※本稿は、工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)の一部を再編集したものです。
■日本語をマスターしなかったワケ
ハーンが、あれだけ長い年月を日本で暮らしながら、ついに日本語をマスターしなかったのは、不思議といえば不思議です。それは、おそらく、彼が自分の持っている言語に関するエネルギーは、すべて英文の著作につぎ込んだためだと私は推測しています。執筆にあたっての彼の言葉に対する厳格さは想像を絶するものがありました。だからこそ、あれだけ完成度の高い作品が生まれたのです。エネルギーの最後の一滴まで絞り取るようにして原稿用紙に向かっていたのですから、日本語にふりむける余裕がなかったのは当然でした。
「つまり、日本のトピックスについての一連の講義を、――心理的な、宗教的な、社会的な、そして芸術的な印象を折にふれて扱いながら、やってみることができましょう。」
「私ができないのは、日本の歴史、あるいは何か特定の日本の主題について、権威者としてふるまうことです。私の講義の価値は示唆的であるということにつきます。――事実の明確化にあるのではありません。」
■長男をアメリカに連れていく計画
簡単にいってしまえば、作家としてアメリカの大学に迎えられれば職責を全うできるが、普通の教師としての講義を期待されても無理だという意味だったと思います。
ハーンはもしアメリカに行くようなら長男の一雄を同伴するつもりでした。「息子が勇敢なアメリカ市民になってほしいと思います」とすら書いているので、自分自身も経済的な裏付けさえあれば、アメリカに長期間滞在したい気持ちはあったはずです。
「長男については、残酷と陰謀の異様な世界からどのように救ってやろうかと案じています」とか「だが、彼の性格はおとなしすぎます。
■故国イギリスへは帰りたくなかった
幾つかの不運が重なって、アメリカの大学での連続講演は実現しませんでした。またイギリスの大学からも誘いがあったようですが、これにはハーンは躊躇を示しています。
「イングランドはもちろんだめです。あの『恐ろしく型にはまった国では、何ひとつ稼ぐ機会はありません。」
「イングランドの話はよいのですが、――しかしイングランドにはとても強力な私の敵がいることを、おそらくあなたはご存じではありません。メソジスト派の偉い牧師ヒュー・ブライス・ヒューズの姉妹であるミス・ヒューズという女性が、教育使節として当地に派遣されてきました。彼女の仕事の一つは、大学から私を追い出す陰謀を企てることだということが明らかになりました。」
「イングランドでは、国教徒ではない者みんなが――まるで象が蠅を踏み潰すがごとくもなく――私を押し潰そうと待ち構えているでしょう。」
こうした一連のコメントは、ハーンが少年期の不幸な体験(特に宗教にまつわる)から依然として精神的に自由になっていないことを雄弁に物語っています。
■「日本ほど安く暮らせる国はない」
53歳になっても、ハーンは外界がまだ恐ろしかったのです。そして彼の場合、その恐怖は常に金銭的な欠乏と密接に関係していました。(アメリカ新聞記者時代の同僚で友人エリザベス・)ビスランドへの手紙には繰り返しアメリカでの経済的な保証について疑問や危惧が述べられています、どれほど貯金があっても、その不安は生涯ハーンの胸から消えなかったのです。
何度か企てたアメリカ行きが、すべて不調に終わった後、ハーンは1903年8月、ビスランドにその胸中を述べています。
「今日はずっと勇気が出ていますし、ここ日本で頑張ることができると思います。
現在の自分の安定した生活は、日本にいるからこそ保証されているとハーンは悟ったようです。
■早稲田大の年俸は8000万円相当
そして翌年の春には早稲田大学で英文学を講義することが決まり、1週間に4時間教壇に立ち、年俸2000円(編集部註:現在の人件費の価値で8000万円ほど)という条件で契約をしました。
坪内逍遥や大隈重信とも面会し、ハーンの新しい職場での人間関係も良好に進んでいた9月19日、突然心臓の発作に襲われます。それから、わずか1週間でこの世を去ることになります。
死の直前のハーンの様子は、セツ夫人の「思い出の記」に詳しく描かれています。まず、最初の発作の時、ハーンは次のようにいい残しました。
