ヤクザから映画スターに転身した男がいる。安藤組を立ち上げた安藤昇だ。
1965年に組を解散した後は、元ヤクザ俳優として人気を博し、多くの逸話を残した。大下英治さんの『安藤組 修羅たちの戦い』(宝島SUGOI文庫)より、その一部を紹介する――。
■人気すぎて完結できず、ギネス世界記録に
戦後の松竹を代表する映画に『男はつらいよ』シリーズがある。
映画シリーズは松竹によって昭和44年から平成7年までに全48作が、平成9年に特別編1本が、令和元年には50作目が製作・公開されている。
山田洋次が全50作の原作・脚本を担当。第3、4作を除く48作を自ら監督した。第3作の監督は森●東、第4作は小林俊一である。第5作を山田洋次が再び監督し、シリーズを完結させる予定であったが、あまりのヒットに続編の製作が決定した。以降、全作品がヒットして松竹のドル箱シリーズとなり、30作を超えた時点で世界最長の映画シリーズとしてギネスブック国際版にも認定された。
※「さき」は正しくはたつさき。
『男はつらいよ』以前の山田洋次監督は、大島渚監督を筆頭とする松竹ヌーヴェルヴァーグの派手な騒がれ方の陰で、昭和39年公開の『馬鹿が戦車でやって来る』、昭和41年公開の『なつかしい風来坊』と着実に優れた作品を製作して、松竹内では注目されていた。
■山田洋次に「ヤクザ映画」を発注
実は、安藤と山田は、映画『望郷と掟』で俳優と助監督という関係から懇意にしていた。
あるとき、太平洋テレビ社長の清水昭と安藤で、ヤクザ映画の喜劇版を考え、脚本の書き手を探していた。安藤は、「喜劇のヤクザ映画」というスタイルをひらめき、大体のプロットをテープに吹き込んでみた。それを元に山田洋次に脚本を書いてもらおうと思った。
安藤は、山田洋次の脚本を読んだことはなかったが、直感で山田洋次を抜擢してみたのである。話の決着次第では、『男はつらいよ』シリーズは、“東映製作”になっていた可能性もあったわけである。
安藤は、かつて松竹時代に、何度かヤクザ映画の企画を斎藤芳朗プロデューサーに出したことがあった。その構想段階で、監督として山田洋次を推薦したこともあった。もちろん、実現はしていない。
さて、安藤と清水は、山田洋次を松竹から引っ張ってきて、直接本人に発注することにした。もちろん東映・松竹の上層部も了承済みのオファーであった。
安藤と清水は、山田洋次を呼び寄せ、鼎談が始まった。
■「書けません」という回答だったが…
安藤は、山田に切り出した。

