NHK「ばけばけ」では、小泉八雲と妻セツの東京生活は駆け足で描かれ、フィナーレを迎える。桜美林大学准教授の西山守さんは「松江よりも長かった東京生活にこそ八雲が作家として大成したヒントが隠されている。
また八雲の死後のセツの『意外な才能』には目を見張るものがあった」という――。
■松江はたった1年3カ月、東京には8年住んだ
朝ドラ「ばけばけ」もいよいよ終盤に入り、小泉八雲の晩年の日々が描かれている。本ドラマは小泉八雲が来日した直後の松江での日々に主眼が置かれており、彼が後半生を過ごした東京での日々はかなり駆け足で進んでしまっている。
小泉八雲の日本滞在は14年間にわたるが、松江に住んだのは1年3カ月に過ぎない。最も長く住んだのは東京で、実に8年間にわたっている。つまり、日本滞在の半分以上は東京で過ごしているのだ。しかも、本ドラマの実質の主人公である八雲の妻のセツは、八雲亡き後も東京で暮らし続け、東京で亡くなっている。
なお、八雲とセツの墓は、南池袋の雑司ヶ谷霊園にあり、墓石も隣り合って建てられている。
筆者は八雲が最初に住んだ新宿区富久町の隣町に住んでいたことがあり、最近は彼の終焉の地である大久保界隈に住み、かつ勤務もしている。本稿を執筆している理由として、八雲の作品に親しんできたからという以外に、時代は違うが八雲に対して「ご近所さん」として親しみを抱いているから――というのがある。
ドラマでは、3月半ばに入ってからやっと東京編が始まったが、そこから2週間で最終回を迎えてしまう。
八雲夫妻は、むしろ東京で精力的に活動をし、八雲は多くの作品を執筆し、セツは子育てや八雲の執筆活動を支えながら、東京生活を満喫していた。
決して余生を送っていたわけではないのだ。
二人は東京でどのような生活を送っていたのか? 彼らのゆかりの地を辿りながら、ドラマで描かれていない彼らの足跡を辿ってみよう。
■「セツの意向」を汲みに汲んだ東京生活
ドラマで描かれているように、八雲は東京帝国大学から英文学の講師として招聘(しょうへい)され、東京に居を移している。古い日本を愛する八雲にとって、近代化が急速に進む東京に住むことには乗り気ではなかったようだ。それでも東京移住を決めたのは、妻のセツがそれを望んでいたからだ。セツは「外国人の妻」として好奇の目で見られることを嫌っていたし、都会生活に対するあこがれもあったようだ。
一方の八雲自身は、東京に長居するつもりはなかったようだが、結果的には晩年の8年間を東京で暮らし、東京で亡くなることになる。
八雲夫妻が最初に住んだのは現在の新宿区富久町で、ここで5年間半暮らしている。勤務先の東京帝大からは遠く、お抱えの人力車で約1時間かけて通っていたという。大学からあえて遠いところを選んだのは、人付き合いと都会の喧騒を避けるためだったようだ。
その後、八雲とセツは西大久保(現在の新宿区大久保1丁目)に家を建てて移り住んだ。生粋の「流浪の民」であった八雲にとって、初めての持ち家であり、かつここが彼らの「終の棲家」となった。
わざわざ家を建てたのも、家族が落ち着いて暮らせる場所が欲しいという妻セツの意向を汲んでのことであったという。
八雲の東京時代を見ると、妻のセツの意向が最大限に尊重されていることが伺えるが、4人の子供を抱え、「入夫婚姻(にゅうふこんいん)」という形で日本に帰化した八雲は、家族・親族を養う責任も負っていたのだ。
ちなみに、晩年の八雲のセツに対する愛情については、昼間たかしさんが詳しく語っているので、そちらを参考にしていただきたい。

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■急速な近代化が八雲を執筆に駆り立てた
一方、セツの方も献身的に八雲を支えていたようで、八雲が大学に勤務している間、浅草や神田の古書店を回り、怪談集や奇談集を購入していたという。大学から離れた閑静な地域に住んでいたことも功を奏し、八雲は人付き合いに煩わされることなく、執筆に注力することができた。
怪談(Kwaidan)』『骨董(Kotto)』『神国日本(Japan: An Attempt at Interpretation)』といった彼の代表作は、実は東京時代に執筆されたものだ。
筆者としては、八雲が急速に近代化の進む東京に身を置いたからこそ、「古い日本を書き残さねば」という使命感に駆られたのではないか――と考えている。
■「終の棲家」は現在の歌舞伎町と新大久保の間
富久町も大久保のいずれも、八雲の自宅は跡形もなく、いまは碑が残されているのみだ。
富久町は、八雲が住み始めた当時は古い屋敷が残る地域だったが、その後に急速に近代化が進み、八雲はより閑静な場所を求めて大久保に移り住んだという。現在の富久町は、新宿区の中心に位置しているが、公共交通機関があまり充実しておらず、比較的落ち着いた住宅街となっている。なお、八雲の旧居は、いまは成女学園中学校・成女高等学校になっており、「小泉八雲旧居跡」の看板が残されているのみだ。
一方、大久保の新居の方は、歌舞伎町と新大久保の多国籍タウンの間に位置し、東京でも有数の繁華街の間に位置している。

