天守が現存する城は全国に12しかない。その中で国宝に選ばれているのは5つの天守だけだ。
その違いは何か。歴史評論家の香原斗志さんが解説する――。
■現存12天守でもっとも新しいのは…
城イコール天守ではないとはいえ、天守は近世城郭のシンボルであり、それこそ城としても日本の伝統的建造物としても、圧倒的な魅力を放っている。なかでも「現存12天守」は特別に貴重で、そのうちの5つは「国宝5城」として、さらに特別な位置にある。
昭和20年(1945)まで20の天守が残っていたが、東から水戸城(茨城県水戸市)、名古屋城(名古屋市中区)、大垣城(岐阜県大垣市)、和歌山城(和歌山市)、岡山城(岡山市北区)、福山城(広島県福山市)が空襲で焼失し、広島城(広島市中区)が原爆の爆風で倒壊した。また、昭和24年(1949)にも松前城(北海道松前町)が失火で燃えてしまった。
では、現存天守ではどの城の価値が高いのか。国宝5城とほかの7つとの違いはなにか。国宝5城を格付けするとどうなるのか。多くの人にとって気になりそうなことを、明らかにしようと思う。
まず、現存12天守を新しい順に並べてみたい。いちばん新しいのは、ペリーが来航する前年の嘉永5年(1852)に完成した松山城(愛媛県松山市)だ。
天明4年(1784)に天守が落雷を受け、本丸の多くの建物が焼失したのち、ようやく弘化4年(1847)に着工された。焼失した天守の古式を受け継いでいる。
三重の大天守と二重の小天守、2棟の二重櫓を渡櫓で結んだ連立式天守だが、昭和8年(1933)に放火に遭って小天守以下は焼失。奇跡的に大天守だけ残った。
■天守がないのに「現存天守」
次に新しいのは、文化7年(1810)に竣工した弘前城(青森県弘前市)だ。寛永4年(1827)に五重天守が落雷に遭い、内部にあった煙硝が爆発して炎上して以来、天守不在が続いていたが、幕府の許可を得て本丸南東の辰巳櫓が改築された。
ただし、事実上の天守とはいえ、幕府への遠慮から「三階櫓」と呼ばれ、高さは14.4メートルと現存する三重天守ではもっとも低い。改築前の辰巳櫓の建築年代はもっとさかのぼるが、御三階櫓として竣工した文化7年の建築としていいだろう。
その次が寛延2年(1749)に完成した高知城(高知市)の四重天守。享保12年(1727)の大火で天守以下、ほとんどの建物が焼け落ち、延享3年(1746)から本丸の再建に着手された。山内一豊が建てた焼失前の天守の外観が再現されたので、江戸時代も半ばをすぎてからの建築なのに古風である。また、このとき再建された本丸が、御殿を含めてほぼ完存しているのは貴重だ。

続いて標高432メートルの山上に建つ備中松山城(岡山県高梁市)の二重天守。天和元年(1681)から城を大改修した際に建てられたと考えられる。現存最小の天守で、不便な山上に建っていたため、明治維新後に取り壊されずに済んだが、放置されて昭和初期には倒壊寸前だった。
■日本最古の天守だったのに
5番目が宇和島城(愛媛県宇和島市)の三重天守で、寛文6年(1666)に完成した。藤堂高虎が建てた天守があったが、古材を多く使ったため老朽化が早かったようで、幕府に修理の名目で届け出て全面的に新築された。平和な時代に建ったので、優美な一方で戦闘的な要素は比較的少ない。
その次に新しいのが丸亀城(香川県丸亀市)で、弘前城と同じく天守代用の「三階櫓」と呼ばれていた。丸亀城は元和元年(1615)の一国一城令で廃城になりながら、寛永17年(1640)に讃岐(香川県)の西半分が丸亀藩として独立し、再興された。正保2年(1645)に幕府に提出された城絵図には三階櫓が描かれており、そのころには完成したと考えられている。
そして7番目は丸岡城(福井県坂井市)である。この二重三階の天守はとても古風なので、柴田勝家の養嗣子の勝豊が天正4年(1576)に完成させた日本最古の天守だ、と長年信じられていた。ところが、平成27年(2015)からの学術調査で、酸素同位体比年輪年代調査や放射性炭素年代調査を行った結果、寛永3年(1626)以降に建てられたことが判明した。
建築年代が半世紀も下ってしまったのだ。
また、昭和23年(1948)の福井地震では、天守台の石垣もろとも倒壊している。幸いにも戦前に行われた解体修理の詳細な記録が残っていて、昭和30年(1960)にもとの部材を極力使って(柱の約67%は江戸時代のもの)再建されたのだが。
■国宝5城と重文7城の違い
ここまでの7天守はすべて国の重要文化財にとどまる(重文7城)。それらの最大の共通点は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅んで以降に建てられたことだ。すなわち、武家諸法度で城の修理さえ厳しく監視される平和な時代の産物で、戦国末期から急速に進化した築城技術が停滞してから誕生した。
また、弘前城と丸亀城は、江戸時代には天守と名乗れなかった。備中松山城と丸岡城はともに二重とかなりの小ぶりで、片や倒壊寸前まで放置され、片や地震で倒壊している。四重以上は高知城だけだ。
では、国宝5城は上記の重文7城とどう違うのか、以下に見ていきたい。5つのなかでもっとも新しいのは、ほかの4城に遅れて平成27年(2017)に国宝になった松江城(島根県松江市)の四重天守である。
