わたしたちの人生や社会に、遺伝はどれほどかかわっているのか。行動遺伝学の世界的権威であるロバート・プロミン氏による『こころは遺伝する』(河出書房新社)を読んだ作家の橘玲さんは「最新のゲノムの解析によってわかるのは、病気のリスクだけではない」という――。

■最新の遺伝子学で起きている「革命」
人間や社会についての見方を一変させる「革命」が進行している。それがGWAS(ゲノムワイド関連解析:Genome-Wide Association Study)で、数万人、あるは数十万人のゲノム全体を調べ、そのビッグデータを解析することで、統計的に有意な変異のパターンを特定する。
こころは遺伝する』は、この革命を最前線で牽引してきた行動遺伝学の泰斗、ロバート・プロミンによるはじめての一般向けの著作だ。この本を書きはじめるまでに30年かかった理由をプロミンは、「臆病だったから」という。人間の行動を遺伝の影響で論じることは「政治的に正しくない」とされ、ひとたびキャンセルの標的にされると研究者としてのキャリアを失いかねなかったのだ。
だがいまや時代は大きく変わり、もはや遺伝の影響を無視することは誰にもできなくなった。
現代の遺伝学は、身長や体重、認知能力や気質などが数個の遺伝子の影響で決まるのではなく、膨大な数の遺伝子が関与している「ポリジェニック(多因子遺伝的)」な現象であることを発見した。これによって、「背が高くなる遺伝子」や「頭がよくなる遺伝子」を探す努力は無意味になったが、ゲノムの解析がきわめて安価に行なえるようになったことで新たな可能性が開けた。
■精神疾患のリスクがわかってしまう
一部のがんが遺伝することは知られていたが、その詳細はわからなかった。そこで、がんに罹患した患者と、そうでないひとを集めてゲノムを解析し、がんが発症しやすいゲノムのパターンを調べる研究が始まった。
これがポリジェニックスコアで、どの遺伝子の変異ががんを引き起こすかはわからないとしても、そのスコアが高いと発症リスクが高まるため、病気の予防に役立つ。親族にがん患者がいても、自分のスコアが低ければ過度に心配する必要はない。
身体的・心理的に負荷の大きな検査は、ポリジェニックスコアのリスクが高いひとにだけ実施すればよくなるだろう。
ここまでは多くのひとが「科学の進歩」を受け入れると思うが、議論を招くのは、GWASのこの効果が特定の疾患だけでなく、ひとのすべての領域に適用できることだ。
統合失調症や双極性障害、重度のうつ病は自閉症と並んで遺伝率が高いことがわかっており、同様の方法でポリジェニックスコアを出すことができる。
これらの精神疾患は、現時点では確たる治療法がなく(そもそも病気の原因すらわかっておらず)、発症リスクを調べて本人に伝えることにどのような利益があるか判然としない(知りたくないひともいるだろう)。
■子どもが大学に行くかどうかを予想できる
そればかりか、GWASの応用範囲はさらに広く、世帯年収や親の学歴・職業などの情報がいっさいなくても、子どもが大学に行くかどうかをポリジェニックスコアだけで予想できる。ポリジェニックスコアで上位10%の子どもの75%が大学に進学するのに対し、下位10%の子どもは25%しか進学しないのだ。
なぜこんなことができるのか疑問に思うかもしれないが、理屈はがんのポリジェニックスコアと同じで、大学卒業者と高卒や高校中退の被験者をたくさん集めて、GWASで解析するだけだ。さらに同様の方法で、将来、犯罪者として刑務所に入りそうかどうかもわかる。
病気だけでなく、知能指数やテストの成績、学歴、犯罪歴、将来の収入や社会的地位など、客観的なデータがあるものなら、理論上は、どれもポリジェニックスコアをつくることができるのだ。――ただしこれは魔法の類ではなく、現時点での予測力はそれほど高くない。だが今後、データが増えていくにつれて予測能力は着実に上がっていく。
さらなる議論を呼ぶのは、受精卵でも同じことが可能になったからだ。
不妊治療で複数の受精卵をつくり、そのうちの1つだけを子宮に着床させるとしたら、GWASのポリジェニックスコアで、身体的・精神的な病気のリスクが低く、認知能力のスコアが高いものを選ぼうと思わないだろうか。これは一種の優生学だが、国家が強要するのではなく親が自由意思で行なうため「優生学2.0(Eugenics2.0)」と呼ばれている。そしてアメリカでは、すでにこうした「デザイナーズベイビー」が誕生している。
■自閉症の原因は母親ではない
ここまで読んで、あなたは「とんでもないことだ」と思うかもしれない。「そんな恐ろしい科学があるのなら、それをどう扱うかみんなで議論すべきだ」
ところで、あなたはなぜこのことを知らなかったのだろうか。それは日本の社会に(アカデミズムのなかにすら)、知能や性格の遺伝について論じてはならないという「暗黙の抑圧」があるからだ。そのため、いまもGWASについて民主的に議論する場がどこにもない。これがこの問題の本質なのだ。
