NHK「ばけばけ」では、ヘブン(トミー・バストウ)とトキ(髙石あかり)の一家が東京で暮らす様子が描かれている。モデルとなった小泉八雲とセツは、どのような生活をしていたのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に史実をひも解く――。
■東京生活は“一時的なもの”と考えていた
いよいよ最終回も近づいたNHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」。トキ(髙石あかり)とヘブン(トミー・バストウ)の夫婦の物語は『怪談』という作品として、長く語り継がれることに……。
ついに東京に来たと思ったら、もう大団円。モデルである小泉八雲とセツの夫婦には、東京でこそ物語が多いのに、これだけは本当に残念だ。
さて、小泉八雲は1904年に豊多摩郡大久保村大字西大久保(現在の新宿区大久保1丁目)の自宅で死去している。実に東京で暮らすこと8年あまり。都会の喧噪を嫌った八雲としてはよく耐えたといったところだ。
いや、耐えたというより、当時はまだ新宿区も、その前身にあたる淀橋区もない郊外の土地(この地域の開発が本格化するのは関東大震災後)。それなので、なんとかなったといったところか。
そもそも、八雲の神戸での暮らしで語ったように、八雲は終の棲家はできれば松江、そうでなければ妥協しても神戸と考えていた。それでも、東京に出たのはセツが東京暮らしに憧れていたことと、東京帝国大学の400円という高給である。

(参考:「ばけばけ」では完全スルー…妻子を抱えて神戸に移住した小泉八雲が、たった2カ月で仕事を辞めた"切実な事情"
だから、八雲はいつまでも東京に住もうとは考えておらず、いつかは静かに暮らせる、よその土地に移ろうと考えていた。
■近くに寺がある、大学から遠い家
八雲が東京で最初に住んだのは、牛込区市谷富久町(現在の新宿区富久町)であった。ここに住むまでも紆余曲折があった。勤務に先立ち、1896年8月に八雲はセツと一緒に上京して住まいを探している。最初に大学が用意していたのは、小石川にあった西洋館の官舎だった。しかし、八雲はこれを気に入らなかった。八雲が求めていたのは、なるべく大学から遠い家であった。
大学としては、小石川であれば徒歩でも大学に通うことが便利だろうと気を利かせたつもりだろう。後に八雲の後任となる夏目漱石は、根津神社の裏手のほうに住んでいてここで『吾輩は猫である』を執筆している(現在の文京区向丘2丁目)。
こうして探し歩いて見つけたのが、市谷富久町の一軒家であった。現在は成女学園の門前にあたる場所にあった家は陽当たりのよい家であった。とりわけ八雲が気にいったのは、近くに、堂塔に使っている檜の節目が多いものを用いたため「ふし寺」または「瘤(こぶ)寺」とも呼ばれる古刹・鎮護山圓融寺自證院があることだった。


当時、まだ開発の進んでいなかった寺の周囲にはうっそうと木が茂っているところもあったし、寺に連なる墓地も点在していた。それを八雲は気に入ったわけだ。
■八雲、本当は「化け物屋敷」にひかれていた
しかし、実は八雲は、これよりも気に入った家があった。それは、同じく牛込にある、かつては旗本が住んでいたであろう古い家だった。この家を見に行った時、夫婦の反応は正反対だった。
門を入るとすぐに、もう薄気味の悪いような変な家でした。ヘルンは「面白いの家です」といって気に入りましたが、私にはどうもよくない家だと思われまして、止めることにいたしましたが、後で聞きますと、化け物屋敷で、家賃は段々と安くなって、とうとうこわされたとかいうことでした。この話をいたしますと、ヘルンは「ああ、ですから何故、あの家に住みませんでしたか。あの家面白いの家と私思いました」と申しました。
(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)

まったく、お互いを理解しきっている夫婦のハズなのに、突然かみ合わないのが面白いところ。
後で化け物屋敷と知った時、普通の夫なら「そうか、止めてくれて助かった」と殊勝になるところだ。ところが、八雲は悔しがっている。
本物の化け物屋敷だったと知って、むしろテンションが上がっているのである。
怪談作家として、これはある意味で正しい反応なのかもしれない。
しかし、セツにしてみれば「子供もいるのに、化け物屋敷に住みたいって何ですか‼」といったところだ。現代でも、アウトローや危険地帯に飛び込んで、多くのノンフィクションを書いてきた優れた描き手が気がついたら、子育てとか生活目線のエッセイを書いてることが少なからずある。おおむね家族ができて、守りに入ってしまうというわけだ。
■郊外で森があり“安心できるところ”
対して八雲は、妻がいようが子供がいようが作品に対しては常にフルスロットル。「芸のためなら女房も泣かす」スタイルである。ともすれば、家族のことも忘れて没頭してしまいそうな八雲の暴走を止めるのにセツは優秀なストッパーだったといえる。
そして、その絶妙なストップ加減が、後世に残る作品を生み出させたというわけだ。これも、やっぱり天の采配であろうか。
紆余曲折があったが、市谷富久町の家は八雲にとって安心できるところだった。なにより、東京だというのに郊外に位置していて、武蔵野の森がうっそうとしげっていた。
この土地は、後に自證院の北に幸徳秋水らが処刑された東京監獄ができたことで知られるが、八雲が住んでいた当時は規模の小さな市谷監獄があるだけで、宅地も限られていた。
このあたりは、現在の地図でいえば東西を走る靖国通りを谷底としていくつもの台地があるところだ。ゆえに散歩すればすぐに坂道に出会う。そうした喧噪に包まれた東京からは切り離された風景の中で、八雲はどうにかやめたい東京生活を、ぐっと我慢していたのだろう。
■近くの監獄では「毎度脱走騒ぎがありました」
しかも、この家の周囲は八雲なら喜びそうな適度な物騒さがあった。一雄は牛込時代のことを、こんなふうに回想している。
あの当時の囚人は概して獰猛だったのでしょうか、とにかく市ヶ谷監獄では毎度脱獄騒ぎがありました。重罪犯人が脱走した時などはカンカンカンカンと早鐘が鳴り、看守が抜剣してそこここと走り回りました。近所の子供等は兵隊ゴッコや戦争ゴッコ以外に愉快な遊びの一つとして泥棒ゴッコをして遊びました。
(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)