当時はのどかな場所だったようで、八雲の自宅の敷地は800坪もあったそうだ。
こちらは、現在は新宿区立大久保小学校になっており、「小泉八雲終焉の地」の碑と説明書きが残されているのみである。
■「昔ながらの日本」が残る東京西側を散策していた
その代わりと言ってはなんだが、そこからほど近くに「小泉八雲記念公園」という小さな公園が設置されている。ここは、小泉八雲の出身地であるギリシャをイメージして作られており、エスニックタウンの中で少し異質な雰囲気を醸し出している。
現代では、本郷、浅草、上野といった東京の東側方に古い日本が残っているのだが、八雲が生きた明治時代は、西側のほうが開発が遅れており、昔ながらの風景が残されていたようだ。
八雲がよく散策していたのも、雑司ヶ谷、落合といった、やはり西側の発展していない地域だった。
現在の東京には、八雲が好んだ古い日本は跡形もなく消え去ってしまっている。ただ、本稿で紹介した八雲ゆかりの地は、いずれも都心の繁華街の中にあるにもかかわらず、比較的静かで落ち着きがある場所である。そこは唯一の救いといえるかもしれない。
■八雲亡き後の妻セツの奔走ぶり
1904年(明治37年)9月26日、小泉八雲は心臓発作(狭心症)で永眠する。享年54歳。一方、妻のセツは1932年(昭和7年)に亡くなるまで、八雲の死後30年近く生き続けた。

八雲亡き後、セツは残された4人の子供を育てながら、八雲が残した遺産の管理を行った。なお、遺産には不動産や家財、金銭はもちろん、八雲の著書の版権も含まれる。
八雲は相続のトラブルを回避するため、遺産のすべてを妻セツに残す――という遺言状を残していた。そもそも、八雲が日本に帰化した理由のひとつに、日本国籍を持つ妻と子供に遺産を相続させることがあった。
その後の成り行きを見ると、八雲の遺産相続のやり方は極めて適切であったことが納得できる。ドラマでは英語がからっきし話せない学のない妻として描かれているセツだが、八雲の生前から家計の管理を行っており、金銭の扱いには長けていたようだ。
セツは八雲の版権を保有するだけでなく、対外的な交渉や管理を行い、そこから得られる印税で子供を育て適正な教育を受けさせたり、家や家財を維持したりした。セツと家族は八雲の死後も大久保の自宅に住み続け、八雲が愛用していた机や椅子、膨大な蔵書を保管し続けた。これらの多くは、島根県松江市の小泉八雲記念館をはじめ、熊本の旧居や静岡県焼津市の記念館などに展示されている。
さらに、セツは八雲の死語間もなくから、彼との生活を記した手記『思ひ出の記』を口述形式で著し、八雲との日本での生活を後世に伝えた。長男の一雄との回顧録と共に、ばけばけの「元ネタ」ともなっている。
■「インテリ向けの本」が名作の評価を得られた理由
八雲の作品は、彼の生前も高く評価されてはいたが、英語圏のインテリ層の間で読まれるようなものだった。
日本で彼の作品が評価されるようになったのは、八雲の死後に東京帝国大学の教え子たちを中心に翻訳が進められるようになってからのことだ。
版権管理と作品の評価が正しく行われないと、後世に作品を残し続けることはできない。
八雲の生前以上に、死後に作品が評価されるようになったのは、セツと八雲の子孫(特に曾孫の小泉凡氏)はじめ、彼らの親類縁者、八雲の教え子たちの尽力により、著作が日本をはじめとする各国で出版され、八雲の実績と作品の魅力が後世に伝えられたところも大きい。
ドラマでは駆け足で描かれてはいるが、多くの名作が生み出され、それが多くの読者を獲得するようになったのは、八雲夫妻の東京時代があったからこそなのだ。

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西山 守(にしやま・まもる)

マーケティングコンサルタント、桜美林大学ビジネスマネジメント学群准教授

1971年、鳥取県生まれ。大手広告会社に19年勤務。その後、マーケティングコンサルタントとして独立。2021年4月より桜美林大学ビジネスマネジメント学群准教授に就任。「東洋経済オンラインアワード2023」ニューウェーブ賞受賞。テレビ出演、メディア取材多数。著書に単著『話題を生み出す「しくみ」のつくり方』(宣伝会議)、共著『炎上に負けないクチコミ活用マーケティング』(彩流社)などがある。

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(マーケティングコンサルタント、桜美林大学ビジネスマネジメント学群准教授 西山 守)
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