NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」の主人公のモデルになったラフカディオ・ハーンは、どんな人物だったのか。成蹊大学客員教授の小川秀樹さんは「若き日のハーンは、当時法的に認められていなかったハーフの女性との結婚を強行した。
彼の恋愛に対する屈折した姿勢には、父親の奇特な女性趣味が影響している」という――。
■「ばけばけ」ではわからないハーンの素性
幕末以降、明治初期にはお雇い外国人を含めて多くの外国人が来日した。そのうちの一人であるラフカディオ・ハーン、日本名「小泉八雲」をモデルとした人物ヘブンがNHK連続テレビ小説「ばけばけ」に登場している。
ハーンはアイルランド出身のイギリス系ながら、生まれはギリシャであり、ジャーナリストとしてアメリカやカリブの島での滞在を経て来日した。松江などで英語教員を務めつつ、活発な著作活動によって日本の文化を世界に広く発信し、とりわけ「怪談」もので有名である。
渡日前のアメリカでは結婚・離婚を経験し、また生涯続く女流ジャーナリストとの魂と魂の運命的な出会いがあり、日本でも結婚し家族を設け、さらに日本に帰化して東京で亡くなった。
劇中では小泉八雲の妻セツをモデルにした主人公トキとヘブンの生涯が丹念に描写されているが、言及が少なかった要素も少なくない。その一つが「出自」だ。
ここでは、ヨーロッパに生まれてアメリカに移り、日本で生を終えたコスモポリタン(国際人)たるハーンの生涯にまつわる謎を、家系や人間関係等を踏まえて解き明かしていこうと思う。
なお本稿では、イギリスと人的に密接な関係がある対岸の地ベルギーに多く触れている。19世紀に新しく建国された国でもあり、歴史的な脈絡では「フランドル」(英語でフランダース)という名称を主として用いている。
■ゆかりのないギリシャで生まれたワケ
はじめにラフカディオ・ハーンの人物像を明らかにしておこう。

ハーンが2歳から13歳まで暮らしたのはアイルランドだ。当時のアイルランドといえば、ヨーロッパの西端の島国でイギリスに支配されていた“弱者”というイメージがある。また、幼少期の両親の離婚、左目の視力を失う学校での事故、さらには大叔母の破産により若くして単身アメリカに渡ったという境遇のため、恵まれない不遇な半生と見られがちだ。しかし、本当にそうだろうか。
ハーンを理解するために重要なのは、彼はアイルランド統治のために本国から渡っていった“強者”の側、プロテスタントのイギリス人家系出身(アングロ・アイリッシュ)であること。しかもその祖国イギリスにおいても、ハーンの家系は11世紀のノルマンディー公ウィリアムによるイギリスの王権奪取(ノルマン征服)における功績で所領を得た上流階級(王族・貴族等を占めたフランス・フランドル系)の末裔であるという事実である。
ハーンは1850年、イギリスの軍医だったアイルランド生まれの父チャールズの赴任地で、東西文明の接点である東地中海のギリシャ・レフカダ島で生まれた。母ローザは、アラブの血も混じっているとされるキシラ島出身の裕福なギリシャ人だ。
チャールズがダンスを通じて出会った地元の美女ローザは良家出身だが、読み書きができず英語はあまり通じなかった。それにもかかわらず、ハーンの懐妊を知った2人は結婚することにしたのだ。同じクリスチャンとはいえ、短期赴任先である異国のギリシャ正教の地で結婚に走るとは、父チャールズは女性に関しては激情的な性格であったと思われる。
■7歳で両親に捨てられる
2歳のころ、ハーンは母とともに父親の実家があるダブリンに戻り、翌年には父も帰国した。
しかし4歳の時、父がクリミアに転属してから一家に異変が生じる。
父が転属してから間もなく、言葉や宗教の壁、寒冷な気候、さらには夫のやや放縦な女性関係も影響して、異国での生活に馴染めず精神を病んでいた母がギリシャに帰国してしまったのだ。
父はその時期に幼なじみの女性と再会していたといい、他方、母は帰国後すぐに別の男性と再婚して子供にも恵まれている。ハーンの父母の双方に言えることだが、異性に関してはずいぶん行動が積極的で迅速である。
その後両親の離婚が成立し、父は先ほどの幼なじみアリシア・ゴスリン(旧姓)という女性と結婚してインドへ旅立った。ゴスリン姓はフランス・フランドル系の貴族家系を意味する。
以上のことは、父チャールズがエキゾチックであったり名門家系出身であったりする女性を好む一方で、「海外」での自由な恋愛と「祖国」での地縁にもとづいた昔ながらの恋愛を志向するという、いずれも女性に対するやや分裂的な姿勢を示していよう。
このときハーンはわずか7歳。両親の奔放な恋愛の巻き添えを食ったハーンは、早くも天涯孤独の身となってしまったのである。
■ハーンがカトリック嫌いになったワケ
両親から十分な庇護が受けられなかったハーンは、父方の祖母が英語を話さなかったこともあり、その妹である大叔母サラ・ブレナンに引き取られた。ブレナンはもともとユグノー(フランス系カルヴァン派プロテスタント)だった裕福な未亡人である。ハーンは彼女の改宗後のカトリックの環境下で、ノルマンの血を引く乳母(コステロ姓)に育てられた。

