※一部、書籍の引用部分に差別的な表現があります。発行当時のまま掲載しました。
■男との関係に疲れ、出した手紙
「近代詩人」が解散したため、1948(昭和23)年に玲子は東京の「日本中央文学会」に入った。あるとき、気まぐれに同人で新潟県柏崎市に住む山本謙に手紙を出した。謙は22歳の高校教師でやはり美青年だった。玲子はほんの遊びのつもりだったが、謙は休みのたびにやってきた。柏崎の浜辺で寄り添ううち、玲子も本気になった。やがて結婚話が持ち上がったが、謙の家族の猛反対に遭った。玲子は遺伝のこともあって子どもを作らないつもりだったが、謙は障害があってもいいから子どもが欲しいと言った。玲子は本当の差別を知らない謙に憤った。二人は別れるしかなかった。
玲子は何度目かの厭世観に見舞われ、死のうと思った。
「拝啓、お元気ですか。つね日頃、いっておりましたように、あなたとは寝ないが、あなたのですますくが美しいから、一緒に死のう。生きている時は別だが、死ぬ時は一緒だという約束を果たしたく存じます。いやならいやといって下さい。いえば、ストトンでよそ捜す。ま、なるべく、色よい返事頼んまっせ。お礼に、寝てやってもいいです。敬具」。
そろそろ返事が来る頃だと思いながら売店に出ていたら、肩を叩かれた。渋谷だった。
■「死ぬ時は一緒」という約束が…
「返事は」「来たのが返事だ」「うわあ。ありがとう。何で死ぬる」「なるべく痛くないのがいい」「じゃあアドルムか。給料前だ、銭がねえ」話しているうちに玲子は死への気持ちがわずかに揺らいだ。まだ22歳、もっと男を抱きたいとも思った、それを見た渋谷は「死にたくなくなったんだな」と言い、立ち去った。1時間ほどして戻ってきたと思ったら突然倒れた。一人で決行したらしかった。駅員たちは慌てて病院に運び込んだが、玲子はそれをみても何とも思わなかった。
見舞いに行くと、渋谷はこんこんと眠っていた。枕元に置かれたスケッチブックを開いたら、一面に「堤玲子」と書いてあった。病院の玄関で渋谷そっくりの父親に会った。
■回復した彼は「結婚しよう」
翌日、玲子はいつも通り売店を開け、昼飯を食べ、夕方売店を閉めて病院に行った。渋谷は起きていて恥ずかしそうに目の下まで布団を引っ張った。「どう、苦しかった?」と聞く玲子に首を横に振った渋谷は突然「結婚しよう」と言った。「俺、子供嫌いなんだ」とも言った。「でも、前の男は、子供がどうしてもほしいといって私と別れた」「フロクより本誌が大事。子供か君かといったら、俺は子供を捨てて君をとる」。玲子は泣いた。
二人の新居は家主に内緒の間借りだった。飲んだくれてあまり家に帰らない玲子の独身の叔父の家に黙って住んだのだ。たまに叔父は帰ってきたが、3年間ついに隣りの部屋の新婚夫婦に気が付かなかった。
■3回妊娠するも、出産に踏み切れず
玲子は妊娠した。
1957(昭和32)年、玲子は「タム・タム芸術集団」の同人となる。これは大阪府豊中市に住む北田玲一郎らが1955(昭和30)年に結成した前衛芸術グループで、映像、文学、美術など活動は多岐にわたっていた。玲子はここに詩を寄稿し続けた。
1965(昭和40)年、『Tam-tam:文学・映画・美術』改め『総合芸術』の「現代作家裁判」企画で、編集長に悪口がうまいからという理由で石原慎太郎論を依頼された。「太陽詩人からクラブ支配人へ ―被告/石原慎太郎氏へ―」と題し、「椎名麟三のオッサンのように、一度美男美女ぬき、銭なしの小説かいてほしいわ」などの玲子節炸裂の評論は、翌年新年の朝日新聞「標的」欄で「笑って、笑って、笑い抜いた。新年、初笑い」と書かれた。これを読んだ編集者が、玲子が『総合芸術』に連載していた自伝的小説「わが闘争」を書籍として出すよう促し、1967(昭和42)年12月に出版、たちまち16万部のベストセラーになった。
■自伝的小説がベストセラーに
『わが闘争』の冒頭部分はマスコミに何度も引用された。
私は神である。
スラムと悪遺伝の中、七人の兄弟姉妹、年頃になって、見合いの話一つなく、馬鹿にされつづけた堤家にとって、栄光を浴びた私は、まぎれもなく神である。復讐の刃の柄をも通れと宿命の首級をあげた私を肩に、
淫売や、博打うちや、そしてまた、公金拐帯の情婦や、放火、尊属殺人、びっこの少女が、
今や、海を渡って太陽の街にでてゆくのである。
■「スラムの女王」「セックス詩人」
