「ばけばけ」のモデル、ラフカディオ・ハーン(ヘルン)は小泉八雲となり、54歳のときに死去した。その影響を受けた詩人の萩原朔太郎が「小泉八雲の家庭生活 室生犀星と佐藤春夫の二詩友を偲びつつ」(昭和16年)にその生前最後の日々を詳しく書いている――。

※本稿は『ちくま日本文学036 萩原朔太郎』(筑摩書房)の一部を再編集したものです。
■ヘビやカエルを愛したハーン
いわゆる『文明』を嫌ったヘルンは、反対にあらゆる自然を深く愛した。特に虫や鳥やの小動物を愛し、蛇、蛙、蝉、蜘蛛(くも)、蜻蛉(とんぼ)、蝶などが好きであった。それらの小動物に対して、彼はいつも『あなた』という言葉で呼びかけ、人間と話すようにして話をした。そうした彼の宇宙的博愛主義は、草木万有の中に霊性が有ると信じられてるところの、仏教的な汎神論(はんしんろん)にもとづいていた。それ故彼は、動物を始め植物に至るまで、すべて生物を虐(いじ)めたり殺したりすることを非常に叱った。女中が蛇を追ったといって叱られ、植木屋が筍(たけのこ)を抜いたといって怒られ、はては『おババさま』の姑(編集部註:セツの養母トミ)でさえが、枯れた朝顔をぬいたというので『おババさま好き人です。しかし朝顔に気の毒しました』と叱言(こごと)を言われた。
■「ばけばけ」に登場しなかった動物
ヘルンはまた猫が特別に好きであった。松江に居た時も焼津に居た時も、道に捨猫さえ見れば拾って帰り、幾疋(いくひき)でも飼って育てた。夫人と結婚して間もない頃、雨でずぶ濡れになった小猫を拾って帰り、その泥だらけのままの猫を懐中に入れて、長い間やさしく暖めていた。夫人の告白によれば、自分の良人(おっと)に対する真の愛は、その時初めて起ったという。
これほどにも情深く、心根のやさしい人があるかと思い、ヘルンに対して、何かいじらしく涙ぐましいものさえも感じたというのである。
そうしたヘルンの家庭では、自然界のちょっとした出来事や現象やが、いつも物珍(ものめずら)しく大騒ぎの種になるのであった。たとえば裏の竹藪(たけやぶ)に蛇が出たとか、蟇(ひき)が鳴いてるとか、蟻の山が見つかったとか、梅の花が一輪咲いたとか、夕焼が美しく出ているとかいうようなことを、だれか家人の一人が発見すると、一々それをヘルンの所へ報告に行く。
するとヘルンは大悦びで部屋をとび出し、『いかに可愛きでしょう』とか『なんぼ楽しいの声でしょう』とか『いかに綺麗(きれい)』とか言いながら、何時間もその小動物を眺めたり、夕焼雲を見たりして悦ぶので、そうした小事件が見つかるたびに、女中や書生等の家人たちが、さも大手柄の大発見をしたように、功を争ってヘルンの所へ馳けつけるので、いつも家中が和やかに賑っていた。
■ヘルンの好む静寂は「美しいシャボン玉」
しかし仕事をしている時のヘルンは、最も気むずかしやの八釜(やかま)しい主人であった。家内のちょっとした物音や話声にも、感興を破られたといって苦情を言った。夫人でさえも書斎に入ることは許されなかった。ちょうど『美しいシャボン玉』を壊さないように、注意に注意して気をつけましたと、未亡人となった夫人が後で言っている。しかしあまり部屋が乱雑に散らかるので、夫人が折を見て掃除に行くと、『あなた、いつも掃除、掃除、掃除。あなたの悪い病(くせ)です』といって、中々許してくれないので、書斎はますます乱雑になるばかりであった。
ヘルンの机の座右には、常に日本の煙草盆と煙管がそなえてあった。ヘルンは日本の煙管を好んだので、夫人が外出するごとに変った物を見付けて帰った。
それがたまって三十本にもなってるのを、残らずヘルンは座右におき、仕事の中(うち)にも手当り次第に掴(つか)み出しては、国分(こくぶ)の刻煙草をつめて吸ってた。ある時夫人が、江の島に遊んだ土産(みやげ)として、大きな法螺貝(ほらがい)を買って帰った。ヘルンはそれがたいへん気に入り、『面白いの音』といいながら、頬をふくらして、ボオボオと吹き鳴らしては、また『いかに面白い』といって吹き続けた。それでその貝を机に置き、今後煙草の火が消えた時は、手を鳴らす代りに貝を吹くという約束にした。
西大久保の家に移った時は、ヘルン夫妻と姑の外に、子供が三人。女中が二人、書生が一人、老僕(ろうぼく)が一人、他に抱車夫(かかえしゃふ)が一人という大家族であったので、家も相当に広く、間数がいくつもあって廊下続きになっていた。しかしヘルンが仕事をしている時は、家人が皆神経質に注意しているので、家中がひッそりとして閑寂に静まり返っていた。
■自室で法螺貝をボオボオと鳴らした
そういう時の夜などに、ヘルンの書斎から法螺貝の音が聞えて来ると、それが広い家中に響き渡って、ボオボオと余韻の浪(なみ)をうって伝って来る。すると『それ貝が鳴った』とばかり、夫人を初め女中や書生たちが大騒ぎをし、先を争って離れの書斎に駈けつけた。『吹くのが面白いものだから、自分でわざと火を消しては、やたらに吹いた』と、夫人が追想談で話しているが、おそらくそういう場合、ヘルンの筆が行き渋り、感興が中断した時であったろう。そうした時の寂しさとやるせなさを紛らすために、詩人はわざと煙草の火を消し、ボオボオという寂しい貝を吹いたのである。
■「人生は短すぎる」とため息を
晩年の八雲は、痛ましいまでその仕事に熱中した。
既に老の近づいたことを知った彼は、自分の残されてる短かい時間に、なおまだ書かねばならない大事の事が、あまりに多くありすぎるのを考えて愁然(しゅうぜん)とし、『人生は短かすぎる』と幾度(いくど)も言って嘆息(たんそく)した。
彼は心臓に病があった。その危険な兆候が、五十歳を越えてからしばしば現われて来た。初めて大久保の新居に移った時は、春の麗(うら)らかな日であって、裏の竹藪で鶯(うぐいす)がしきりに鳴いてた。八雲は縁側に立ってそれに聞き惚れ、『いかに面白いと楽しいですね』と言って喜んだが、また『私、心痛いです』と言った。何か心配でもあるのかと夫人が聞いたら、あまり楽しくて嬉(うれ)しいので、いつまでこの家に住み、いつまでこんな幸福が続くかと思い、それがまた心配になって来たと言った。
そうした彼の言葉通りに、現実の心配が迫って来た。老いが既に来り、死の近づいて来たことを知った彼は、すべての自然を感傷的に眺めることから、万象に対して愛以上の深いものを注いだ。ある晩秋の日に、庭の桜が返り咲きをしたのを見て、『春のように暖かいから、桜思いました。ああ今、私の世界となりました。で咲きました。しかし……』と言って悲しげに『かわいそうです。
今に寒くなります。驚いて凋(しぼ)みましょう』と言った。桜は実際その日一日で散ってしまった。
またその同じ秋の夕べ、籠(かご)に飼ってる松虫が鳴いてるのを聞き、『あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ悦びました。しかし段々寒くなって来ました。知ってますか。知っていませんか。直(じき)に死なねばならないということを。気の毒ですね。かわいそうな虫』と寂しげに言い、この頃の暖かい日に、そっと草むらの中に放してやれ、と家人に言いつけた。
■妻セツは芝居見物で歌舞伎座へ
その頃のヘルンは、瞬時を惜しんで仕事に熱中していたため、以前のようには、度々妻と一所に旅行したり、散歩したりすることができなかった。
それで妻の屈託を慰めようとし、夫人に向って度々外出や遊山(ゆさん)をすすめた。『外に参りよき物見る。と聞く。と帰るの時、少し私に話し下され。ただ家に本を読むばかり、いけません』と言った。
また時々は夫人に芝居見物をすすめて、『歌舞伎座に団十郎、たいそう面白いと新聞申します。あなた是非に参る、と、話のお土産』など言いながら、後ではいつも少し凋(しお)れて『しかしあなたの帰り、十時、十一時となります。あなたの留守、この家私の家ではありません。いかに詰(つま)らんです。しかし仕方がない』などと言った。
■自分の死期を悟り、妻に言った言葉
初めて病気の発作が起った時、ヘルンは自己の運命をすっかり自覚し、死後における妻子の保護と財産の管理とを、親友の法学士に一任して、後に心がかりのないようにした。そして妻に向って言った。