国宝指定のきっかけは、天守地階の柱に打ち付けた祈祷札の発見だった。
そこには「慶長拾六年」「正月吉祥」と書かれており、慶長12年(1607)ごろに工事が開始され、同15年(1610)末までに完成し、翌年正月に完成祝いの祈祷が行われたとわかった。要は、「じつは新しかった」という可能性がなくなったため、国宝になれたのだ。
慶長15年といえば、戦災で焼失した名古屋城天守より2年近く古い。徳川家康が大坂城包囲網を整備中で、ふたたび戦乱の世がくると信じられていた時代だ。松江城天守も地階からして多くの狭間が開けられるなど防御が徹底し、地階には籠城用の井戸まである。
しかも現存12天守のなかで、1階の床面積が姫路城に次ぐ2番目、高さは姫路城、松本城に次ぐ3番目という堂々たる規模である。
■知られざる彦根城のかつての姿
次に新しいのは世界遺産でもある姫路城(兵庫県姫路市)だ。羽柴秀吉が築いた城を、関ヶ原合戦後に入封した池田輝政が大幅に改修し、天守は慶長14年(1609)、すなわち松江城の1年ほど前に完成した。狭小な姫山の山上に口の字型の天守台を築き、四隅には五重の大天守と三重の小天守3棟を置き、二重の渡櫓で結んだ連立式天守の美しさは、いまさら強調するまでもないだろう。
現存12天守のうち五重なのは姫路城のほかには松本城だけ。姫路城大天守の高さは31.5メートルと、12天守中で最大規模を誇っている。
国宝5城で3番目に新しいのは彦根城(滋賀県彦根市)の三重天守だ。
この井伊家の居城は大坂城包囲網の一環として、慶長9年(1604)から諸大名に工事を負担させる天下普請で築かれた。天守は2年後の慶長11~12年(1606~1607)に完成したと考えられている。
ただし、オリジナルの建築はもっと古い。関ヶ原合戦で西軍に攻められても焼け落ちなかった大津城(滋賀県大津市)の天守を、家康が「めでたい」といって彦根に運ばせ、四重か五重だったのを三重三階に縮めたというのだ。だから、とくに南北から見ると、上部を切り詰めたようなどっしりした構えをしている。
■関ヶ原合戦以前に建っていた松本城
いよいよ最古の2つである。どちらが古いか、いまだ決着はついていないのだが、2番目に古いのが松本城(長野県松本市)としておく。内堀越しに眺めると、左に乾小天守、右に辰巳附櫓と月見櫓を従える漆黒の五重天守は、翼を広げた鳥のようにダイナミックで美しい。
先ごろ松本市が建築木材の年輪年代調査を行ったところ、大天守と乾小天守、辰巳櫓は文禄3年(1594)から慶長2年(1597)ごろに建てられ、月見櫓のみが寛永3年(1626)ごろに増築されたことがわかった。大天守の建築年代を慶長20年(1615)ごろとする向きもあったが、これで関ヶ原合戦以前の建築であることは確定した。
これで、もう1つしか残っていない。犬山城(愛知県犬山市)である。
二重の大入母屋の上に小さな望楼を載せた三重天守で、スタイルが古風であるがゆえに、建築年代はさまざまに取り沙汰されてきた。それが令和3年(2021)、木材の伐採時期を年輪年代法で測定した結果、天正13~18年(1585~90年)ごろに築かれたことがわかった、と発表されたのだ。
ところが、広島大学名誉教授の三浦正幸氏はその後、その時期に伐採された木材を使って美濃金山城(岐阜県可児市)に建てられた天守が、慶長6年(1601)に犬山に移築されたという見解を発表した。オリジナルは犬山城のほうが古いが、仮に移築されたのなら、犬山城の天守として建ったのは。松本城より少し新しいことになる。だが、その辺りは誤差ともいえる。
■もし次に国宝になるなら「この城」
いずれにせよ、国宝5城は重文7城よりあきらかに歴史があるのだ。しかも、重文7城は城の衰退期に建ったのに対し、国宝5城は大坂の陣以前、すなわち事実上の戦国時代に建てられた。そのことは天守の規模にも表れている。5城と7城の間には、大きな開きがある。
昭和20年まで残っていた名古屋城、岡山城、広島城、福山城の天守が、戦災に遭わずに残っていたら、まちがいなく国宝になっていただろう。名古屋城は徳川家康が建てた史上最大規模の天守で、岡山城は宇喜多秀家、広島城は毛利輝元という大大名が建てた関ヶ原以前の華麗な天守だった。
福山城天守は元和8年(1622)の建築だから大坂の陣以後だ。しかし、この城は西国の大名に目を光らせる目的で築かれた最後の大規模城郭で、高さ26メートル余りの天守も逓減率が市場もっとも低い最新鋭の建築だった。そして、焼失したこれら4天守はいずれも5重だった。
大大名が築いた大城郭がある都市は、空襲の標的になりやすかったから、これらの天守も失われた。一方、比較的小さな町の小ぶりの天守は、空襲には遭いにくかった。残された天守のなかでは姫路城は別格だが、残りの国宝4城も、歴史を見れば国宝の価値がある。今後、重文7城のどれかが国宝に指定されるとしたら、初期の天守の形態をよく伝え、本丸全体が残っている高知城だろうか。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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