありました。いま一度は得意然と「マルセイユ(注:ラ・マルセイエーズと思われる)」を歌ったところが、また父から、そんな壊れた言葉で歌われてはフランス人は皆泣いてしまうよと申され光栄さんは大いにしょげました。

(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)
■現代なら口コミやSNSで告発されるレベル
奇妙な習慣を命じておいて、八雲の言動がキツすぎる。現代ならば、書生が「やってられるか」と出ていって、口コミやらSNSやらに「小泉家の奇習に呆れた」とか告発を書かれそうだ。八雲も八雲で、賛美歌が嫌いなのはまだしも、まだ10代の少年が覚えたてのフランス語とかで歌ってたのだから、もう少し褒めるとかできないのか。このあたり、良くも悪くも空気が読めない八雲の性格がよく出ている。
そして、こうした他人の恥まで喜々として回想に書いてしまう一雄も、どこか世間とずれている。なにせ、自分が子供の頃世話になった使用人なのに、ここまで書くか? という記述がやたらと多いのだ。新美の従妹で3年ほどいたお常という女中のことはこう書いている。
すこぶる醜婦でしたが私等兄弟にはいつも優しく、正直者で涙脆い女でした。父は御常のことを「鬼瓦のような女」と申していました。

(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)

親子そろって酷すぎる‼ 引用なのでそのまま書いたが、今どき原稿で「醜婦」なんて書いたら大問題である。
八雲のどういう教育の結果なのだろうか。こういう、世間を気にせず人を罵倒するような表現を一雄はあちこちで使っている。それでも、不思議と気にならないのはホントに悪意がないからではないだろうか。
■絶えない“金目当て”の人たち
それに、一雄がちょっと人をシニカルに見てしまうのには理由がある。なにせ、八雲は帰化した元イギリス人で、東京帝国大学で月に400円ももらっている。こうなると、金持ちとみて、甘い汁を吸おうと寄ってくる者も絶えないのだ。
一雄は、そんな人々のこともよく記憶している。あるときは、入院した時に面倒を見てくれた看護師が、一雄が八雲と一緒に洋行する時には私も女中にして連れて行ってほしいと懇願してきて、話を聞いた八雲を激怒させたことを記している。
さらにひどいのは、八雲がいつも使っていた人力車の車夫の柳田という男である。これは、八雲が最初に使っていた中村という年寄りの車夫の推薦で出入りするようになったのだが「余りに我利で蔭日向がすこぶる多く、中村に比して人物の劣ること数段」という信用のおけない人物であったという。
その小悪党ぶりが発揮されたのは、八雲が死んだ時のことである。これを聞いた中村は、すぐに駆けつけてきて葬儀の準備を熱心に務めてくれたという。
対して柳田は、葬儀の日になり酒の匂いをさせながらやってきた。そして、一雄に人力車(注:八雲は人力車は自前で持っていた)がいらなくなったのなら譲ってくれるようにセツに頼んでくれといったという。
■経歴に疑いのある女中「お花」
まだ11歳の子供から母親に頼んでくれとは、もう人間として終わっている。しかし、ここで一雄の才知は優れていた。
「柳田はお葬式に来たのかい、俥を買いに来たのかい?」との子供に不似合いな反問を真向から浴びて、彼は、「偉い! 偉い! さすがはもう旦那だ」と嫌な褒め方をしましたが、彼の目の玉は変に坐っていました。

(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)

さらにその上をいくのが、末弟の清が生まれた時に雇った、お花という女中である。この女中は、清の出産後、体調を崩したセツのために雇われたのだが、清がなついてはいるものの、小泉家に波乱を引き起こした人物だったとして、一雄は長文を記している。
なにしろ、経歴がみんなウソだったのである。調布の出という彼女は豪農の出で、父親の宗八は楽隠居して普請などをやり、兄は小学校で訓導をしているということだが、本当なのは父親が普請=大工仕事をしていることだけで、あとはまったくのウソだった。
しかも、お花も清がなついているから首にはできないが、なかなか裏表の激しい人物だった。なのに、八雲はそんな親子に大久保の家を建てる時の普請を任せてしまった。
■八雲は“警戒しながらも好意を示していた”
結果は、どういうことになったのか。
大久保の普請では宗八はかなり儲けたとのことでした。「奴は一財産を作りやがった」などの噂も耳にしました。青物と植木を調布方面へ時々買いに行く大久保在住の某地主が「あの父娘にご油断なさるな。あのお爺は今でこそ鳴りを静めているが、若いときはどうしてなかなか……身体に刺身(ほりもの)がない(註:原文のまま)というだけで、テラ銭で食っていた男でサア。倅の小学校教員も昔の話です。悪事が露れてすぐ首になり、台湾へ人夫になっていったこともあるとか……」

(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)

いやいや、こんなのすぐに出禁にしろよと思うのだが、そうできないのが八雲の性格。警戒はしながらも常に好意を示していたと一雄は記している。
そう、どう考えてもヤバい人物なのに、そっちのほうが魅力的に見えてしまうから付き合いが断てないのだ。そう、アメリカ時代にわざわざスラムを探訪して記事を書いていた時のような好奇心である。
それもあるので、父親のほうはまだしも、娘のほうは裏表があり冷笑的で、末弟の清の性格が曲がってしまったという。好奇心がそこまで実害を与えると八雲は思わなかったのか? いや、思っていてもやめられないのが八雲の性格だ。
■「朝ドラで描けない」のはもったいない
そして、一雄はそれ以上である。なにせ、子供の頃の出入りしていた人々の人となりを、詳細に記憶しているのだ。おそらくは執筆にあたってセツに聞いたりして整合性を取っているのだろうが、彼の文章には「父の周囲にいたこんな、とんでもない奇人変人たちを記録しておかねばなるまい」という独特な使命感を感じる。
うん、八雲の教育は確かに次の世代に受け継がれていた。それにしても、こんなに面白い人物達を、朝ドラでは描けないのはもったいない。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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