「ヤクザ喜劇を書いて、映画にしてくれないか?」
安藤オリジナルのプロットは、「ヤクザが市民社会のなかに入って行って、騒動と笑いを引き起こす」というものであった。
ただし、安藤の案では、ヤクザが笑える騒動を引き起こす、というもので、『男はつらいよ』風に、再び地元に舞い戻って、またひと騒動を起こすというところまでのものではなかった。山田は、安藤と清水の提案を持ち帰った。
しばらくして、山田洋次から断りを入れてきた。
「書けません」
ところが、昭和43年10月から、フジテレビでテレビドラマ『男はつらいよ』が山田洋次の原案・脚本として始まったのである。主役のテキ屋・車寅次郎役は、もちろん渥美清である。テレビドラマ『男はつらいよ』は、全26回にわたって放送された。
■“盗用疑惑”より映画の成長を選んだ
安藤によると、山田洋次によるアイデア盗用であった。山田が、あらかじめ安藤に仁義を切っていたかというと、まったくそれはなかった。
安藤は、腹が立った。が、そのテレビドラマが放映されたあと映画化された『男はつらいよ』もまた、爆発的に当たったことを見て、黙認することにした。
〈気の小さい松竹のことだから、こんなことでケチが付いたら映画がシリーズ化されないかもしれない。
それより映画として成長していったほうがいいだろう〉
安藤は、“映画の成長”という大局観から『男はつらいよ』を温かく見守ったのである。が、安藤は、山田個人に対しては腸(はらわた)が煮えくり返っていた。
〈だけど山田洋次に会ったら、締め上げなければいけないところだな……〉
こうした安藤昇のオリジナルアイデアが具現化するのは、何も『男はつらいよ』ばかりではなかった。
昭和30年代後半から任侠映画が爆発的なブームになった東映では、女優の藤純子(現・富司純子)が「任侠映画の華」として、またスター女優としての道を歩み続ける。その人気を決定的にしたのは、シリーズ化されて一時期、東映の屋台骨を背負うまでになった山下耕作監督の昭和43年公開の『緋牡丹博徒』であった。
父の仇を求めてさすらう女ヤクザ・矢野竜子、人呼んで“緋牡丹お竜”の啖呵や殺陣は人気を呼び、高倉健と鶴田浩二と並ぶ任侠スターとなった。
だが、この『緋牡丹博徒』にも安藤昇が絡んでいた。
■「伝説のヤクザ」が認めたプロデューサー
最初に女博徒の具体像を投げかけたのは、なんと安藤であった。俊藤の著作『任侠映画伝』によれば、映画『緋牡丹博徒』では、実際にはあまりないという「手本引き」を藤純子にやらせたという。そのような細かい描写もヒットした原因だとしている。安藤は、山口猛著『映画俳優 安藤昇』でプロデューサーの俊藤浩滋について述べている。
《俊藤さんは、そういうところのセンスが抜群にいい。
おれが何かを言っても、それがたとえ脚本上の問題だとしても、俊藤さんはよくわかる。やはり、その道の人でもあるから、話の付け方もうまいし、落としどころも知っている。そういう俊藤さんがいたからこそ、東映で任侠路線の映画ができたんだろうな》
東映京都の作品はほとんど俊藤プロデュースであった。関西は、俊藤の地元だったからでもあろう。一方、東映東京での作品にもプロデューサーとして俊藤の名前は載るが、そのときは、東映京都と違って名前だけということが多かったという。
■日本のために命を賭けた男たちの「絆」
安藤が東映に移籍して2年後の昭和44年、安藤昇は東映を支えていた最大のスター、鶴田浩二と深作欣二監督『日本暴力団 組長』で共演する。
撮影では、大御所の鶴田がセットに入ってくると、みんながいっせいに「おはようございます」と言う。安藤は、鶴田への下にも置かない扱いを見て思った。
〈スターというものは、こんなものか……〉
が、安藤にとっては、鶴田が現場に現われてもどうということはなく、知らん顔をしていた。一方、鶴田も、ほかの者ならいざ知らず、安藤には何も言わなかった。というのも、安藤は、東興業時代から鶴田を知っていたからである。
とはいえ東興業が、鶴田浩二ショーの興行をうち、鶴田の面倒を見ていたわけではない。
が、安藤は一度、「浩ちゃんへ 安藤昇」と書いて紫の座布団を鶴田に贈ったことがある。鶴田は律儀にもそれ以後、それをずっと使っていた。東映には鶴田専用の楽屋がある。安藤は、その鏡の前にボロボロになったその座布団を見ている。
鶴田浩二は、特攻隊だったといわれた俳優であり、安藤もそれをよく知っていた。安藤も鶴田も同時代人として、日本のために命を賭けた経歴を持つ俳優であった。

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大下 英治(おおした・えいじ)

作家

1944年、広島県に生まれる。広島大学文学部を卒業。『週刊文春』記者をへて、作家として政財官界から芸能、犯罪まで幅広いジャンルで旺盛な創作活動をつづけている。著書に『安倍官邸「権力」の正体』(角川新書)、『孫正義に学ぶ知恵 チーム全体で勝利する「リーダー」という生き方』(東洋出版)、『落ちこぼれでも成功できる ニトリの経営戦記』(徳間書店)、『田中角栄 最後の激闘 下剋上の掟』『日本を揺るがした三巨頭 黒幕・政商・宰相』『政権奪取秘史 二階幹事長・菅総理と田中角栄』『スルガ銀行 かぼちゃの馬車事件 四四〇億円の借金帳消しを勝ち取った男たち』『安藤昇 俠気と弾丸の全生涯』『西武王国の興亡 堤義明 最後の告白』『最後の無頼派作家 梶山季之』『ハマの帝王 横浜をつくった男 藤木幸夫』『任俠映画伝説 高倉健と鶴田浩二』上・下巻(以上、さくら舎)、『逆襲弁護士 河合弘之』『最後の怪物 渡邉恒雄』『高倉健の背中 監督・降旗康男に遺した男の立ち姿』『映画女優 吉永小百合』『ショーケン 天才と狂気』『百円の男 ダイソー矢野博丈』(以上、祥伝社文庫)などがある。

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(作家 大下 英治)
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