「リベラル」なひとたちは、「学校の成績や社会的・経済的な成功が遺伝で決まるなど不愉快だ」という理由で、遺伝の影響を否定し、子どもの将来は環境のみによって決まると論じてきた。だがこれが正しいとすると、自閉症や統合失調症、同性愛はどうなるのか?
これらはいずれも遺伝の影響が大きいことがわかっているが、「リベラル」はそれを認めないのだから、その原因は子育て、とりわけ母親の養育態度になるほかはない。こうして、子どもに対して冷たく接する“冷蔵庫マザー”が自閉症の原因だとして、母親がいわれなき非難を浴び、苦しむことになった。
■「努力すれば成功できる」のウソ
幸いなことに現在ではこうした理不尽な誤解(というか差別)はほぼなくなったが、そのかわり「政治的に正しい遺伝」と「許されない遺伝」に分けられた。
自閉症や同性愛は先天的なもので子育てや本人の意思は関係ない(これは正しい)が、知能や学力に遺伝が影響することはなく、教育や努力によっていくらでも発達させられるというのだ(これは間違い)。
子育てで子どもの将来が決まるなら、子どもの不幸の原因は“毒親”(とりわけ母親)になる。努力すれば成功できるのなら、人生がうまくいかないのは(努力しない)自己責任になるだろう。この非科学的な信念が社会を混乱させているのだが、それがいつまでたっても改まらないのは、教育学や発達心理学などの「人文系」の学問が「遺伝の影響を無視する」という似非科学を土台として成り立っているからだ。
さまざまな注釈をとりあえず脇に置いて簡潔にまとめるなら、『こころは遺伝する』でプロミンは、親(子育て)や学校(教育)のような共有環境は子どもの成長にほとんど影響を与えず、人生のそのときどきの体験(非共有環境)が影響するのはたしかだが、それはランダムなノイズのようなものでコントロールできないとする。
「わたし(自分らしさ)」は、遺伝的な特性と、それに合わせて自ら環境を構築していく(環境も遺伝する)ことでつくられていく。親にできるのは、子どもが遺伝的な才能を開花させるのを愛情をもって見守ることだけだというのだ。
■それでも続く科学と感情の対立
これはたしかに不愉快な主張かもしれないが、聖書の記述にかなっているという理由で、天動説にもとづいて精緻な物理学の体系を構築しようと思っても、必ずどこかで破綻する。それと同様に、「わたしたちの人生や社会に遺伝が大きくかかわっている」という当たり前の事実(ファクト)を無視して机上の空論(きれいごと)を積み上げても、やがて現実を説明できなくなって行き詰まる。
だが困ったことに、「リベラル」を自称する知識人やメディアは自らの前提を疑うのではなく、「現実が間違っている」としてさらに攻撃的になるのだ。
自分にとって都合のいい“夢”を見ているあいだも科学は進歩し、遺伝についての「不都合な事実」が暴かれていく。だとしたら、それを前提に「よりよい社会」「よりよい未来」を構想するしかない。
本書は、そんな「生物学的に正しいリベラル」を目指す第一歩になるだろう。
なお、GWAS革命について日本ではキャスリン・ペイジ・ハーデンの『遺伝と平等 人生の成り行きは変えられる』(青木薫訳、新潮社)が先行して翻訳された。ハーデンはプロミンと並ぶ行動遺伝学の泰斗エリック・タークハイマーの弟子で、リベラルな遺伝学の立場を「反優生学」とし、遺伝の影響を認めないアカデムズムの「ゲノムブラインド」と、遺伝の影響を人種にまで拡張して差別的な主張をする右派の「優生学」を批判する。
それに対して、遺伝について単刀直入に(あるいは無神経に)ファクトのみを語るプロミンは「遺伝現実主義」とでもいうべき立場になるだろう。
ハーデンの『遺伝と平等』はプロミンへの(ある意味での)反論として書かれているので、両方を読まないとその主張をうまく理解できないところがある。その意味でも今回、河出書房新社が本書の翻訳を決断してくれたことの意義は大きい。

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橘 玲(たちばな・あきら)

作家

1959年生まれ。早稲田大学卒業。2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。同年、「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部を超えるベストセラーに。05年の『永遠の旅行者』が第19回山本周五郎賞候補に。『言ってはいけない 残酷すぎる真実』で2017新書大賞受賞。
著書に『「読まなくてもいい本」の読書案内』(ちくま文庫)、『テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想』(文春新書)、『スピリチュアルズ 「わたし」の謎』(幻冬舎文庫)、『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』(集英社)など多数。

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(作家 橘 玲)
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