『この痛み、もう大きの、参りますならば、多分私は死にましょう。私死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶(かめ)買いましょう。三銭あるいは四銭位です。私の骨入れるために。そして田舎の、寂しい寺に埋(う)めて下さい。悲しむ、私よろこばないです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい。いかに私それを悦ぶ。私死にましたの知らせ、要(い)りません。もし人が尋ねましたならば、ハア、あれは先頃なくなりました。それでよいです』と、そして何か困難な事件が起ったならば、法学士の梅氏に相談しろと言った。
『そのような哀れな話、して下さるな。そのようなこと、決してないのです』と夫人が言うに対しても、『心からの話、真面目(まじめ)のことです』と言い、『仕方ない!』と死を覚悟していた。しかもなお残された仕事のことを考え、『人生は短かすぎる』と幾度か嘆息した。
■最後に長旅をする夢を見た
桜の花が返り咲きをした日から、数日を経てまもなくヘルンは死んでしまった。死ぬ前の日に、彼は不思議な夢を見たと妻に話した。それは日本でもない、支那(しな)(編集部註:中国)でもない、大層遠い遠い見知らぬ国へ、長い旅をした夢であった。
そして今ここに居る自分が本当か、旅をした自分が本当かと夫人に問い、『ああ夢の世の中』、と呟(つぶや)いて寂しげに嘆息した。わが漂泊の詩人芭蕉は『旅に病んで夢は枯野(かれの)をかけめぐる』といって死んだ。夢見ることによって生きた詩人等は、また夢見ることの中で死ぬのであった。
世界の国々を漂泊して、ついに心の郷愁を慰められなかった旅人ヘルンは、最後にまたその夢の中で漂泊しながら、見知らぬ遠い国々を旅し歩いた。今、この悲しい詩人の霊は、雑司ヶ谷(ぞうしがや)の草深い墓地の中に、一片の骨となって埋まっている。
(昭和16年9、10月執筆)

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萩原 朔太郎(はぎわら・さくたろう)

詩人

1886年、群馬県前橋市生まれ。熊本の第五高等学校、岡山の第六高等学校をともに中退。1913年、27歳のときから詩人として作品を発表する。1917年第一詩集『月に吠える』で高く評価される。第二詩集『青猫』も評判となり、日本の近代詩を確立した。他の作品に『氷島』『猫町』など。1942年に55歳で没

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(詩人 萩原 朔太郎)
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