差別を作品に昇華することで、玲子は世間に復讐の狼煙(のろし)をあげた。マスコミには「美しき人非人」「スラムの女王」「セックス詩人」と書かれた。玲子はインタビューに「文学いうもんはフリチンでね、血刀下げて斬り込んでいくもんじゃないですか」と答え、情事をもってこそいいものが書けるから亭主はヘトヘトだと惚気(のろけ)た。
『婦人公論』『宝石』をはじめ週刊誌などにも引っ張りだこになり、女性週刊誌の人生相談の回答者にもなった。アシンメトリーのボブヘアにチャイナ服、大きな帽子をかぶるスタイルがトレードマークになった。
テレビ出演、『わが闘争』映画化の打ち合わせなど東京の仕事が増えたため、夫を岡山に残して東京渋谷の代官山にアパートを借りた。
■妹の激しい人生も本にした
翌年6月に出版した『わが妹・娼婦鳥子』も壮絶な内容だった。
鳥子こと三女の敏子は15のときに卵丼につられて女郎屋に行き、主人に乱暴されて女郎となった。年齢が足りずに家に帰されてからは印刷工場や食堂、ホテル、レストランなどに住み込んで、同僚を相手に売春をした。
あるとき、鳥子を嫁にもらいたいという奇特な男性が現れた。鳥子は見栄を張ってほとんど空の段ボール箱を嫁入り道具として大量に運び込んだ。が、新婚旅行の晩に夫が性的不能者とわかり、「畜生! バカにしやがって!」と家に帰り、翌日の夜には岡山駅前で立っていた。次の結婚相手は居酒屋で出会った土方風の男性。前科三犯の妻子持ちで、妻子を追い出して鳥子を住まわせた。夫婦は清美という娘を授かったが先天性骨髄炎だった。
2年後、鳥子の浮気で結婚は破綻。鳥子は下の妹の美津とボロ家を借りて住み始めた。美津も鳥子と似た境遇で、結婚相手は2人連続で公金横領者、おまけに皮膚癌を患っていた。どう読んでも悲惨な状況だが、玲子の筆致はどこかユーモラスで軽やかさすら感じさせた。
■佐久間良子主演で映画にもなる
本が出てすぐ、一冊目の『わが闘争』が中村登監督、佐久間良子主演で映画化された。地元もロケに使われ、連日野次馬が並んだ。玲子は主演の佐久間良子にチェーンの使い方を指導するなど熱心に関わったが、主人公「怜子」(一字違い)が障害のない子どもを出産する結末には綺麗事(きれいごと)すぎると憤り、「わが原作映画を論難する」(『映画芸術』)を書いた。
■注目され、美青年たちと情事を重ねる
この頃の玲子は少し増長していた。大政小政(おおまさこまさ)と称する女性の子分を従え、美青年と見るやすぐに一夜を共にした。まさに世間に復讐するかのごとくやりたいようにやった。
しかし、いいことばかりではなかった。
父は家族の恥を世間に晒(さら)したと激怒し、人権擁護局に娘を訴えた。妹の敏子も娼婦と書かれて「たたっ殺してやる」と出刃包丁を持ち出したため、玲子は「本当のことを書いて何が悪い」と応酬した。18年勤めた売店からは、ここで働かなくても食べていけるではないかと「イビリ出」され(と玲子は言うが、ファンが売店に殺到したという話もある)、玲子が入れないときに店番をしていた母も辞めざるを得なくなった。
■浮気を公認していた夫が失踪
1968(昭和43)年11月1日、夫の渋谷正が失踪した。夫の勤務先からの知らせを東京で受けた玲子は絶句した。男と関係しなければものを書けないと公言し、なかば夫公認で美少年を「つまみ食い」することも多々あった玲子。「総合芸術」の月に一度の会合に毎回違う男性を連れてきて同人たちを呆れさせたこともあった。「自分は情事の限りを尽くしてもね、相手には浮気を認めないですね。“早漏的思想”いうんですね。自分だけよければいいね、大変エゴイズムですね」などと調子に乗って記者に語っていた。
そんな勝手な玲子を理解し、文学的成長のためと見守ってきた夫に一体何があったのか。真相は、職場で知り合った女性との駆け落ちだった。相手にも家族はあったが、子どもを置いて二人で北海道へ出奔したらしい。会社もクビになっていた。なんとか仕事を片付けて11日後に岡山に駆けつけた玲子は、数社の週刊誌に声をかけてこのニュースを売り込み、「亭主よ、出てきてくれ、戻ってもええ、戻らんでもええ……」と訴えた。15年も連れ添った夫の裏切りはあまりにも大きな打撃だった。しばらく新宿で泥酔したりしていたが、地元に帰って2年ほど沈黙していた。