現代ならば脱獄ともなれば、テレビは速報を流し、SNSは「近くにいる方は外出を控えてください」で埋め尽くされる大事件だ。そもそも、そんな事件が「毎度」起きる刑務所など、今の日本には存在しない。
ところが当時の市谷監獄は、脱走が近所の日常風景に組み込まれていた。
子供たちは「泥棒ゴッコ」で遊び、看守が抜剣して走り回る光景を見物する。これが「ふつうの町」である。
八雲、大喜びである。セツ、頭を抱えたに違いない。
そして息子・一雄は後年、当時を振り返ってこう言っている。「山手の場末町の非文明な少年」……自称である。さすがは、化け物屋敷を「面白い」と言って悔しがった八雲の子供だ。
■市街地化が進み、騒がしくなり始めた
そんな土地で6年あまりを過ごした八雲だが、没する2年前の1902年、西大久保へと転居している。この転居もまた、一悶着した結果であった。
簡単に記せば、市谷富久町あたりにも、市街地化が進みあたりがにわかに騒がしくなったことが原因だ。それは、具体的には、こういうことだったと一雄は記している。
父が富久町にほとほと愛想を尽して、早くどこか適当な所へ引き移ろうと考えるに到った原因には、瘤寺の新住職が、永い齢を保って来た木々――父の朝夕の友である山の樹木――をドシドシ伐採して金に替えることと、水道の鉄管敷設のため、始終住居の前の道路を掘り返されることと、市ヶ谷監獄拡張工事のため、赤服や青服の囚人幾隊もがゾロゾロと家の前を通ること、およびその脱走する者が度々あることなど、これ等が主なる原因でした。

(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)

まるで現代の環境問題だ。寺としては自分のところの財産をカネにしてなにが悪いと言い分はあるだろう。でも八雲としては、その景色が気に入って、ここに住んだのだからふざけるなということだ。
■セツ「自分の好きなように、一軒建てたい」
そしてなにより、刑務所。この拡張工事は市谷監獄に隣接して新たに東京監獄を移設して拡張というものであった。気に入っていた、うっそうとした森がなくなるあげくに、近所にいかめしい刑務所の塀。おまけに、前は笑っていたとしても、シャレにならないほど囚人は脱走を繰り返すとなれば、いよいよ「こんなとこ住めるか‼」となるのは当然だ。
ところが、この引っ越しでも、またセツとは意見が対立している。八雲の終の棲家となる西大久保の家は売りに出ていたもので、淋しい田舎で、樹木が多くて、庭が広く、家が小さいのがよいという八雲の理想にはピッタリだった。ところが、セツはこれが不満だった。買うのであれば一から設計して自分の家を持ちたいというのがセツの願いだったのだ。
私はいつまでも、借家住まいで暮すよりも、小さくとも、自分の好きなように、一軒建てたいと申しますと、「あなた、金ありますか」と申しますから「あります」と申します。「面白い、隠岐の島で建てましょう」といつも申します。
私は反対しますとそれでは「出雲にたてて置きましょう」と申しますから、全く土地まで探したこともありました。しかし、私はそれほど出雲がよいとは思いませんでしたから、ついこの西大久保の売屋敷を買って建増しすることに、とうとうなったのでございます。
(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)

■“文句があっても献身的”な夫婦関係
セツの言い分は至極まっとうだ。それなりに財産はできた。それであれば、適当な売家を買うよりは自分の好きな家を建てたい。なにしろ、家事をするのは自分のほうである。これは多くの人間が抱く、ごく普通の夢である。
ところが、そういった願望を語ると、八雲は幾度か旅行で訪れたことがある「隠岐に建てましょう」とか言い出す。そう、八雲が夢ばかり語ってセツのほうは常にリアルを語っているのである。ゆえに、会話はまったくかみ合ってない。かみ合ってないのに、セツはそんなに出雲に建てたいならばと、土地を探すまでしている。
これがセツという人間である。反対しながら、付き合ってしまう。呆れながら、動いてしまう。文句を言いながら、最後は八雲の夢に引きずり込まれている。
理屈では勝っているのに、なぜか負けている。
お互いに「何年も夫婦やってるけど、この人は話にならないわ~」とならず、献身してしまうのが、二人のいいところなのだ。そして、その献身がかみ合わないまま積み重なった先に、『怪談』がある。二人の夫婦でなければ、あの本は生まれなかった。
トキとヘブンが画面の中で体現しているのも、結局はそういう夫婦の形なのかもしれない。

----------

昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

----------

(ルポライター 昼間 たかし)
編集部おすすめ