■バイカル湖に呑まれた7つの命
ロシアのシベリア南東部に位置し、世界で最も深い淡水湖であるバイカル湖は、冬になると厚い氷に覆われる。その透き通ったブルーに惹かれ、世界中から旅行者が押し寄せる。
そのバイカル湖で、今年2月20日に悲劇が起こった。中国人観光客8人を乗せたロシア製のミニバン「UAZ(ワズ)」が、きちんと整備されていない氷上の道路を走行中、足下の裂け目に呑み込まれたのだ。
車両はわずか数分で水面下に沈み、14歳の少年を含む7人が命を落とした。中国国営英字新聞のチャイナ・デイリーによると、この少年は中国から来た4人家族のひとりだったという。一家全員が犠牲になった。生き残ったのは、沈みゆく車両から自力で氷の下を脱出した別の乗客1人だけだった。
予備調査で浮かび上がったのは、安全管理上の問題だ。旅行者は正規の旅行代理店を通さず、地元住民によるツアーを直接手配していた。走行ルートを代理店にも救助機関にも伝えた形跡はなく、そもそも走っていたのは公式に開設された氷道ですらなかった。
公式の氷道であれば定期的に厚さが検査され、専用の標識も設けられる。だが事故現場の氷は、車両を支えるだけの厚さがなかった。折しも異常な気温上昇により、湖面は至る所でひび割れていた。目撃者によれば、ドライバーはその亀裂を前にしても停車も迂回もせず、かえって加速して突っ切ろうとしたという。
■「友好国」ロシアに200万人が殺到
中国人観光客がバイカル湖の氷上に殺到したのは、高市早苗首相の「存立危機事態」発言に中国当局が反応し、日本への旅行自粛を求めたためだ。
日本を敬遠した中国人旅行者が向かった先は、ロシアだった。ロシア独立系英字紙のモスクワ・タイムズによると、2025年12月、訪日中国人が急減するのと時期を同じくして、ロシアへ流れる旅行者が増えたという。
デジタルマーケティング企業チャイナ・トレーディング・デスクのスブラマニア・バットCEOによれば、同月の中国人によるロシアのホテル予約は前年同月比で約50%増。ロシアを訪れた中国人は2024年に約120万人、2025年は推定約130万人にのぼる。ビザ免除措置でさらに30~50%の増加が見込まれ、2026年には約200万人に膨らむとの予測もある。
急増のきっかけは、2023年8月に再開された中露間のビザなし団体旅行プログラムだ。独立系ロシア語ニュースサイトのメデューザによると、2024年にツアー経由でロシアを訪れた中国人は約84万8000人。
■ツアー代金の同額以上がぼったくられる
バイカル湖の悲劇では、正規ツアーに参加しなかった一部の中国客が犠牲者となった。ただし、ツアーに申し込んだとしても、中国客が安全にロシアを旅行できるとは限らない。
サンクトペテルブルクの一角に、中国人団体客しか入れない琥珀専門店が軒を連ねている。ロシア人が足を踏み入れれば、警備員にすぐ追い返されるような店だ。
では、だれを商売相手にしているのか。中国国営英字オンライン誌のシックス・トーンによると、客を送り込んでくるのは格安パッケージツアーだ。航空券・宿泊・観光込みで、8日間わずか500ドル(約7万5000円)。旅行会社はその赤字を現地で埋める。
すなわち、中国系土産物店に客を誘導し、美術館チケットを定価の10~20倍で転売し、無料の公園でさえ入場料を徴収するのだ。
■定価の10倍で買わされるコスメ
先の琥珀店などで観光客を待ち構えてツアー客を「洗脳」するのが、「グレーガイド」と呼ばれる無認可のガイドだ。香港英字紙のサウスチャイナ・モーニングポストは2021年、ガイドが琥珀の「奇跡的な薬効」を謳い、延々と購入を迫る事例を明かした。
売りつけるのは琥珀だけではない。ロシアの廉価コスメ、バーブシュカ・アガフィアの定価わずか50ルーブル(約75円)のマスクが、ガイドの手にかかれば500ルーブル(約750円)に跳ね上がる。
米国際問題シンクタンクのカーネギー国際平和基金は2018年の報告書で、宝飾品・土産物店の粗利率は平均200~300%、偽琥珀に至っては1000%を超えると分析した。土産物店の日商は最大400万~500万ルーブル(約600万~750万円)にのぼり、売上の30%が旅行代理店に、さらに30%がガイドに流れる。