ハーンは少年時代にダブリンやイギリスだけでなく、フランスでもカトリックの教育を受けた。後に仏文学を翻訳するほどに優れたフランス語能力を身につけたのはこの時期だ。
フランスでカトリック教育を受けることができたのは大叔母の前夫の親戚であるヘンリー・モリヌーの斡旋によるもので、一族のフランスとの強いつながりを示す。ただし一連の厳格なカトリック宗教教育を経て、ハーンはカトリック嫌いになった。
もともとカトリックとプロテスタントとの対立に疑問を抱いていたところに、愛する母の祖国のギリシャ正教を含む東方文化への親近感があったことも影響して、彼の精神は宗教面でも引き裂かれていったのだ。
■11世紀から続く名門家系
ハーン家の恵まれた社会的地位と家柄をもう少し跡付けてみよう。本名はパトリック・ラフカディオ・ハーンであり(綴りはHearn。他にもさまざまな綴りがある)、それがアイルランド的かつカトリック的だからか、20歳代半ばから名のパトリックを捨てて単にラフカディオ・ハーンと名乗り始めた。
アイルランド固有のハーン姓とは異なり、彼のハーン姓は大陸由来のノルマン系だ。長らく鳥のサギ(英語のヘロン)と結び付けられ、ハーン家の紋章にも用いられている。
ハーン家の先祖はノルマンディーのルーアン近郊に居城を有し、ウィリアム征服王のノルマン征服に参加した結果、スコットランド国境方面に領地を得た。その事実は世界初の土地台帳ドゥームズデー・ブック(※)にも記されている。
イギリスでは、フランス系など大陸のルーツは名門とされる。
ただしそのハーン姓やヘロン姓あるいはヘルン姓は、いずれもフランスの姓というより、むしろフランドル的かつユダヤ的な姓だ。実際、ベルギー南部のフランス語地域には同名の町が2つある。
フランドルにユダヤ人(系)が多いのは、1492年にレコンキスタ(キリスト教徒による国土回復)でスペインからイスラム勢力が追放された際、それに続き改宗しないユダヤ人もスペインを追われたことに起因する。
彼らの多くはまずは隣国ポルトガルに、そして次にはアントウェルペン(アントワープ)に逃れて、そこから本国ポルトガルやスペインの大航海時代を経済面で支えた。その彼らが、後には宗教改革・オランダ独立戦争でさらに北上し、今度はオランダの大航海時代を演出したという経緯がある。
いずれにしても、ハーンの家系は大陸由来の貴族の系譜である。