1970(昭和45)年ごろに岡山で喫茶店「ノスタルジー」を開店。店番をしながら3作目を執筆しつつ、毎日来る客のドラマを観察していたが、常連ばかりになってつまらなくなり閉めた。このとき書いていた小説は、終戦直後が舞台の「火の玉みたいに燃えて死んでいったヤクザの話」で、モデルは3人くらいいるとのこと。渋谷とは「ボーイフレンド程度」に連絡をとり、その他3、4人は寝ないボーイフレンドがいたが、筆が進まず四苦八苦していた。
■惚れ込んだ俳優のために劇団を設立
翌年、夫がふらりと帰ってきた。駆け落ちで1年半留守にした放蕩息子の帰還だった。おかげで元気の出た玲子は突如、劇団「貴族館」を旗揚げした。
きっかけは、例によって岡山のバスで美青年をナンパしたことだった。相手は劇団「群狼」の水田優也という俳優。後日、新大阪ホテルで再会し、襲いかかろうとする玲子に「おめえさんには一億回会いたいから、寝ない」と断った。その一言にすっかり虜になった玲子は水田のために資金を出し、玲子好みの20歳前後の美男美女をそろえて劇団を作ったのだった。
あいさつ状には「孤高にありて孤高におらず、所詮放蕩無頼、スラム育ちの玲子、劇団『貴族館』を設立いたしました。ねらうは、どん底のユーモア、悲惨の中の哄笑(こうしょう)であります(中略)どうぞ可愛がって下さるよう、魂の緋縮緬めくって、お願い申し上げます」と書いた。第1回公演は12月18、19日に大阪の郵便貯金ホールにて、玲子脚本の「わが故郷秋瀬駅」だった。
■ポルノ小説のような怪作を発表
1973(昭和48)年1月に、雑誌などに寄稿した評論や短編を集めた『わが闘争宣言』が、10月には『美少年狩り』が出版された。後者の表題作「美少年狩り」は、売店の客だろうが劇団員だろうが、美青年と見れば関係し、ポルノ小説張りの濡れ場の描写が続く怪作で、フィクションとはいえ思わず夫に同情してしまうような出来栄(できば)えだった。また、この頃から1982(昭和57)年まで断続的に『現代の眼』に作家評論を寄稿し始めた。
1984(昭和59)年頃、夫と二人で立ち上げた冷蔵庫・冷凍庫の修理販売会社が倒産した。母が倒れて入院すると、玲子は消費者金融から借りた金を見舞金として持参し、病室に駆けつけた。母はその後も入退院を繰り返し、そのたびに金銭を求めた。
■母の危篤で、7人兄弟が集まった
母が最後に担ぎ込まれたとき、久しぶりに家族が集まった。長男の肇は父の百姓の手伝い、長女の恵美は一流企業の重役夫人となっており、三女の敏子は勝手に実家を800万円で売り払い行方不明になっていたがやってきた。四女の美津子は皮膚癌を患いながら魚屋をやり、次男の征二郎は会社員、三男の博之も夫婦で暮らす長崎からそれぞれ駆けつけた。
玲子は母に恨みがあった。いつも美人の姉ばかりが大事にされ、ことあるごとに自分の醜さを思い知らされた。聞けば、敏子もそうだという。母の行商の仕入れ先へ買い出しに同行したときのこと。店では自分を母ではなくおばさんと呼ぶように言い含められた。敏子は母が自分の口蓋裂を恥じているのを察して、いったんは承諾したものの、店でわざと「お母さん」と大声で呼んだ。とっさに返事をしてしまった母は、みるみる顔を赤らめ、敏子は仇を取った。
■平成に入ってからのわずかな消息
1985(昭和60)年4月9日、母死去。父はかつての姿が想像できないほどに泣いて立てず、棺の釘もなかなか打てなかった。家族それぞれの思いはあるが、今はもうただ母が懐かしかった。玲子は1988(昭和63)年4月30日にその顛末を『わが怨慕唄』として出版。同じ年の10月には最後の本『わが犯罪家族』を出した。
2000年以降の玲子の消息はあまり多くない。
もっとも具体的なものは、南川泰三『グッバイ艶』の記述であろう。南川は、玲子が「大政小政」と称して連れていた女性のうち、大政と呼ばれた艶と玲子を介して知り合い、25年連れ添って、最期を看取った人物である。
艶の死から一年後の2004(平成16)年春、南川は玲子を訪ねて岡山に向かった。玲子の家は岡山駅からバスで一山越え、漁師町を抜けて海沿いの道に出たところにある質素な平屋だった。出迎えた玲子は、以前と変わらぬボブヘアに大きな帽子、色褪せたチャイナ服姿。やや足を引きずってはいたが、無邪気な笑顔が74歳とは思えなかった。現在は夫の年金で暮らしている由。文机には同人誌に寄稿する予定の原稿が乗っていた。ときおりファンが訪ねてくるものの、文学を語り合う相手がいないことを嘆いていた。