ロシアのある旅行業関係者は、サウスチャイナ・モーニングポストの取材で、「本質的にねずみ講だ」と断言する。在ロシアの中国系旅行会社がダンピングで既存業者を締め出し、ガイドに1シーズンあたり1万5000~2万ドル(約225万~300万円)の登録料を課しているという。ロシアを舞台に、同じ中国人同士で、搾取の加害者と被害者になっている。
■入国した瞬間にスマホは沈黙
そもそも、ウクライナと交戦中のロシアに観光に向かおうという試みが無謀なのだろう。
ロシアに入った中国人観光客がまず戸惑うのは、戦争の余波でまったく使い物にならなくなるスマートフォンだ。ウクライナによるドローンの遠隔操縦を難しくするため、ロシア政府は入境直後のSIMカードを一時無効化している。原則として24時間経たなければ、データ通信が機能しない。
外国人が正規のSIMカードを入手する手段は残されているものの、モスクワ・タイムズによると、1枚手に入れるだけでも、政府ポータルへの登録、個人保険番号の取得、銀行での生体認証、そして店頭での対面契約と、4段階の手続きが要る。
大半の観光客は、この壁を越えられない。同紙によれば、2025年に入って外国人の登録ユーザーはそれまでの5分の1以下、300万人未満にまで激減した。新規SIMカードに占める旅行者の割合も、2024年には20%あったものが1%未満に落ち込んでいる。手続きを始めても、3人に1人は途中で投げ出すという。
■現地が潤わない「WeChat」の闇
こうした不便さに、中国系の事業者がつけ込んでいる。
実はSIMがなくても、ホテルや店舗のWi-Fiさえつながれば使える決済手段が一つだけある。中国テンセントが展開するチャットアプリWeChat(微信)の、「WeChat Pay」決済機能だ。
土産物店での代金はWeChat Payの個人間送金として処理される。
ここにハワラと呼ばれる地下送金の存在が組み合わさる。ハワラとは、銀行を通さず、仲介者同士の信用だけで国境を越えて資金を動かす非公式の仕組みだ。利益はほぼ全額、人民元のまま中国側へ流れていく。
シックス・トーンによれば、2014年から2019年に中国人観光客がロシア国内で費やした額は推計約140億ドル(約2兆1000億円)。だがロシア政府の懐には、ほぼ何も入らなかったという。
それでもロシアとしては、黙認するほかない。格安ツアーが成り立つのは、課税を免れた非公式の資金循環があればこそだ。締めつければ、観光客を呼び寄せてきたスキームが崩れかねないためだ。
■中国系業者が牛耳るツアー業界
中国人観光客の多くは旅行予約サービスのCtrip(Trip.com)や通信アプリのWeChatで予約を済ませ、中国系カフェや相部屋で安く泊まれるゲストハウスを利用する。観光客がいくら増えても、地元業者にカネは落ちない。
繁忙期にはホテル代が跳ね上がり、地元住民ですら宿泊先を確保できなくなった。ムルマンスク州のアンドレイ・チビス知事は、アジアからの観光が地域経済を後押ししていると強調するが、住民は聞く耳を持たない。
割を食ったのは飲食や宿泊の業者だけではない。サウスチャイナ・モーニングポストが2021年に報じたところでは、中国語を話すロシア人正規ガイド400人超が数年で職を追われた。宿泊・食事代込みの1週間のオールインクルーシブツアーが約1000ドル(約15万円)まで値崩れし、専業のロシア人ガイドたちは安すぎて食べていけなくなった。
白タクが横行しているとの報道も出ており、中国客を受け入れるロシア側に経済メリットは薄い。
■「まったく礼儀というものがない」
カネの流れとは別に、もう一つの大きな問題がある。マナーだ。
北極圏の港町ムルマンスクに2024年、オーロラを求める中国人観光客が約2万6000人押し寄せた。前年の5倍だ。だが、地元は歓迎ムードとはほど遠かった。
モスクワ・タイムズによれば、ある列車乗務員は中国人団体客について、「まったく礼儀というものがない」と吐き捨てた。サンクトペテルブルクでも、あるホテルオーナーが中国人宿泊客を「騒々しくて無秩序」と評し、「あまり好きではない」と打ち明けた。「イラン人やヨーロッパ人の客のほうがずっと仕事がしやすかった」と漏らしたという。