「この痛みも、もう大きいの、参りますならば、多分私、死にましょう。そのあとで、私死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶買いましょう。三銭あるいは四銭くらい(編集部註:現在の物価で900~1200円相当)のです。
この言葉に対してセツ夫人は「そのような哀れな話して下さるな、そのようなこと決してないです」と答えます。しかし、ハーンはすでに覚悟を決めていました。「これは冗談でないです。心からの話。真面目のことです」といっています。
■心臓発作が起き、この世を去る
いったんは消えた痛みでしたが26日の夜、ふたたび発作が彼を襲いました。夕食後いつものように書斎の廊下を散歩していたハーンは、妻の側に淋しそうな顔をして来て、「ママさん、先日の病気また参りました」といいます。まだ、胸に手をあてて室内を歩いていたハーンを、セツは静かに横にならせたのですが、間もなく、「口のほとりに少し笑いを含んで」あの世へと旅立ちました。
家族にとっては、あまりにもあっけない死でしたが、ハーンは自分の身体が弱っていることを知っていました。晩年知人に宛てた手紙には、たびたび体力と視力が衰えていると書いています。
9月30日、ハーンの愛した瘤寺(こぶでら)で仏式による葬儀が執り行われ、その遺骨は雑司ケ谷の墓地に埋葬されました。ついにハーンは日本の土と化したのでした。
■100年後の今も読者を魅了するワケ
それから100年以上の歳月がたちました。その間にもハーンについての評価はめまぐるしく変化しました。現在でも、まだ諸外国では一定しているとはいえません。
しかし、あらためてハーンの著作を読み返して思うのは、それがまぎれもなく文学作品であるということです。ハーンが書き残した数々の作品を学問として見た場合、あまりにも日本をロマンティックにとらえ過ぎて、公正な視点が欠如しているという評価が成立するかもしれません。
もう一つ忘れてはならないのは、ハーンにとって日本は書くための素材だったということです。素材を売れるように料理するのが彼の仕事だったのです。彼はアメリカ時代からプロの物書きでした。大学教授が余技で物を書くのとは全く違います。自分の原稿を一字いくらで売って、生計を立てていたのです。
■“古き良き日本”に強烈な光を当てた
したがって、中途半端な日本紹介の記事を書いても売れないと、よく承知していたはずです。後年の作品はともかく、初めの頃は、まるで極彩色の絵のように装飾的な文章を書いています。それが悪趣味ではなく、芸術にまで昇華しているところがハーンの偉大さではありますが、いずれにしても読者の興味を強く惹きつける何かドラマティックな仕掛けがない限り、原稿は売れないと承知していました。その意味では、まさに商売人だったのです。
そして、ある一つの対象に強烈なライトを浴びせることによって、陰影をくっきりと浮かび上がらせる手法を取りました。
これは、ハーンが己れの技術を発揮できる最上の方法でした。したがって、ハーンの用いた照明が間違っていたかどうかを議論するのは不毛です。なぜなら、いずれにせよ強い光を浴びせなければ、無味乾燥な学術論文ならともかく、1世紀以上も読者を惹きつける楽しい読み物は書けなかったのです。その原理は現在も少しも変わっていないと私は思います。
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工藤 美代子(くどう・みよこ)
ノンフィクション作家
1950年、東京都生まれ。18歳でチェコのカレル大学に留学。帰国後に70年大阪万博の通訳。72年の札幌五輪のコンパニオンをつとめる。73年にカナダに渡りコロンビア・カレッジを卒業。93年に日本に帰国。昭和史、皇室関係のノンフィクションを執筆。『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞受賞。主な著書に『悪名の棺 笹川良一伝』『絢爛たる醜聞 岸信介伝』『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』『美智子皇后の真実』など。
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(ノンフィクション作家 工藤 美代子)

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