■「退職金より今の給料」を選ぶ大手企業
最近、私たちの働き方や、給料の仕組みが大きく変わりつつある。
製紙大手の王子ホールディングスは、新たに入社した人の退職一時金を廃止し、給与引き上げに回すと発表した。
また、ある企業は、従業員のボーナスを自己資本利益率(ROE)に連動させるという。こうした動きを見ると、伝統的なわが国の雇用慣行は大きく変わりつつあることが分かる。
そうした変化の背景には、企業経営者の意識が変わっていることがある。1990年代以降、バブル崩壊に伴って、日本企業は守りを優先してきた。その結果、多くの企業が、世界経済の環境変化への対応は遅れた。
昔からの慣行に従っていては、グローバルな競争で生き残ることが厳しくなっている。そのため、大手企業を中心に、生き残りをかけて雇用の形や給与システム、さらには事業構造などの仕組みを変えようとしている。
■人生100年時代を謳歌するためには
そうした変化に対し、わたしたちはこれまでの意識を変え、賢い対応策をとることが必要になる。大切な人生を守り、さらに充実させるため、これから新しくなる制度をフルに活用することが重要になる。
大切なことは、常に学び続けて自分の実力を磨き、自分の価値=マーケットバリューを高めることだ。自己投資は、人生100年時代を謳歌する最も重要な戦略といえる。常にしっかりした意識を持って、何事にもチャレンジする姿勢を持つ必要がある。
国としても、人生学習の機会を拡充すべきだ。
■経済成長期だから意味があった雇用制度
伝統的に、わが国では新卒一括採用、年功序列、終身雇用の雇用慣行を重視する企業が多かった。こうした慣行がいつ始まったかについては諸説ある。約1世紀前の1920年代から、日本企業は熟練工の定着を主な目的に、勤続年数に応じた賃金体系を導入したといわれている。
1950年代半ばから約20年間続いた高度経済成長期、新卒一括採用による労働力の確保を重視する企業は多かった。長期視点で従業員を確保するため、終身雇用の制度も定着した。人口増加・経済成長を前提に、日本企業は年功序列の昇進や昇給を行った。こうした積み重ねで雇用慣行は形成された。今なお、3つの慣行を重視する企業は少なくない。
ただ、近年の雇用を取り巻く環境は急速に変化した。一言でいうと、転職する人が増え労働市場の流動性は上昇した。ある意味では、欧米のような市場環境に徐々に近づいている。

新卒一括採用ではなく、通年採用を実施する企業は増えた。中途採用の比率も高まった。2025年度の中途採用比率は46%程度に上昇したという。
■新卒社員は月40万円も稼いでいるのに…
入社年次、その後の勤続年数で賃金が増える年功序列の賃金制度も変容している。同じ部署であっても、実績などに応じて中途採用者に高い給与を支払う企業は増えた。上司と部下の年次が逆転するのは当たり前になりつつある。
新卒者の月給を40万円台に引き上げ、若年層の確保を急ぐ日本企業もある。そうした変化に動かされるように、賃上げの恩恵が及びづらい40代、50代の転職も少しずつ活発化している。
王子HDのように退職一時金を廃止して、その分、月々の賃金を多く支払う企業もある。終身雇用ではなく、2年、3年といった期限で雇用契約を見直す金融機関も増えた。年金制度を、確定給付から確定拠出型に切り替える企業も増えている。それによって、企業の年金運用などの負担は軽減される。