住民はついに行政に対処を求めた。メデューザによれば、2025年2月にムルマンスク州のアンドレイ・チビス知事が開いた公開会議で、「中国人は不潔で、ゴミを捨てていく」「地元の人に傲慢な態度をとる」と排外的な声が噴出した。
すべての中国人がそうではないことを考えれば、差別的な言動ではある。だが、こうした過激な発言が飛び出すほど、住民の怒りは頂点に達している。
■誰も中国語ガイドをやりたがらない
もっとも、ロシア政府もこの状況を座視しているわけではない。2025年3月、ガイドと通訳の業務をロシア国民に限定する法改正が施行された。
国家院(下院)観光委員会のアッラ・サラエワ議員は、観光客が増えれば税収は伸び、インフラ整備にもつながると期待を語る。だが、現場にその兆しはない。ビザ免除で増えた個人旅行者をどう取り込むか、業界はいまだ手探りを続けている。
さらには、肝心の法改正がそもそも機能していない。メデューザによると、罰則規定がなく、ガイド行為か友人の同行かの線引きも難しいため、無資格の中国人ガイドが依然横行している模様だ。
業界からは罰則の導入を求める声が上がるが、規制を厳しくしたところでガイド業の受け皿がない。モスクワ全体で中国語を話せる認定ガイドは、10人に満たない。語学力のある人材であれば、日当2万ルーブル(約3万円)というガイド職には見向きもせず、6万~7万ルーブル(約9万~10万5千円)を稼げる物流や翻訳の仕事に流れているためだ。
ミスマッチは今に始まったことではない。カーネギー国際平和基金は、2018年の時点ですでにこう指摘していた。ロシア政府は極東の経済特区で中国人誘致を重点目標に掲げ、「チャイナ・フレンドリー」認定制度を推進しているが、恩恵の大半は中国側の旅行会社に吸い上げられている、と。8年後の今、待望の中国客が日本の代わりに流れ込むようになったロシアで、状況は何ひとつ変わっていない。
■中国客は命を落とし、ロシアは平穏を失った
冒頭に挙げた2月20日の悲劇の、わずか3週間前。同じバイカル湖に浮かぶオリホン島付近の未開通の氷道で、別の事故が起きていた。中国人観光客を乗せた車両が転覆している。
チャイナ・デイリーによると、1月28日のその事故でも中国人が死傷した。1カ月足らずのあいだに、同じ場所で2件。島の北側ルートには1日数十台が押し寄せ、事故が相次いでも車列が途切れることはなかった。
その車列が、3月になってようやく消えた。事故を受けて安全柵が強化されたためではない。バイカル湖に浮かぶオリホン島自体が、外界から遮断されたのだ。
オリホン島と本土を結ぶ唯一の陸路は、冬季に湖面が凍結してできる氷の道路だ。だが異常な暖冬で氷が十分な厚さに達せず、公式の氷道が開通できないまま、車両の通行が全面的に禁止された。非公式に島に渡っていた観光客は、帰る手段を失った。
モスクワ・タイムズによると、島に足止めされた観光客は3000人を超え、うち約250人が外国人だったという。イルクーツク州のイーゴリ・コブゼフ知事は食料と医薬品の備蓄は確保されていると述べたが、「ブルーアイス」を見に来た観光客が、氷の孤島に閉じ込められた。
ビザ免除の形だけの「友好」に惹かれ、日本からロシアへと旅先を変更する中国客は少なくない。だが、危険な非公認ツアーや土産店での洗脳まがいのぼったくりが横行し、当のロシア側も団体客のマナーに頭を抱えている。
バイカル湖に沈んだ命やロシアで乱される治安を鑑みるに、双方が損を被っているのは明らかだ。習近平政権が旗を振る日本離れの政策は、どちらの側にも好ましく働いていない。
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青葉 やまと(あおば・やまと)
フリーライター・翻訳者
1982年生まれ。関西学院大学を卒業後、都内IT企業でエンジニアとして活動。6年間の業界経験ののち、2010年から文筆業に転身。技術知識を生かした技術翻訳ほか、IT・国際情勢などニュース記事の執筆を手がける。ウェブサイト『ニューズウィーク日本版』などで執筆中。
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(フリーライター・翻訳者 青葉 やまと)

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