ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲と妻・節子(セツ)の結婚は入籍から10年で終わった。詩人の萩原朔太郎は「小泉八雲の家庭生活 室生犀星と佐藤春夫の二詩友を偲びつつ」(昭和16年)に「ヘルンのように神経質で気むずかしい男に仕えるのは、真に貞淑な八雲夫人だからできたことだった」と書いている――。

※本稿は『ちくま日本文学036 萩原朔太郎』(筑摩書房)の一部を再編集したものです。
■「世俗を離れたい」八雲の悲哀
彼(編集部註:小泉八雲)の文学は、本質的に我が『方丈記』や『徒然草』の類(たぐ)いと同じく、仏教的無常観によった『遁世者(とんせいしゃ)の文学』であり、ヘルン自身がまた現実の『遁世者』であった。寺の住持になって世を隠遁(いんとん)し、読経(どきょう)と墓掃除(はかそうじ)に余生を送りたいといった彼の言葉は、決して一時の戯れではなく、彼の心の無限の悲哀を告白した言葉であった。
だがそうした八雲の悲しい心は、常に最も夫人の心を痛ましめた。なぜならそれは、どんな貞淑に行き届いた妻の奉仕も、決して慰めることのできないものであったからだ。しかしもし、現実に八雲が世捨人になったとしたら、おそらくその貞淑な夫人もまた、『その同じ時』比丘尼(びくに)(編集部註:尼僧)になったかも知れないのである。
こうした悲しい対話――これほどにも悲しい対話があるだろうか――が、いつもこの夫婦の間では、半ば詩のごとく、半ば笑談のようにして語られた。『あなたの鼻高い、あなたの眼大きい』などという時、夫人はいつも指でヘルンの顔を突ついたりして、子供を扱うようにして戯れからかった。その度(たび)ごとに、ヘルンはまた『ごめん、ごめん』などと言って笑いふざけた。
そうした外観(うわべ)だけを見ている人は、おそらくこうした夫婦の生活を、たわいもない子供の『ままごと』遊びのように思ったであろう。しかもその対話の中には、いつも人生の最も悲哀な言葉が含まれていた。そしてその悲哀の意味を知ってるものは、世界にただ二人の、妻と良人(おっと)よりなかったのである。
『家のパパとママとは、だれにも解らない不思議な言葉で、だれにも解らない神秘なことを話している』と子供が無邪気に言った言葉は、実際にもっと神秘な意味をもっていたのである。
■妻セツとの「特異な夫婦関係」
ヘルン夫妻の結婚は、すべての点において特異であり、世の常の凡俗な夫婦関係とちがっていた。ヘルンにとっての夫人は、この世にただ一人の愛人であり、永久に『可愛い小さいママさま』であったと共に、またその仕事の忠実な助手でもあり秘書でもあった。日本字の読めないヘルンは、その『怪談』や『骨董(こっとう)』やの題材を、主として妻の口述から得た。怪談を話す時には、いつもランプの蕊(しん)を暗くし、幽暗(ゆうあん)な怪談気分にした部屋の中で、夫人の前に端坐(たんざ)して耳をすました。
話が佳境に入って来ると、ヘルンは恐ろしそうに顔色を変え、『その話、怖いです、怖いです』といっておののきふるえた。夫人にとっては、それがまた何より面白いので、話がおのずから雄弁になり、子供に聞かすようにしてなだめ話した。
■妻は執筆活動のパートナー
こうした夫婦の生活では、読書が妻の重大な役目だった。ヘルンが学校に行ってる間、夫人は暇を盗んで熱心に読書をし、手の及およぶ限り、日本の古い伝説や怪談の本を漁りよんだ。夫人が書斎の掃除をしたり、家事の雑務をしたりする時、ヘルンはいつも不機嫌であった。『ママさん。あなた女中ありません。
その時の暇あなた本よむです。ただ本をよむ、話たくさん、私にして下され』と言った。
しかしヘルンは、素読される書物の記事には、何の興味も持たなかった。すべての物語は、夫人自身の主観的の感情や解釈を通じて、実感的に話されねばならなかった。『本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければいけません』と常にいった。それ故多くのヘルンの著作は、書物から得た材料ではなく、その妻によって主観的に飜案化(ほんあんか)され、創作化されたものを、さらにまたヘルンが詩文学化したものであった。
■セツの学歴コンプレックス
それ故にヘルンもまた、自分の著作は皆妻の功績によるものだといって、深く夫人の労に感謝し、ある著述のごときは、実際に夫人の名で出版しようとしたほどであった。しかし夫人はあくまで良人に対して謙遜だった。彼女は田舎の程度の低い学校を出たばかりで、充分の高等教育を受けなかったので、常に自分の無学を悲しみ、良人に対して満足な奉仕ができないことを嘆き詫びた。
ある時ヘルンから万葉集の歌を質問され、答えることができなかったので、泣いてその無学を詫び、良人に不実の罪の許しを乞(こ)うた。その時ヘルンは、黙って彼女を書架の前に導き、彼の尨大(ぼうだい)な著作全集を見せて言った。
この沢山の自分の本は、一体どうして書けたと思うか。皆妻のお前のお蔭(かげ)で、お前の話を聞いて書いたのである。『あなた学問ある時、私この本書けません。あなた学問ない時、私書けました』と言った。
実際もし彼の妻がインテリ女性であったとすれば、日本の古い伝説や怪談やを、女の素直な心で率直に実感することはできなかったろう。『無学で貞淑な女は天才以上である』とニイチェが言っているが、ヘルンの妻のごとき女性は、正にその意味での『天才以上』であったのである。