※:1086年にウィリアム1世が作成したイングランドの土地台帳。ノルマン征服の褒賞として大陸側の従軍領主にイングランド中の領土が分け与えられた際、課税や領地管理のため資源や家畜数が詳細に記録された。その決定が絶対的で変更不能なことから「最後の審判(ドゥームズデー)」になぞらえて呼ばれた。
■「祝福されない結婚」をした相手とは
渡米したハーンに話を戻そう。
1869年、モリヌー氏に投資していた大叔母ブレナンの破産もあり、庇護者を失った19歳のハーンはアメリカのオハイオ州シンシナティに住むモリヌー家の親戚を頼りに、追いやられるように渡米した。


アメリカに渡り、シンシナティで無一文だったハーンの当初の困窮を救ったのは、空想的社会主義者の印刷業者で、父親代わりだったヘンリー・ワトキンである。またシンシナティで順に契約した2つの新聞社の担当編集者コックリルとヘンダーソン、さらにはハーンの出版を手掛け、日本渡航の契機ともなった大手出版ハーパー社の編集者パットン等、ハーンを支えた主だった人々は、その姓から皆がフランドル系アメリカ人と考えられる。
さて、ハーンの女性に対する姿勢は父親以上に屈折して複雑である。米国移住後のハーンはシンシナティで、欧州系とアフリカ系との混血で、読み書きはできなかったムラートのアリシア(マティ)・フォリーと法的には認められない結婚をして、それがゆえに後に離婚している。
フォリー姓はノルマン征服由来で、上記ドゥームズデー・ブックにも載っている北フランスやフランドルに多いユダヤ的な姓である。注目すべきはその姓がイギリスのフランス系の王族(プランタジネット朝)にも繋がる名門の姓であることだ。フォリーは母親がアフリカ系で、父親はフランス語圏のヨーロッパ系北米移民だった可能性がある。
■血を争えないハーンの好色ぶり
ハーンがアメリカで許されぬ異人種間の結婚を半ば強行した背景には、異文化に対する飽くなき関心はもちろん、母を通じた自らのギリシャ・東地中海方面につながる血筋や、父方のヨーロッパ大陸由来かつユダヤ系と思われる東地中海由来の家系へのシンパシーがあったのではないか。
また、自らの左目の怪我と相手方の肌の色という二人の社会的ハンディキャップによる共感、さらには「ハーン」とも十二分に釣り合う「フォリー」という王族にもつながる格式の高い家名への親近感もあっただろう。
ハーンとフォリーの結婚は、まさに父親のローザとの結婚を彷彿とさせる。ハーンには女性に対する父親譲りの、いやそれ以上の激情的かつ猪突猛進的な性向があったのだろう。フォリーは、父親にとってのローザ以上に、エキゾチックであることと名門家系であることを同時に満たす存在だったのだ。