■「落ちぶれてなんかいない」
その時の原稿だろうか、最後に確認できる玲子の作品は、萩原朔太郎について書いた詩「もんしろてふ、はた、はた、はた」で、2005(平成17)年7月25日に発行された『江古田文学』第59号に掲載されている。前述の南川は『グッバイ艶』のモデルにしたことへのお礼を言いにこの年の夏、再び玲子に会いに行った。通院中という病院で待ち合わせ、近くのジャスコの喫煙所で2時間ほど喋(しゃべ)ったという。玲子は、まるで落ちぶれたかのように書かれたことが気に入らないと文句を言い、プライドの高さは健在だった。
玲子が存命であれば95歳、いまなお健在であっても不思議はない年齢である。
もっとも、堤玲子という人は、どこにいようともその奔放なバイタリティで、美青年たちを追いかけ続けているようにも思われるのである。
・参考文献
堤玲子『わが闘争』三一書房、1967年。堤玲子『わが妹・娼婦鳥子』三一書房、1968年。堤玲子『美少年狩り』潮出版社、1974年。堤玲子『わが闘争宣言』三一書房、1974年。堤玲子『わが怨慕唄』三一書房、1988年。堤玲子『わが犯罪家族』三一書房、1988年。南川泰三『グッバイ艶』幻冬舎、2011年。『吉行淳之介対談浮世草子』三笠書房、1971年。竹村博「撮影報告わが闘争」『映画撮影』(28)日本映画撮影監督協会、1968年7月。冬園節「われらの仲間 近代詩人」『詩学』13(4)(128)詩学社、1958年3月。「“美しき非人”堤玲子の性の歌」『週刊大衆』双葉社、1968年2月29日。「肉親の性をあばきすぎた堤玲子の闘争」『週刊サンケイ』扶桑社、1968年7月8日。「堤玲子の妹『娼婦・美津の遺書的半生記』」『女性自身』光文社、1968年8月12日。堤玲子「私の原作映画《わが闘争》を論難す」『映画藝術』16(10)(9月号)編集プロダクション映芸、1968年9月1日。「くやし涙のニュース あの堤玲子さんが、夫に駆け落ちされた! なぜ?…夫が手をとって逃げた相手は人妻・26才」『女性自身』光文社、1968年11月18日。「亭主よ、出てきてくれ、戻ってもええ、戻らんでもええ…」『女性自身』光文社、1968年11月25日。「夫に逃げられたセックス詩人の狼狽」『週刊サンケイ』1968年12月2日。「『わが闘争』堤玲子の小説のあとの“わが家の闘争”」『週刊ポスト』2(32)(51)、小学館、1970年8月14日。「あのセックス詩人・堤玲子さんは“駆け落ち夫”と別れて…『結婚しようという人はもういない』と現在第3作目を執筆中」『女性自身』光文社、1970年10月17日。「タブーを破った有名女性の憂き目」『週刊サンケイ』17(29)(898)扶桑社、1968年。「故郷にニシキを飾った日」『女性セブン』小学館、1969年1月15日。「“放蕩無頼”堤玲子のアングラ劇団」『週刊文春』13(34)(638)文芸春秋社、1971年8月30日。「五木寛之の真夜中対談〈19〉 精神の貴族たちをコマしたい」『週間読売』30(33)(1168)、読売新聞、1971年7月23日。堤玲子「テーマ随筆 私と結婚」『創』創出版、1975年3月。堤玲子「もんしろてふ、はた、はた、はた」『江古田文学』(59号)星雲社、2005年7月25日。「孤高の作家、堤玲子さんを復活させたい。」「南川泰三の隠れ家日記 ブログエッセイ・『猿の手相』」2005年10月8日
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平山 亜佐子(ひらやま・あさこ)
文筆家
文筆家、挿話収集家。戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意とする。著書に『20世紀破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(編著、左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)など。
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(文筆家 平山 亜佐子)

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