■欧米の友人に日本の生活を自慢
こうした貞淑の妻にかしずかれて、日本での晩年を平和に暮した詩人ヘルンは、さすがに自らその寂しい幸福を自覚していた。彼はその故国の友人に手紙を書き、日本での生活実況を次のように詳述している。
曰(いわ)く、学校の講義が終ると、車夫が人力車を持って迎(むか)えに来ている。家の玄関へつくと、車夫がとても威勢の好(よ)い大きな声で、『オ帰リイ』と叫さけぶ。すると家中の者がぞろぞろ出て来る。妻や女中たちが、玄関の畳に列ならび坐って、『お帰り遊ばせ』とお辞儀をする。
それから座敷へ上ると、妻が洋服をぬがせて和服に着かえさせてくれる。まるで女の子が、人形を玩具おもちゃにするようである。私は妻の為(なす)通りに任せている。
それから少し休息し、書斎に入って仕事をする。晩食の時には、一家の者が集まって話をする。私が日本酒を飲むので、妻が酌をしてくれる。女たちはよく笑う。私も時々笑談を言う。仕事の多い日には、しばしば夜更しをして書きつづける。そういう時、妻はわざわざ私の所へやって来て、『遅くなりますから、お先へ休ませて戴きます』と言う、丁寧に三つ指をついてお辞儀をし、それから自分の寝床へ入る。度々のことで面倒だから、今度から止(や)めにして、先へ勝手に寝ることにしろと何度も言うが、妻は婦道に背くと言い、なかなか承知しないので困っている云々(うんぬん)(大意)と。
こうした手紙の中に、ヘルンの大得意な満悦さが現われている。
実際彼の妻のように、良人に対して忠実な奉仕をする女性は、普通の西洋婦人の中にはほとんどなく、これほどまた男が殿様扱いにされる家庭生活も、西洋では考え及ばないことであるから、ヘルンの手紙をよんだ外国人たちが、いかにその日本の友人を羨望したかが想像される。ヘルン自身も、もちろんまたそれを意識して書いてるので、『どうだ。羨(うらや)ましかろう』という自誇の情が、そうした手紙の言外によく現われてる。
■妻たちには殿様扱いされたが…
しかしヘルンのように神経質で気むずかしく、感情の変化が烈(はげ)しい男に仕えるのは、普通のありふれた日本の女性では、容易に為し得ないことであったろう。真の『貞淑』とは、良人に奴婢(ぬひ)(編集部註:従者)としての善き奉仕をすることではなくして、良人の気質や性格をよく理解し、努めて良人に同化して一心同体となることの奉仕である。そしてそのためには、人の心理を洞察する聡明な智慧(ちえ)と、絶えず同化しようと努めるところの、献身的な意志と努力が必要である。
ヘルンの妻であった日本女性は、もとより極めて聡明であったと共に、武士道ストイシズムの家庭教育から、非常な意志の力をもって努力した。彼女は自らそれを告白して、良人の気性をすっかり呑み込むようになるまでは、一通りでない努力をしたと言ってる。しかしよく解った後では、全く子供のように正直一途で、子供のように純情無比の人であったと言ってる。
実際ヘルンは――多くの天才的な詩人と同じように――本質的に子供らしい純情さと無邪気さを持った性格者だった。そのため夫人は一面において旧日本的な婦道と礼節とによって、恭(うやうや)しく彼に仕えながらも、半面においては彼を子供扱いにせねばならなかった。夫人にとってのヘルンは、最も信頼しんらいする良人であったと共に、一面ではまた『大きな駄々(だだ)ッ子こ坊や』でもあった。
ヘルンの趣味はすべてにおいて庶民的で、儀式ばったことが嫌いなので、フロックコートなどの礼服を非常に嫌い、常に野蛮人の服と称し『なんぼ野蛮の物』と言っていた。それで学校に式のある時など、他の教師は皆礼服で列席するのに、ヘルンは一張羅の背広で押し通していた。
■妻にとっては手のかかる駄々っ子
しかしそれではあまり体面に関するので、夫人が是非フロックコートを新調するようにすすめたが、頑(がん)として中々きかない。それで夫人から『あなた、日本のこと、大変よく書きましたから、お上(かみ)で、あなた賞(ほ)めるためお呼びです。お上に参るの時、あなた、シルクハット、フロックコートですよ』などと、子供をだますようにして説き伏せられ、やっと礼服を新調したけれども、やはり少しも着ようとしない。それで式のある日などには、夫人が無理に押さえつけ、女中までが手伝って騒(さわ)ぎながら、まるで駄々ッ子を扱うように、あやしたりすかしたりして、厭(いや)がるのを強いて着せねばならなかった。

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萩原 朔太郎(はぎわら・さくたろう)

詩人

1886年、群馬県前橋市生まれ。熊本の第五高等学校、岡山の第六高等学校をともに中退。1913年、27歳のときから詩人として作品を発表する。1917年第一詩集『月に吠える』で高く評価される。第二詩集『青猫』も評判となり、日本の近代詩を確立した。他の作品に『氷島』『猫町』など。1942年に55歳で没

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(詩人 萩原 朔太郎)
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