他方で、ハーンにとって最も重要な人物の一人は、「文章上の恋」と表現され、愛おしいにもかかわらず再会すら叶わない「ミューズ」(芸術創造の源泉たる女神)、ルイジアナ出身の女流ジャーナリストであるエリザベス・ビズランドだ。
ビズランドというのは相当に珍しいスコットランド姓であるが、もともとユグノーの家系だ。外科医だった父トマスの母は、有名なスコットランドの宗教改革者で、カルヴァン派プレスビテリアン(長老派)の創始者ジョン・ノックスの末裔とされる。またビズランドの母のブラウンソン姓も、ドゥームズデー・ブック記載の姓で、貴族家系である。
一見してルイジアナ出身のアメリカ人とギリシャ生まれのイギリス系との間には大きな隔たりがあるが、実はもともとヨーロッパ大陸のフランス語圏がルーツという同族でもある。
■日本に抱いた期待と失望
ハーンはルイジアナ滞在時代にビズランドと知り合い、お互いに敬愛しあい、日本行きの機縁ともなった。ルイジアナ時代のハーンは黒人文化に共感があり、文化人類学者さながらの筆致で記事を量産していた。ビズランドは、ハーンが日本について書いたものを読みたいと言って、自らも立ち寄ったことがある日本行きを勧めている。
日本でのハーンは多作であったが、遠く離れた彼女の目に触れることを念頭に日本から毎年のように作品を書き続けたようだ。他方、彼女はハーン亡き後にはその伝記をも執筆し、また日本を訪問して遺族を支援した。
1890年に39歳で日本にやってきたハーンのその後の生活は、「ばけばけ」でも克明に描かれた。松江、熊本、神戸、東京(東京帝大、最後は早稲田大学でも)で英語・英文学教師等を務めつつ著作に励み、日本の伝統文化に重きを置いた民俗的な作品を毎年のように発表した。他方で近代化や富国強兵に邁進する日本の姿には失望と危惧を抱いていた。
ハーンは晩年に長男を連れて渡米しようとしたが、結局離日することなく最後は東京で亡くなり日本に骨を埋めた(墓地は雑司ヶ谷霊園)。
■「日本人」になって得たもの
ハーンの内面を察すれば、上述の宗教面での内的葛藤に加えて、イギリスとオリエント、イギリスとアイルランド、さらにイギリスと大陸ヨーロッパという異なったアイデンティティに引き裂かれていた。
またイギリスにおける大陸からの移住系と先住系、そして大陸系のなかのノルマン、フランドル、ユダヤ系等々、さまざまな血縁の交わりや土地柄に引き裂かれた自己アイデンティティの拠り所を模索し続けた生涯だったのだろう。
アイルランドの有名な文人、例えばハーンが晩年に手紙を書き、アイルランドへの郷愁を吐露したアングロ・アイリッシュ家系のウィリアム・イェイツや、カトリックのアイルランド人ジェイムス・ジョイスは、同様に大陸由来の家系であり、彼らのアイデンティティをめぐる葛藤状態はハーンのそれとよく似ている。「小泉八雲」に生まれ変わった日本では遂にその重荷や苦悶から解放され安住の境地を見いだしたのではないか。
■ラフカディオ・ハーンとはなんだったのか
端的に言うと、ハーンの動向を正しく認識するためにはイギリスの大陸系住民に対する理解が最重要ではないか。彼らは同じプロテスタント陣営とはいえ、やや国粋的・土着的な国教会(アングリカン)を潔しとせず、大陸系を中心にピューリタン(清教徒)として北米に移住した。
またオランダからニューアムステルダム(現ニューヨーク)への北米移民もその多くが、宗教革命で故郷を失い移住先を求めていたフランドル系である。結局、米国建国に関わった初期のイギリス・オランダの北米移民の多くは、出てきた国や言葉は違ってもルーツはほぼ同じで(フランス・フランドルの大陸系)、少なからぬ改宗ユダヤ系を含む新教徒集団なのである。
中世末期から近世初期の時代以降、世界を揺るがす国際的な人の大移動の渦の真ん中にフランドルは位置していた。そのことは徳川の鎖国時代にもかかわらず出島に常駐する多くのフランドル系オランダ人と長い付き合いがあり、蘭学を教わってきた日本にとっても他人事ではない。
ハーンは、長い鎖国を終えて今まさに西欧に開かれようとする日本に、宿命的に東西の架け橋となるべく大いなる意図を持って駆けつけて来た「ディアスポラ」(離散者)なのである。

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小川 秀樹(おがわ・ひでき)

成蹊大学法学部客員教授

1956年生まれ。早稲田大学政経学部卒業、ベルギー政府給費留学(ルーヴェン大学)。博士(横浜国立大学・国際経済法学)。タイ・イスラエル等の在外勤務等を経て、岡山大学・千葉大学教授等を歴任。フランドル(ベルギー)を中心に「人の移動」や「グローバルヒストリー」を研究。家系分析により三浦按針やゴッホ、エラスムス木像の出自・由来につき新説を提唱している。最近の著書に『三浦按針の謎に迫る』(共編著、玉川大学出版部)、『キャプテン・アダムス()』(Irving著、共訳、Kindle DP)、「ファン・ゴッホの家系分析から見えてくるもの」(成蹊大学一般研究報告第54巻)等。

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(成蹊大学法学部客員教授 小川 秀樹)
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