終身雇用の考えも変化している。企業の決算が黒字であっても、構造改革(リストラ)の一環で希望退職を募ることも見かける。もはや、終身雇用の考え方はあまり通用しないとの指摘もある。
■経営者「このままでは生き残れない」
そうした変化の背景には、企業経営者の危機感の高まりがある。このままでは、厳しい国際競争に生き残ることは難しいとの危惧は増えた。そうした事態の打開を目指し、少しずつではあるが変革が実行されている。
1989年末まで、日本経済は好調だった。一時、一人当たりGDPで米国を上回った。1989年末、世界の上場企業の時価総額トップ10のうち、7社が日本企業だった。当時、わが国の雇用・賃金システムは世界から成功モデルとみなされた。
しかし、転換点がやってきた。1990年初めのバブル崩壊だ。
それをきっかけに、経済は長期停滞に陥った。企業経営者も消費者も、景気減速、株価や地価急落の恐怖からリスクテイクを避けた。労働組合は、賃上げよりも雇用の維持(保障)を求めた。
一方、企業経営者はコスト圧縮のため非正規雇用を増やした。政府はインフラ投資など公共事業を積み増して、景気刺激策を取った。わが国の政治家は、「苦境を耐えしのげば、また、景気は良くなる」と考えたのだろう。
■いまの給与体系では人材の確保が難しい
ところが、1990年代の米国ではIT革命が起きた。米国企業は投資負担の重い製造事業を台湾、韓国、中国などの企業に委託した。世界的な水平分業の加速である。垂直統合に固執した日本企業は事業環境の変化に取り残され、デジタル後進国ぶりは今なお深刻だ。
現在、国内企業は労働力不足にも対応しなければならない。目先の事業運営に必要な労働力を確保するために、賃上げは避けて通れない。
成長期待の高い海外市場における成長戦略の重要性も高まっている。
企業の競争力を高めるためには、「専門家=プロ」の登用が求められる。常に、社内に、必要な人材がいるとは限らない。提携や買収戦略の実行、マーケティング、財務、労務管理、さらには近年リスクが急上昇しているサイバーセキュリティと、実績ある人の給与水準は高い。企業が成長を目指すために、賃金・雇用慣行の見直しは急務だ。
その対応が遅れると、国内外の競合他社にシェアを奪われる。AI関連分野の成長加速で、事業環境の変化の規模感とスピードも格段に高まった。国際競争に対応できないと致命傷になりかねない。危機感を持った経営者は構造改革を推進し、労働市場全体に変化が押し寄せた。
■「転職で成功する人」になるための条件
近年、日本企業の中から、業績、個々人の職務や実績、さらには株価上昇率などで賃金やボーナスを変動させるケースが出始めた。降格人事を行う企業もある。
伝統的な雇用慣行は急速に変化している。
それに伴い、私たちはこれまでの常識、思い込みが通用しない時代との意識を持つことが必要だ。それが、今後の環境変化にうまく、賢く対応するための第一歩といえる。
対応策の一つは、とにかく自分を磨き、マーケットバリューを高めることだ。マーケットバリューが高まれば、一つの企業の固執する必要は薄れる。有利な転職の機会は、これまで以上に転がっている。
大切なのは、学び(勉強し)続けることだ。人口減少により65歳、70歳を超えても働くことは当たり前になるだろう。年齢、性別を問わず、効率的に付加価値を創出できる人材への需要は高まる。学ぶことへの意識は高めたほうがよい。通信講座や社会人大学院での学び以外の方法もある。注目したいのは、文明の利器であるAIの利用だ。
■現状を憂うより、成長のチャンスと捉える
形式知(言語や数値で表示できる知識、情報)に関して、AIはわたしたち人間と同じかそれ以上の能力を発揮するようになった。正確性の検証は不可欠だが、適切に質問すると必要な答えを提示してくれる。AI利用ひとつをとっても人間の実力が問われるわけだ。
私たちにあってAIにないのは、変化を機敏、かつ大局的に察知するといった感覚(センス)だろう。自分の専門分野、関心がある分野の先行研究をAIで調べると、理解のスピードは高まる。その活用方法を調べると具体的なイメージもわく。成果を実務に活かすことで付加価値創出の可能性は高まる。
学びを重ねると、起業のチャンスも出てくるだろう。このように考えてみると、給与システムの変革など労働市場全体の変化は、わたしたちが成長するチャンスだ。前向きな感覚をもって労働市場全体の変化に対応することは、より良い人生を送る賢い方策になるだろう。

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真壁 昭夫(まかべ・あきお)

多摩大学特別招聘教授

1953年神奈川県生まれ。一橋大学商学部卒業後、第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。ロンドン大学経営学部大学院卒業後、メリル・リンチ社ニューヨーク本社出向。みずほ総研主席研究員、信州大学経済学部教授、法政大学院教授などを経て、2022年から現職。

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(多摩大学特別招聘教授 真壁 昭夫)
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